閑話・その1
ユウたちが自分たちの拠点を作り始めた頃。
もちろん地球上の他の場所にも生存者はいて、それぞれに活動していた。
彼らの中には、いろいろなタイプがいた。
避難所的生活を脱し、家族や友人たちの生き残りと独自活動を開始した人々。
家族や友達の安否がわからず、それを確認するために旅をはじめた人々。
あるいは、食料生産のための模索をはじめた者たち。
さまざまな理由で、ただゾンビから逃げたり、戦うだけでない生活を始めていた。
自分たちなりの秩序の再構築を目指している者たちはいた。
だがそれとは別の流れもあった。
【タイ王国・バンコク】
『──』
廃墟と化したバンコクの一角にある小さな鉄筋ビル、そのひとつの屋上。
そこに、人とも豹ともつかない異形の娘がひとり、じっと町を見ていた。
彼女は全身がヒョウ柄で、ただ目だけが元の人種を思わせる青に輝いている。
副乳まであるその姿はまるで二本足で立ち上がった豹そのもので、長い尾まである。
ただし、超短いパンツやチュニックのようなものが乳房や股間をかろうじて隠しており、そこに人間としての文明の匂いがある。
彼女はじっと町を見ていた。猛獣が獲物を伺うというより、冷静に町の様子を観察しているようだった。
『!』
ピクッと彼女の耳が反応したところで、背後で気配が動いた。
いつのまにか彼女の背後には、音もなく大きな黒豹──こちらはオスのようだ──が現れている。
『ディー』
『どうだミュウ?』
『どうやら撤退したみたいだけど、まだわからない』
タイ語で話しかけてきた黒豹──ディーに、彼女──ミュウもタイ語で返した。
『はあ、しつこい連中だまったく』
ぼやく黒豹に、彼女は口元だけを笑うように歪ませた。
『姿が変わったからって一方的に殺すなんて、ひどい話よねえ』
『まったくだ。
だいいち、俺たちの姿が変わったのは、あのゾンビどもを狩り続けたせいだろ。
てめーらでやらせといて、今度は排斥とか、ふざけんなっての!』
『だねぇ』
ディーの指摘に、ミュウは苦笑した。
タイは仏教の国と言われるが、全ての人が仏教徒というわけではない。
ゾンビが広がり秩序が崩壊していく中、市街の奥深くに孤立してしまったキリスト教会の人々が、同じく孤立している子供たちを保護した。
彼らは生き残るため、老いも若きも一緒になって市街のゾンビを始末し続け、ついには彼らの住む首都バンコクの一角のみであるが、ゾンビのいない安全快適な空間ができあがったのである。
そこまでは良かった。
ところがゾンビと直接戦い続けた者たちの中から、身体能力などが異常に高まったり、不思議な力が使える者が現れた。
それがこのふたりだ。
なんと、ヒョウの獣人ともいうべき姿に変わってしまったのである。
ふたりは驚いたが、ひとりぼっちではない事、そして各種能力が高まった事もあり、パニックに陥るような事はなかった。
しかし周囲の人間は劇的に反応した。
原因が精霊にあると知らない彼らは、半獣の姿になったふたりを畜生道に堕ちたと考えた。
彼らは周囲を巻き込み、ふたりを排斥にかかったのである。
微笑みの国といわれるタイだが、住んでいるのは生身の人間。もちろんいいところも悪いところもある。
特に厄介なのは、よくわからない災難に見舞われた者を見ると、前世の罪のせいだと見る考え方だ。
もちろんそれは古い時代の考えなのだけど、たまたま覚えている者たちがいた。
そして、獣の姿に変じたふたりを排斥しはじめた。
つまり。
限りある食料を少しでも得るため、彼らは「前世で罪を犯した者たちに食料はいらないのではないか」と言い出したのである。
皆の平和のために多大な貢献をした二人に対し、やってはならないはずの事だった。
もちろん、ふたりの業績を知る人がふたりをかばった。
しかしミュウが襲われた事でディーが激怒、犯人を皆の目の前に引きずってきて、それに指示した、笑顔でしらばっくれる黒幕の目の前で、次はおまえだと言わんばかりに首をはねた。
これにより排除しようという流れは止まったが、あきらかに教会の空気がよそよそしくなった。
もう自分たちの住む場所ではなくなったと判断した二人はコミュニティをあとにしたのだが、追手がやってきて……というのが流れのようだ。
『そういやミュウ、チャオプラヤーのお坊様に聞いたんだけどさ』
『?』
『日本のイズってところで、面白いことがあるらしい』
『……面白いこと?』
意味のわからない話に、ミュウは首をかしげた。
『ニュースなんて止まってるよね?どうして日本のニュース?』
『精霊様に聞いたんだと』
『……えーとたしか、精霊の声をお聞きになったんだっけ?』
精霊というのはタイの宗教で、日本で言えば神道や八百万の神など、仏教とは異なる存在だ。大きなホテルや建物には必ずピーを祀る祭壇などがあるあたりも日本の神棚などに似ている。
タイ・イセタンの前にあるものは日本人観光客にも有名だろう。
しかし、仏教の僧侶がなぜ精霊の声を?
『わかりやすくピーといっているだけで、お坊様の話では違うらしいよ。
お坊様は子供の頃から見る事ができたそうだけど、見るだけでなく話せないかと昔から思われてたんだって……で、この一年ばかりの間にとうとう、お話もできるようになってきたそうだよ』
『……』
『で、その精霊様がおっしゃるには、日本のイズにも話せる方がいらっしゃるんだってさ。
その人はお坊様でなく一般人だけど、精霊様とお話できるらしい。
しかも、その人だけでなく他にもいて。
さらに、俺たちみたいに猫耳と爪、立派な尻尾があるひともいるそうだよ』
『それホント?』
『疑わしいのはわかるけど、あのお坊様がウソをおっしゃると思う?』
『……それはそうね』
ミュウは目を剥いて、そして「むむむ」と考え込んだ。
タイの仏教僧は厳しい戒律の中に暮らす特別な存在だが、ふたりはそれ以上に敬意を払っているようだ。
『それで話の続きなんだけどね。
イズの地にはゾンビから逃げてきた、いろんな人ならざる人たちが集まりつつあるんだってさ。耳の長いエルフ族とか、狼みたいなひと、下半身が蛇の女とか、異形の住人がたくさんね。
イズの地からゾンビを排除して、そういう「人ならざる者たち」の安住の地を作ってるんだって』
『……そう』
ミュウはためいきをついた。
容姿のせいで問題を抱えているふたりとしては、夢のような話だった。
しかし。
『おもしろそうな話だけど、日本じゃあ遠すぎるわ』
夢は所詮夢だと、ミュウは吐き捨てた。
日本だって?
そんな遠い国に楽園があるからって、どうしろというのか。
ショウウインドウの中のトランペットを見た貧しい少年のように、ただガラスに手を置いて泣けというのか。
いや、ショウウインドウならガラスを叩き割って盗むという選択肢もあるかもしれないが、それすら許されないではないか?
しかし。
『いや、それなんだけどさ。連絡とる方法があるんだってさ』
『どうやって?』
『お坊様の話だと、精霊様は距離とか関係ないんだって。連絡とるくらいならできるって。
しかも、向こうにはもしかしたら海を渡る手があるかもだって』
『……ねえディー』
『わかってる、いくらなんでも虫のいい話すぎるってんだろ?
それで提案なんだけどさ、お坊様にお願いしてみないか?連絡つけてくれって』
『……ダメ元で頼んでみようっていうのね?
だけどわたしもディーも、お坊様にお願いするお布施なんて払えないよ?』
『それはお坊様に腹を割って相談するよ。こんな世の中だし』
『……そうね』
ふたりは顔をつきあわせて。
そして結局、その僧侶に相談してみる事にした。
タイの女の子の名前: ラットリー。あだ名はミュウ(Meow)
タイの男の子の名前: バークリック。あだ名はディー(D)
タイ人は縁起を担いだり節目などで比較的頻繁に名前を変えるが、総じて長い名、かしこまった名も多いそうです。
で、さらに普段用のあだ名もあるわけですが、これがわりとすごく適当なケースがあるそうで。
ふたりのあだ名も単に、呼びやすいとかアルファベット学んでたとか、そんな理由でついたものでしょう。




