78話 心の穴
瑞希は自分が学校に登校しないのに、朝、早く起きて、僕のお弁当を作って、朝食を作ってくれている。その気遣いが嬉しくて、つい後ろから抱きしめてしまう。瑞希から良い香りがして、僕は瑞希を離したくない。
「朝から、何を甘えてるの。学校に登校しないとダメだよ」
瑞希から甘い声でお叱りの言葉をもらうが、もちろん瑞希の本心からの言葉でないのはわかる。だって瑞希も僕の腕をギュッと握り締めているんだから。
2人で朝食を食べて、制服に着替えて、僕1人で学校に向かう。隣に瑞希がいるのが当たり前になっていた僕には、まるで半身がなくなったような喪失感に襲われる。もう瑞希は僕の一部になっていたんだな。
そんなことを考えながらノロノロと学校へ登校する。教室に入って自分の席に座ると、芽衣が心配そうな顔で僕の前の席に座った。そして僕の瞳を覗き込んで来る。
「今日は学校に来ただけでも合格点って言う感じね。授業は頭に入らないだろうけど、頑張るのよ」
僕のことを気遣ってくれる言葉が嬉しい。さすが芽衣だ。僕のことをよく知っている。隣の席から咲良が声をかけてくる。
「蒼、おはよう。今日は学校に来ないかと心配したよ。来てくれて安心した。今日は席に座っているだけでいいから、頑張ってね」
咲良も僕を応援する言葉をかけてくれる。2人には気を遣わせて、本当にごめん。学校から帰れば、瑞希に会えることは頭ではわかっているんだけど、上手く感情をコントロールすることができない。心の中にぽっかりと大きな空洞が開いたみたいな状態だ。何も考えられないや。今日はこのまま過ごすしかないだろう。
朝のHRが始まった。ダル先生が教室に入って来て、教壇に立つ。そして僕を見ると珍しく、ダル先生から声をかけられた。
「蒼大、顔色が真っ青だぞ。教室内で倒れるなよ。倒れる前に保健室に行けよ。体調が悪そうだからな」
ダル先生にまで心配されてしまった。そんなに酷い顔をしてるのかな。自分では気づかないや。
午前中の授業が始まった。科目担当の先生も僕のことが不気味なのか、僕に問題をぶつけてくることはなかった。
午前中の授業が終わり、僕は自然とお弁当をもって、校庭の中庭のベンチに1人座ってお弁当を開く。いつも一緒にお弁当を食べていた瑞希の笑顔と姿を思い出す。お弁当を食べる箸が進まない。
僕はお弁当を食べながら、いつの間にか涙を流していた。我ながら情けない。でも涙を止めることができない。せっかくの瑞希のお弁当の上に僕の涙が落ちる。せっかく瑞希が朝から早起きをして、お弁当を作ってくれたんだ。食べないと瑞希に申し訳ない。
お弁当のおかずのハートマークを見る度に切なさが込み上げてくる。本当に切ない。そして寂しい。僕は1人でゆっくりとお弁当を食べる。そしてフラフラと立ち上がって教室へ戻る。クラスメイト達も何かを察しているのだろう。僕に話しかけてくる者はいなかった。隣の席の咲良が僕に声をかけてくる。
「蒼を見てると心が苦しいよ。私まで泣けてくる。蒼は今日、すごく頑張ったよ。もうこれ以上、授業を受けるのは無理だよ。保健室へ行って寝てきなよ。少しは寝ると心が落ち着くと思うし、蒼は琴葉ちゃんと仲良しだから、琴葉ちゃんが話し相手になってくれるよ」
そうだな。これ以上、咲良に迷惑をかけられないな。保健室に行った方がいいだろう。僕はフラフラと立ち上がると保健室へ向かった。そして保健室のドアを開けると、琴葉ちゃんがお弁当を食べているところだった。
大人の美女がおかずを頬張って、一生懸命にお弁当を食べている姿を見るのは結構、レアなような気がするが、今の僕にはそのことに突っ込む元気もない。
琴葉ちゃんも僕の顔を見て、状況を察したのか、保健室のベッドを指差した。「ベッドで寝なさい」ということだろう。僕は素直に琴葉ちゃんの指示に従ってベッドの中へ潜り込むと、頭からすっぽりとベッドの中に入って体を丸める。
琴葉ちゃんは急いでお弁当を食べ終わったようだ。そしてベッドに近づいて、布団の上から僕の背中をさする。
「たった1日、離れただけで、この状況なのね。私もそこまで誰かに愛されてみたいもんだわ。でも、これから1年以上、瑞希ちゃんに会えない日々が続くのよ。こんな調子で1年間を乗り切れると思えないわ。少しはしっかりしてちょうだい」
そうだ。今はまだ家に帰れば瑞希がいる。瑞希の笑顔が見える。瑞希のよい香りに包まれることもできる。瑞希を抱き寄せることもできる。でも瑞希が大学に合格して都会へ行ってしまえば、瑞希は引っ越しして、僕の家からいなくなる。僕の前からいなくなる。本当に何もなくなる。僕は琴葉ちゃんの言葉でそれを自覚した。
「私も瑞希ちゃんの代わりになってあげたいけど、私は琴葉だもんね。瑞希ちゃんの代わりにはなれないよね。でも、いつでも蒼ちゃんのことを見守っているから、いつでも保健室に来ていいのよ」
琴葉ちゃんが優しい言葉をかけてくれる。本当なら何か返事をしないといけないんだろうけど、僕は何も考えられず、言葉も出てこない。琴葉ちゃんに背中をさすってもらって、体を丸くしているだけだった。
「せっかく保健室のベッドに寝ているんだから、少しは眠りなさい。寝たら少しは心も軽くなるかもしれないわ」
琴葉ちゃんはそう言うと、ベッドから離れていった。僕は浅い眠りにつく。
目覚めた時には放課後になっていた。僕の鞄がベッドの枕元に置かれている。琴葉ちゃんに聞くと咲良と芽衣が持ってきてくれたらしい。2人には感謝の言葉しかない。
琴葉ちゃんが「まだ寝ていなさい」というので言葉に甘えて、もう少し寝ていることにした。寝ている間は辛いことを考えなくてすむから。少しだけ眠ってから僕が目を覚ますと、枕元には瑞希が座っていた。そして僕の髪を優しく撫でてくれている。
「琴葉ちゃんから連絡をもらったの。私が1日いないだけで、こんなになっちゃうなんて、蒼は私にメロメロだね」
瑞希は優しく微笑む。そうだよ。僕は瑞希なしでは生きていく自信がない。これから先の1年間を考えると心に空洞が開いてしまって動けなくなる。
「私も1人で都会に行くと、蒼みたいになるのかもしれない。たぶん、そうなる。だから、なるべく蒼の顔を見に帰ってくる。帰ってくるしか方法がないから。私も頑張るから、蒼も頑張って」
そうだ。状況は瑞希も一緒だ。僕だけが辛い訳じゃない。瑞希も辛いんだ。僕だけ殻に閉じこもっていては、瑞希に心配をかけるだけだ。それはしたくない。瑞希にはこれ以上、心配をかけたくない。これ以上、心配をかけたら、瑞希は大学受験をやめてしまうかもしれない。瑞希の未来を僕が潰すことになる。それだけはイヤだ。
僕はノロノロとベッドから上半身を起き上がらせて、瑞希に笑いかける。ここは笑わないといけない。微笑まないと瑞希が心配する。瑞希が悲しむ顔を見たくない。僕は必死で微笑んだ。
琴葉ちゃんが僕達の近くへやってきた。
「さすが瑞希ちゃんね。蒼ちゃんが必死に起き上がってきたわ。私ではこうも上手くできないわね。本当に妬ける2人だわ。こんな生徒を今まで見たことないわよ」
琴葉ちゃんはわざと頬を膨らませて、この場の雰囲気を和らげてくれようとしているのがわかる。ありがとう琴葉ちゃん。
僕はベッドから立ち上がると、瑞希が僕と手を繋いだ。2人で琴葉ちゃんに深々と礼をして保健室を後にする。校舎を出て、校門まで行くとマーくんとタッくんが僕達を待っていた。
「蒼大、しけた面してるな。芽衣ちゃんから事情は聞いた。親父からの伝言だ。今日のバイトは休んでいいってさ。俺もそのほうがいいと思う。お前がいない間は俺とタッくんでホール周りをするから心配すんな。元気になったら顔を見せろ」
マーくんがぶっきらぼうに、僕にマスターからの伝言を伝える。マスターの気遣いに頭が下がる。そしてマーくんとタッくんの心遣いが心に染みる。そしてまた芽衣が僕を助けてくれた。ありがとう芽衣。
「芽衣ちゃんにありがとうって言ってもらえると嬉しいわ。今日はこのまま、蒼を連れて帰るけど、マーくんもタッくんもありがとう。ずっとここで待っててくれたんでしょう」
僕の代わりに瑞希が2人に感謝の言葉を言ってくれている。僕はその隣で深々と頭を下げた。
「蒼大は俺達にとっても弟みたいなもんだ。弟が元気がなかったら、俺達が頑張ればいい」
マーくんは照れくさそうに頭を掻いて、顔を背ける。そして2人は路地へと歩いていった。2人共、振り返って手を振ってくれている。瑞希が僕のかわりに手を振る。
そして、瑞希は僕の腰に手を回して、僕の体を抱き寄せて、2人で夕暮れの歩道を歩く。夕暮れの太陽の日差しを受けて、僕達の後ろには1つに重なった長い影がいつまでも、僕達の後に続いた。