1. 荷馬車と秋と魔法使い
遥か上空で薄い雲が棚引き、夕日に照らされて紅く輝いていた。その高い雲の辺りを、ほうきに跨り飛び交う数人の人影があった。
あれが、噂に聞いた魔法使いか……。
あたしは荷馬車に揺られながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。
食肉処理場、すなわち屠殺場に豚を移送する荷馬車。あたしはその荷台の檻に閉じ込められ、明日は食肉に加工される運命の豚達の一匹であった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。あたしは半年前まで魔法使いなど居ない普通の世界で普通に大学生活を送る、普通の21歳女子であったのだが……。
***
半年前、養豚用に調合された飼料を食べている時にふと思い出した。自分が直前まで通学電車を待っていたことを。
通学時間はいつも、その駅はホームからはみ出しそうなほど人が溢れている。
ホームの端から落ちそうで怖いので普段は列の先頭には並ばないようにしているのだが、その日はたまたまあたしの目の前で電車が満車になったため、列の先頭で次の電車を待つハメになってしまった。更に運の悪いことに、たまたまそこに中学時代の同級生が居合わせ、彼女が面白い話を始めた為に、さりげなく列の後ろに回り込むタイミングも逸してしまった。
突然、列の後ろの方で喧嘩が始まった。
「私の体、触ったでしょ!」
「おまえみたいなババア、誰が触るか。ばーか」
「最低の痴漢」
「だれが痴漢だ、この野郎」
電車が入ってくる直前の人がぎっしり詰まったホームでは、隣で喧嘩されても逃げられないため、喧嘩が勃発したのが少し離れた場所でヨカッタ、と安堵したのだが……。
ドン、という振動音がした後、あたしの後ろの人が倒れてきた。男性と喧嘩していた女性が突き飛ばされ、将棋倒しにあたしの後ろに並んだ人々をなぎ倒したらしい。あたしを含めて列の先頭に立っていた数人の乗客が、将棋倒しに押し出される形でホームから線路に落ちた。
丁度電車がホームに入ってくるタイミングであった。
あたしの上に折り重なったOL風の女性は明らかに気が動転していた。悲鳴を挙げるだけで、全く動こうとしないのだ。しかもその女性は体格が良く、あたしは女性と線路に挟まれて身動きが取れなくなってしまった。
火事場のなんとやら、か何かは知らないが、電車の大きな鉄輪が目前に迫り、もうダメだとあきらめかけた瞬間、その女性は弾かれたように隣の線路に跳んで難を逃れた。そして次の瞬間、車両の左右の両輪があたしの首と腰の辺りを通過した。
途端に周囲の景色が激しく回転を始めたのを覚えている。
鉄輪とレールに挟まれた人体は、車両の重量に負けて容易に千切れる。ただし人間の脳は、首を切断しても途端に活動を停止する訳ではなく、血中の酸素濃度が下がって初めて意識が消えるのだそうだ。
後で思えばあの時は、電車に千切られたあたしの生首が激しく転がっていたのだろう。体の方はどうなったか判らない。
うそだ、これは現実じゃない……
いやだ、まだ死にたくない……
激しい痛みに襲われながら、頭の中だけが、すごいスピードで回転していた。
前世の記憶で思い出せるのはここまでだ。
***
気が付くと荷馬車の御者の横にさっきまで上空を舞っていた魔法使いの一人が降り立っていた。御者は、まさか生きている間に文字通り雲の上の存在である魔法使いと話をする機会があろうとは思わなかった様子で、興奮して息もつがずに話しまくっていた。、
魔法使いは黒髪の若い男だった。滑らかで艶のある黒いローブ、しなやかな皮のブーツはいかにも高級品で、この人物の身分の高さを示していた。顔立ちは少々下膨でハンサムとは言い難かったが、まだ幼さを僅かに残した表情は……まあギリギリ可愛いと呼べないこともない。それに、優しい目をしている。
この人なら絶対にあたしを助けてくれる。
なぜかその時あたしには、不思議な確信があった。
あたしは必死に声をあげた。このまま食肉加工されるのは嫌。もちろん人間の言葉はしゃべれない。喉から出る音はしょせん豚の泣き声だ。それでもなるべく悲しく切ない泣き声をあげ、懸命に「助けて!」をアピールした。
魔法使いがちらっとこちらを見たので、あたしだよ、と前足を振って見せた。少なくとも今死ぬのはイヤだ。今回の生では前回以上に何もなしていない。これでは何のためにもう一度生まれてきたのか解らない。
神様も何のつもりで21歳女子にわざわざ第二の生を与えながら、すぐ殺されることが判っている養豚場の豚に転生させたのだろう。訳か判らない。普通、転生っていったら英雄か、特別な能力か、せめてスローライプを約束してくれるもんじゃないの!?
しかし必死の訴えも空しく、魔法使いは直ぐにあたしから目を逸そらせてしまった。しかも隣の豚が「うっせーよ」とばかりに体当たりをかましてきたので、それ以上のアピールはできなくなった。
あたしは「ごめんね」の意思表示としてその豚に鼻を付けた。
その豚も「まあ、おめえなら許してやる」という感じで鼻を付け返してきた。
向こうを向いている魔法使いには思いっきり顔をしかめて舌を突き出してやった。
おめーに期待したあたしがバカだったよ、と。どうせ見てないけど。
「食肉処理場はこの豚一匹をいくらで買い取るんだ?」
魔法使いが御者に聞いていた。
「たった5,000ペルーらしいっすよ。原価ギリギリだって、牧場のオヤジがいっつも愚痴ってますわ」
「じゃあ、10,000ペルーでこの中の一匹を俺に売る気はないか?」
「ははっ、いい話っすね。でも自分は単なる運送業者なんで、お客の商品を勝手に売ったら仕事失っちまいますよ」
御者は上機嫌であった。
「あの一番後ろに積んでる元気な豚、筋肉質で旨そうだねえ」
魔法使いが言った。
ん? あたしのことか?
「おっ、お目が高い。あれは王室に献上する豚肉らしいっすよ。あれはさずがにもっと高いんじゃないっすか」
御者があたしを見て憎々しげ言った。
御者があたしを嫌うのにはちょっとした経緯がある。
荷馬車にあたし達を乗せる際、この御者は豚の扱いを知らないのか、豚を一匹一匹蹴飛ばして無理矢理通路を進ませようとしていたのだ。それでも一匹目は賢い子で、事態を察知して荷台に進んだのだが、二匹目は怯えて縮こまり、全く動かなくなってしまった。
「とっとと進みやがれ。こっちは時間がねえんだよ」
御者はその豚の皮がはがれ、血が滲むのもかまわず豚を鞭打ち、蹴り続けた。養豚業者の従業員が「早くしてくれよ」と、言いながらため息をついていた。
見てられなかったので、あたしは御者に体当たりをかまして御者の暴力を止めた。尻もちをついて茫然とする御者を後目にあたしが荷台に乗り込んで見せると、縮こまっていた豚をはじめ他の豚達もぞろそろとあたしの後をついてきた。
豚は本来集団生活を送る動物である。リーダー格が進めば残りのメンバーはそれについていくのだ。だから暴力など使わなくとも、慣れた運送業者ならうまく先頭の一匹を導くことで全ての豚を荷台に乗せてしまう。
あたしが御者に体当たりをしたことで、他の豚はあたしをリーダー格と認めてくれたようだった。
「レーナはやっぱり頭がいいね」
従業員と一緒に様子を見ていた牧場主の息子が言った。御者はどうもこの一言も気に食わなかったらしい。
すべての豚が荷台に乗り込むと、御者はわざわざ荷台の後ろに回り、あたしのことを何度も蹴飛ばした。
「この野郎! 人間様をなめんじゃねえ!」
あたしが体当たりをかましたことを非難しているのか、それとも自分にできなかったことを豚ごときに実現されてしまったことが悔しかったのか……。しかし牧場主の息子が自分の父親にそのことを告げ口するとは思わなかったのだろうか?
御者が蹴り疲れた頃、牧場主が怒り狂いながら飛んできた。
この豚が王室への献上品であること、御者の所属する運送グループには今後二度と仕事を回さないつもりであること牧場主がを告げると、御者は平謝りに謝った。結局、今回の運賃は御者の自腹払いとすることでなんとか話が収まったようだった。
へえ、あたしって、王様への献上品だったんだ。
その時初めてあたしは養豚場でのあたしの扱いが他の豚よりちょっと良かった理由を納得した。