光る山の伝説 (uroshitok作品集 嘘山行記6より)
昭和XX年2月、バブルが始まる約10年前のことである。
この年は例年に比べて雪が多かった。
快晴の夜であった。
二人の青年が綺羅山の雪路を歩く。青年はSとK、二人は同じ山岳会の仲間である。
「一度、雪洞を経験しようじゃないか」
「よし、やろう」
若者は強く。恐れさえも、はね返す。
綺羅山は、彼等のホームグラウンドである。休日の前日、勤務を終えた後、二人はこの山に入ったのだ。
この山での雪の山道は、夏道とは異なり、どちらかと言えば歩きやすい。間違って登山道を外れぬ限り、アイゼンを装着するだけで、OKであった。
快晴の雪山、風さえもない。恵まれた夜間の登山行である。
「ヘッドライトもいらんな!」
「最高や!」
二人は、次第に高く登り行く。熱した身体とはううらはらに、頬に当たる空気は冷たい。山荘の在る湿原を過ぎ、頂上へ直結するルートに到達する。輪かんじきを装着し、さらに少しばかり登る。
「この辺でどうや!」
「うん、ええやろな」
ルートから、やや右に外れた場所である。
持参したスコップは一本、一人はピッケルを振るう。
深い雪である。風も少し出てきた。軍手の上にミトンをつけた手が冷たい。
ややして「このぐらいにしとこうか?」
「まあ、ええやろ!」
二人が掘ったのは、縦穴の雪洞だった。
風は、座した二人の上を通りすぎる。
用意した防寒装備は、キルティングのジャンバーとオーバーズボンとポンチョと尻皮、それとザックは足部の防寒具になる。また、ガソリン式でホエーブス社製の携帯コンロは、暖房に使える。
Sはガソリンコンロで、スキムミルクを沸かす。砂糖もたっぷり入れている。
突然、ジージーと音が鳴り出す。ピッケルの音であった。雪に突き刺した頭頂部から発する、静かな音であった。
Kがコンロにかざしていた手を動かし、ピック部分を握る。音は止んだ。
「あれっ!」Kが突如、声を出した。手の平が、まるで糊で付けた様に、ピックにくっついたのである。それは、暖かくなっていた掌の水分が、冷えきっていたピックに触れて、一瞬の間に凍りついたのだった。
「すげー寒さだ」
「びっくりするなー」
二人には、これまでに経験したこともない寒さであった。ピッケルを倒し、沸かした、暖かいスキムミルクを飲む。
「明日は、日の出の前に頂上へ行こう。そこで、日の出を待とう」
「うん。ちょっと眠ろうか」
風が、頭の上を通る。高く、満天の空には、星が深く散らばり、冴えている。
Sは疲れのためか、短い間で眠りについた。
しかし、Kはなかなか眠れない。しゃがんだ姿勢、冷えきった身体、環境は酷であった。
時間は過ぎてゆく。Kは眠れない。自らを騙しては、漠然と妄想を続ける。身体は休眠状態に陥り、寒さの感覚も薄れ気味になる。
夢うつつの感覚の中で、雪洞が明るくなった。
ふわりと、白いものが舞い降りてきたのだ。人間である。雪洞の縁にしゃがみ、二人を見ている。
白髪に白髭、白い衣を身に纏っている。顔は黒く、瞳が大きい。
Kはまだ、夢か現実かの判断も出来ない。漠然と、その人物の顔を見ている。痩せた細面に、鼻が異常に高い。日本人ではない。
「あなたはだれですか?」Kは声にならない声を出した。
「私はマー」彼も、声を出さずに語る。
「大丈夫だ、応援している」と。そして安心したかのような表情を残して消えた。
ほんの一瞬の出来事だった。
K自身には、彼の発した言葉も、実際は漠然としていて、本当にそう言ったのかどうかも、我ながら釈然としない。
いかし、先程までの妄想は消え、安らいだ気持ちになっていた。
彼は、我々の行動をよろこんでいる。それは、青年Kの心に、希望の灯のごとく灯った。そしてKもまた、眠りについた。
「寒いのに、よーく眠るなー」Sの声である。
携帯ガソリンコンロで、すでに湯を沸かせている。
「ああ、眠れたなっ!」時刻は5時を回っていた。インスタント味噌汁を解き、目刺しを焼く。アルファ米を膨らます。朝食になる。
「コーヒー飲むか」Sが聞く。
「飲む」Kが応える。
「昨日、不思議な夢を見たんや」Kが言う。白髪白髭で黒い顔の人物のことを話す。
「極限状態では、そんなことも有るらしいよ」Sは理解している様な口ぶりで言った。「良く眠られて良かったな」
「日の出は6時50分ぐらいのはずや、頂上まで、半時間ほどで行けるやろ」
「雪の加減次第やけど、まあそんなもんやろ」本日も晴天である。
綺羅山頂は、標高1200米余り、付近の山よりは頭一つ抜けている。
日の出前の、白んだ明るさの中を、二人は登る。東面からのルート、雪庇の張り出した頂上が眺められる。尾根に出て、北に向かう。目前に頂上があった。
「あれはなんや」Sの声である。頂上を見ている。頂上の雪庇の上に、光るものがある。
「雪じゃないのか、光る雪だ」
「変だな、まだ日の出前や。それに、人影か、何かが見える」影は、光の中で、おぼろげである。
二人は、ゆっくりと頂上に向かって歩む。雪の尾根道は、神々しいばかりに清浄である。
遠く東の山並み、日が昇り出る辺り、急激に明るさを増してきた。
突如、先程からの山頂の光が、空間に躍り出た。
光の中、雲の中で、人影がこちらを見ている。人影は、軽く手を上げたように見えた。
その雲は、東の空に一瞬止まり、日の出の光の中で、紫色に輝き、太陽に向かって消えていった。
「見たか」Sが言った。
「見た」Kが応えた。
不思議な現象であった。
だが、景色も素晴らしい。すべてが超現実的な世界である。
不思議なものが、不思議に思われない、そんな現実であった。
西の山並みに、日の出の直後に長く伸びた、綺羅山頂の影は、次第に短くなってゆく。
「南西稜を通って戻ろうか」Kが言った。
「うん、途中から出雲原へ抜けよう」Sが応えた。
南西稜も雪におおわれ、まばらに伸びた木の枝が、雪面から出ている。西側の切れた崖沿い方向に、雪庇が張り出している。
新雪に、朝日が眩しい。
二人は、色濃いゴーグルを装着する。輝きわたる世界は、冴えた美しい風景へと一変する。
「素晴らしい景色だな」
「最高や」
南西稜の途中で、東へ下り、さらに、もう一つの尾根をも越える。
ところどころ、背の高い立木の生い茂った、出雲原に着いた。立木の間で休息する。
上部から、いくすじもの光芒が、雪を乗せた多数の枝を透して、そそがれている。
Kはゴーグルを外してみた。
そこには、藤色に輝く世界があった。
Kは過去に、これほどに美しく、神秘的に輝く景色を見たことがなかった。
「すごい、この世の世界とは思われない」
ほぼムラサキ色の、モノトーンに輝く世界である。
木の間をとおす多数の光芒には、幅の変化と共に、色にも濃淡があり、例えようもなく美しい。
降り積もった嫋やかな雪面で、散りばめられた最高の宝石が輝く。枝上の雪もまた然り。
見とれるKに「眼を悪くするぜ」とSが言った。
晴天、雪山、朝日。強烈な紫外線による紫銀色の世界。油断をすれば雪眼になる。
「せやな、しかし、ちょっと見てみ」Kに誘われて、Sもゴーグルを額まで上げる。
Kはゴーグルを戻す。
「うん、すごい、こんなのは見たことが無い。来て良かったな」
そしてSもゴーグルを戻す。
動じぬタイプのSにも、強烈な印象である。
「さて、今度は何処をを下ろうかな」
「やっとこ峠、なんかは如何かな」
「うん、そうしようか。うまくゆけば、シリセードで下れるな」
シリセードとは、尻皮で雪面を滑り下ることであって、グリセードと尻制動を併せた、所属する山岳会員の造語である。
やっとこ峠は雪におおわれていた。
「いけるな」とSが言う。
「いこう。左の谷に落ち込まんようにせーよ」Kはやや慎重に応える。
座り込み、ピッケルでバランスをとりながら、Sは一気に下り滑った。
夏道は曲がりくねっているが、今は違う。ほぼ一直線に、かなり下方のなだらかな地点まで下りきった。Sは、そこに、わざとらしく倒れて腕を振る。指も丸めてgooである。
慎重なKは、Sの軌跡を滑る。
「簡単やな、早過ぎる下りや」
「雪山は、天候次第やな」
さらには、平坦地。時間をかける。
山麓、谷の出合いに小屋がある。出合小屋と呼ばれていた。昨夏、Kは、ここで素泊まりをした。簡単な食堂も兼ねている。その時、お茶を出してくれた老人が今日もいた。
他に客はいない。
二人は、玉子うどんを注文する。
老人はお茶を出して。厨房へとゆく。熱いお茶が、二人の緊張感を絆してゆく。
「あれは何やったんやろう」お茶をゆっくり飲み干した後、Sが言った。頂上で遭遇した、不思議な現象のことである。
「雪が、風で飛んだだけとちゃうか」とKは、こじつけてみた。
「光ってたし、人影も見えた。あんな飛び方をするものはないぜ」
「それに、朝日の中へ消えた」
「わしは雪洞で、あの人を見た気がする」Kは、私はマーと名乗った、白髪白髭で異相の人を思い浮かべた。
「あれは、悪い奴ではないな。そんな気がする」
「うん、なんか気持ちがいい」
注文に応じて、玉子うどんを運んできた店の老人に、Kがその出来事を話した。
話を聞いた後、老人は言った。
「不思議な出来事ですね。これまで、この山を登山した人達から、そのような話を聞いたことはありません。でも、光る山の話は、昔話として伝わっています」
「そうですか?」Kは興味を示した。
「隣の芦鹿地区に残る話ですが、話ましょうか」
「是非」Sも積極的である。
「単なる、昔話です。子供向けの話かも」そんなに期待しなさるなとの感じでの老人。
「ここからは見えませんが、芦鹿地区からは、山頂が綺麗に眺められます。この昔話は、江戸時代に始まったとも言われていますが、詳しいことは不明です」
そうして、老人が語った昔話の概要は次のとうりである。
晴れた日の芦鹿地区からは、綺羅山頂が綺麗に眺められる。
秋のある日のことである。
陽が落ちて、谷合の集落はもちろんのこと、綺羅山の山頂さえも黒々となる頃、綺羅山山頂が光っていることに、村人達が気づいた。
光りは輝き、明るさは夜通し続き、朝になると消えた。
それは、次の日も、又次の日へと、続いていった。
何が光っているのだろうか?
その原因を確かめるために、村人数人が、明るくなってから、山頂へと登ったのである。
しかしながら、何一つとして、原因らしきものを、見出せなかった。
「光っている時に登ってみなければ、原因となるものは見出せない」
そこで、三人の若者が、日が落ちた後になってから、山頂へと登っていった。とっぷりと暗くなった山道を登って、山頂付近に達した。
だが今度は、光りが眩しすぎて、光源を見つけることすら出来なかった。
「どうすれば、いいのだろう」と村人達は悩んでいた。
ツートと呼ばれる10歳ぐらいの子供がいた。
どこからか、この村に紛れ込んできた少年である。
小さな小屋を与えられて、みんなの世話になりながら暮らしていた。
そんなある日、その少年は、村人に黙って、綺羅山頂へ向かって、登っていった。
まだまだ暗い早朝、おそらくは知らないと思われる山道を、小さな体で、登っていった。
そうして、山頂まで登りきった。まだ、日の出前であった。
同じ日、一人の若者が、ツートに遅れて山頂に向かった。
彼は、薄暗い時刻ならば、山頂の光も弱まり、光りを放つものが何かを、確認できると考えたのである。
彼は既知である山道を登って行った。山頂近くまで登り詰めた時、ツートが光と向き合っていたのに遭遇した。
彼は立ち止った。
「ツート」意外さに驚いて、彼は叫んだ。
ツートは振り向いた。若者を確認して、すぐに光りの中へ入っていった。
光りは、おりからの日の出の輝きと共に消えていった。
若者は頂上に着いた。
東の山並みに、太陽が浮かび出て、眩い光りが彼を照らした。
麓の湖が、煌めきを始めた。
鳥たちの声、小鳥たちのさえずりが、いっそう大きくなっていった。
汗ばんだ彼の肌に、風が流れた。
そこには、何の変化も無かった。
ツートは、いなくなった。
太陽は高く、さらに高く昇る。若者は山を下った。ツートはいなくなったのだ。
村に戻った若者は、この出来事を話した。
村人達は、ツートが神隠しに遇ったのだろう、と思った。そして、その少年を憐れんだ。
しかしながら、それを見届けた若者は、その様には思わなかった。光りの中に入るツートの表情は、親の懐に向かう、子供の様であったから。
その日を最後に、綺羅山上の光は消えた。
「まあ、こんな様な話ですわ」と老人は一息入れた。
「それで終わりですか」とSが問うた。
「いやいや、まだまだ後日の話もあります」と老人。
「子供は、それっきりですか?」とKも聞く。
「いや、そうではないんです」と老人。お茶をすすりながら、老人はゆっくりと語りだした。
その出来事の後、さらに十年余りが経過した。
あるとき、一人の青年が、その村へやってきた。そして自分は、ツートだと名のった。
村人達は、彼が確かにツートであると認めた。少年時代の面影を多く残していた。多くの記憶も残していた。
この村でも、多くの問題を抱えていたが、以前に彼の住んでいた小屋を、今度も彼に与えた。
そんなわけで、ツートは再び、その村で暮らし出した。野良仕事などを主に、直面する村の問題に協力した。
姿を消していた期間についての話はしなかったが、好青年になっていた。
彼が戻ってきた後、多くの問題が好転し解決していった。村人達は彼を認め、協力を信頼して行った。
ツートが光の中に入るのを、目の当たりで目撃した男は、より協力的であった。
彼の名は嘉吉、まだ若いが、村の中心人物の一人になっていた。
ある日の夕刻、嘉吉はツートの小屋を訪れた。
「ツート、君が戻ってから、この村は、ずい分と良くなった。君の行動と判断によるところが大きい。感謝しているよ」と続けて、
「君に、もう少し良い住み家を見つけたい。良い娘も紹介するが、どうだろう、家庭を持たないか」と言った。
ツートは嘉吉の申し出に感謝した。しかしながら断った。「自分は近いうちに、ここを出るからです」と言う理由であった。
「なぜ?」と問いかける嘉吉に、「行かねばならぬ処がある」とだけ答えた。
嘉吉は残念がったが、ツートには何かしら神秘性を感じていたので、深くただすことを避けた。
ある夜のことである。
ツートの寝泊まりしている小屋が光を発した。
あばら屋の隙間を通して、光は村中を照らした。
「えらく隙間だらけの小屋ですね」とSが口をはさむ。
「そういう話なんです」と老人。「昔話なんですからね。仕様がないでしょう」との顔付きである。
その光は、以前に綺羅山頂で光っていた光と同様の光であった。
明け方、その小屋の光が消えた後、ツートも居なくなっていた。
ある村人が言った。
「私は、明け方に近い時刻、小屋の隙間から中を覗いた。中にはツートらしき男が立っていた。光は彼の背後から発していて、その男がツートであるか否かを確信することは出来なかった。光を発しているものも、人の形をしていた」と。
「それは、仏さまだ」と誰かが叫んだ。
ツートは再び去った。
彼や、光をはなつものが、仏様か否かは分からないが、その後も芦鹿の村は平穏に過ぎた。
光を浴びた家々では、病人達が、次々と回復していた。
村人は、寺を建立し、仏を祀り、ツートも祭った。
「これで芦鹿地区に残る昔話、光る山の話はお仕舞いです」と言い
「そろそろ、お客様が見える頃ですので、このへんで」と老人は離れていった。物語は少なからず省略されている感じもあった。
KとSも、山小屋の店を出て、帰路に向かった。
時は経過し、KもSも共に定年を向かへ、それぞれの地へと散らばった。やがて機会があり、久方ぶりに、二人で綺羅山登山をすることになった。
平成X年10月の下旬、よく晴れた日である。
「よっ、元気そうだな」
「いやいやっ、元気そうだな」
どちらからともなく、言葉が出る。
綺羅山の登山路は整備開発されて、リフトやロープウエイまで設置されていた。山肌の一部はならされて、スキー用のゲレンデも造られている。
リフトで、薬師山の中腹まで昇り、ロープウエイ経由で、出雲原まで移動する。出雲原の山荘レストランで昼食をとる。旧交を温めつつ、話も弾む。
「おれは、どーも、いまだに、気になっている事があるんだ」とKが言う。
「光の事、光る山の話の事だろう」Sが応える。
「そうなんだ。あれはいったい何だったんだろう」とK。
「わからんな」とS。
食後のコーヒーを飲み、料金を支払う。
「この付近の案内図か」Kが目にとめた。
レストランの入り口、カウンターの横に、幾つもの案内パンフレットが置かれていた。
「ほぉー」Sが、その中の一枚を手にして、言った。
「芦鹿寺が載っている。この寺は、光る山の話のなかで語られていた、光る仏様とツートを祭った寺、ではないのか」
「多分、そうだと思う。あとで行ってみよう」Kもやや興奮気味に言った。
二人は頂上に向かった。懐かしい登り道であった。
多くの登山客で賑わっていた。
秋の山の昼下がり、登山路が、しっくりと足腰に伝わる。山登りの喜びがここにある。
踏みしめる登山路、傍らの岩や石、草木にも久しぶりの挨拶を送る。私を憶えているか。私は憶えているよと。
そして、頂上に着く。頂上は広く整備されて、景観の良い、行楽地の感じとなっていた。
「すっかり変わってしまったな」と、K。
「うん、時代の流れやな」と、S。
「立山の頂上なんかは、夏場は人の行列でイッパイらしいいよ、順番に入れ替わり登頂らしいよ。ここはまだ、ましなほうや」と、S。
「良いのか悪いのか、なんだかさみしいね。田舎の山などは、そっとして置く方が良いかもね」と、Kも言う。「そやそや」と、S。節度ある社会が今も欠けている。
景色を眺めていたSが言った。
「あれじゃないか? 芦鹿寺は」下方を指さしながら。
北東の谷合に集落がある。その谷合の奥まったところに、お寺らしい屋根が見えた。
Kは地図を見る。
「確かに、芦鹿地区には、他にお寺らしいものは見つからんな」と、Kも同意する。
「屋根が光っているぜ」時に、太陽は、やや西に傾き、綺羅山の影が、その屋根を、まもなく蓋い隠そうとしていた。
「気のせいか、太陽光線の反射以上に、輝いて見えるな」と、Sはやや神秘的な面持ちである。
しかし、綺羅山の影に蓋われると、その輝きも消えていった。
「実は」と、下山の合い間に、Sが話を始めた。「おれは、すこし勉強したんやけど」と。
「「なにを」と、K。
「仏教や。仏の話や」と、S。「ふーん」と、K。
「光るものが、仏様だとすれば、あれは大日如来だな。密教の本尊や。宇宙そのものを顕現する如来様や」
「宇宙そのものか」と、K。
「そや、ま、太陽こそが、この世界を照らす仏様の中心と考えた、昔の人の思想が入っている。つまり、その中心が大日如来様や」
「なるほど」と、Kもうなづく。
「密教という意味は、仏教の中の秘密の教え、という意味や。紀元前5世紀に始まった釈迦の教えは、時を経て、マンネリ化しつつあった。その中で、大乗仏教を基盤として、ヒンズー教などの影響を受けながら、次第に成立していった汎神論的な仏教のことや」
「へー、けっこう難しそうな話やな」
「いや、難しく考える必要はないんや。宇宙の全てのものに仏が存在し、中心が大日如来であり、他の仏様たちは、その分身であるということ。大乗仏教とは、形式よりも、内的・精神的なものを重視しつつ、積極的・活動的な人生観と世界観を持つこと。の教えらしい」
「やっぱり難しい」
「はっはっは、やっぱりそうか。話は元へ戻るが、光る仏は、大日如来あるいはその化身たる不動明王の可能性もあるな」Sは、光の正体を、仏であると決めているようである。
「まっ、そうかも知れんな」と、Kは同意しておいた。
麓には、今も以前と同じく、出合小屋があった。相変わらず、小じんまりしていたが、ログ風に建て直されていた。
通り過ぎるとき、Sが言った。
「あの老人が居るぜ」「まさか?」Kも、開け放たれた店の、内部をのぞき見した。
40年前、二人に、光る山の伝説を話した老人に、そっくりな老人がいた。客らしい若者と話をしている。
「あの老人の息子やろ」と、Kは言った。
「せやろな。それにしても、よく似ているな」と、S。
そして、二人は、山小屋の前を通り過ぎた。
山麓にある駐車場、Sの乗用車に乗る。KはJRで来たのだ。パンフレットを開き、芦鹿寺への進路を求める。「近いな。駐車場もあるようだ」Sは車を走らせた。
程なく、芦鹿地区に着く。地区から眺める綺羅山は、その頂上が、見事な三角錐で、青空に映えている。
「いい場所だな」と、Kが言う。
「伝説が生まれる場所か」Sも思う。山門の前に駐車場があり、駐車する。石段の前、狭い場所である。
古い山門を抜ける。
右側に玄関がある。住職の住屋らしい。
正面にもう一つ、石段があり、その向こうに本堂らしき建物がある。
村人らしき中年の男が、本堂横で作業をしている。
石段を上がり、前へ進む。本堂の扉は閉ざされている。
男は、土庭を竹箒で掃いている。
Sは男に声をかけた。
「本堂は開かないんですか。仏様を見ることは出来ませんか」
男は二人を見た。一呼吸おいて、言った。
「ただ今、開けます。ごらんになってください」男は住居へ戻った。本堂の扉を開く鍵を取りに。
「自分は、寺の住職です。仏様に興味をお持ちですか」扉を開けながら話す。
「ええ、ちょっとばかり」と、Sが応える。Kも笑って、相槌をうつ。
「近頃は物騒なもんで、こうやって閉めているんですよ」
扉が開き、内部に入る。蛍光灯が灯されるが、暗い。
正面、上段に本尊があり、左右には何体かの像が置かれてる。
「普段は、お灯明を点けるのですが」と、住職が懐中電灯で照らす。
「本尊は、大日如来仏です」住職の照らす明かりの輪の中で、大日如来仏が印を結んで座している。
「予想どうりだ」とS。
向かって左に、少し離れて、座像が一体。「釈迦如来です」と住職。仏教の開祖である。紀元前5世紀に現れた人である。
本尊により近く、向かって左前方には、憤怒の形相をした不動明王の立像がある。
向かって右側には、一段低い段に、二つの立像が置かれている。
住職が照らす。本尊、次いで、向かって左の像から右の像へと。
右の像の、より奥の像を照らす。
衣をまとい、頭巾を被っている。この像、仏形ではない。頭巾の下に、鼻の高い、異相の顔が照らし出される。
「マーだ」と、今度はKが声を発した。彼が雪洞の中で遭遇した人物と酷似していたからである。
「えーっと、この像に関しては、よくは分かっていません。一説によりますと、紀元前三世紀ごろ、インドで栄えた、マウリヤ王朝の、アショカ王の命を受けて、仏教を広めるために、東方に派遣された人々に繋がる人であると、言われています。また、七世紀に、インドから中国大陸と朝鮮半島を経て、紫雲に乗って、日本へとやってきた、法道仙人である、とも言われています。法道仙人は、主に、現兵庫県の、播磨や丹波での痕跡が多いです。我々は、彼をカラス天狗と名付けています」と、住職は、さらに続ける。
「南インド地方には、日本語に類似した言葉が、幾つもあります。これは古い時代に、南インドから渡来してきた人が、持ち込んだ、いわゆる外来語だったのかもしれませんね」
「ずいぶん古い像なんですね」Kが訊ねた。
「木造ですから。この像、そのものは、新しいものです。旧い像の再現です」
「日本に仏教が伝来したのは、六世紀の頃、と言われていますが」Sが疑問を呈した。
「そうです。しかし、それ以前に、持ちこまれたかも知れません。それを否定する物もありません。歴史上には、文字や言葉などを含めて、痕跡の極めて少ない事柄も多く存在する筈です。想像の世界に近いですが」と。住職の言葉には説得力がある。
さらに、五体目の像は、役ノ行者(役ノ小角)像であった。山岳修験道の開祖である。
ツートの像は無かった。彼は、ここでも、消えたのか。
薄暗い、芦鹿寺の本堂内、五体の黒い像がたたずむ。
Sは住職と連れ立って、入口扉へと向かう。
遅れて、後から向かうKに、ふっと、何かの気配が伝わった。
Kは、振り返った。
五体の像が、彼を見つめていた。
Kの全身に、ぞくっと、霊感が走った。
思いがけず、Kのテレパシーが叫んだ。
「あなた方は、蝶ケ山で出遭った、アンドロメダやペルセウスやアストレイア達の仲間ですか」
「そのとおりです」
大日如来がテレパシーで答えた。
(改訂版 終わり 2019.01.10)