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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第四章  月見酒と乙女

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第二十一話  良宵(五)


 アンカーがくっついている鍾乳石(しょうにゅうせき)につかまってぶら下がる。深海底にいたときのような水の重く熱い圧迫感が消えた代わりに、身体が重くだるい。


――ありがとう。助かった。


 ミニチュアの灯台のような形をしたアンカーを撫でた。点滅のリズムがはずんでいるように見えなくもない。寝巻の(たもと)でがちがちと重いものがぶつかり合う感触がある。片手で鍾乳石にすがり、もう片方の手で袂を探る。

 一枚目、出てきたのは美奈子さんの姿が映った記憶結晶だった。初々しく上品でそれでいてしどけなく色香を発するかわいらしい娘。ぽいっと放り出そうとしてやはりやめた。忘れてしまいたい思い出かもしれないけれど、完全に忘れてしまうのもどうかと思うんだよね。いつまでも元カノのことをぐじぐじ思い出されるのは癪だが、思い出がすべてきれいなものばかりである必要はない。鍾乳石の近くにぐいっと押しこんだ。抵抗があったがぐいぐい掌で押しこんだ。

 再び袂を探って二枚目を取り出す。子どものケイさんとゴージャスさんが写った古い記憶結晶だ。表面についたほこりをふうっと息をかけて払う。ぼんやりと光る。ごく短く輝く間、遠い昔のあたたかなにぎわいがかすかに感じられるような気がした。この記憶結晶も鍾乳石のすぐ近くに掌で押しこんだ。


――ここでもう一回記憶結晶としてうごいて。


 ぽんぽん、と交互に叩き、撫でた。

 セノーテも頭上にある風穴も(くら)い。記憶結晶の砕けた粒がきらめくのを眺めながら風穴へ、そして自分の身体へと戻った。



     *     *     *



 目を閉じていてもぐらぐらとめまいがする。あたたかくやわらかい、日向のにおいがする。手探りでそのにおいのする方向を探ると、手を握られた。あたたかい。


「――おかえり」


 うっすらと戻ってきた視界、私の(すが)る手の先にケイさんがいた。


「ただいま、――つんつくくん」


 ケイさんは息を呑み、そして私の手を握ったまま体を震わせて泣いた。チェーンに通して首にかけられたオパールの指輪が胸もとでころり、と転がった。

 オパールの指輪。ダイアモンドでこしらえた小さな花びらに囲まれた乳白色の石に炎のように緑や青、(だいだい)色の光がちらちらときらめく。デザインがかわいいわりにぶっとい外国人サイズなのが不思議だったが、なるほどケイさんの心の中、深海底で出会った美しい人のあの隆々として力強い骨太体型じゃ仕方ない。記憶の中の姿とはいえ、サイズなども忠実に再現されていそうだ。とにかくあのひとは全体的に巨大でごつかった。あのごつくて優美な指にあのオパールのアンティークリングは案外似合いそうだ。贈り主にとってあのばいんばいんゴージャス美女は初々しくきらきらしたかわいい女性だったのだろう。ごついだけじゃなく押しも強いけどな。


「母の顔を――思い出せる。若い頃の母だ」

「きれいな方ね」


 ケイさんは目を伏せてはにかんだ。そんな仕草や表情がよく似ている。水の流れに(あお)られて舞い上がる、ゆるくウェーブのかかった髪とドレスの裾を押さえる姿。さっきまで一緒にいて私を導いてくれたゴージャスさんと。


「もう何十年も、母を思い出せなくなっていたのに」


 めまいがしてまだ起き上がることができない。手を伸ばすと、ケイさんが顔を寄せてくれた。頬を撫でる。無精髭(ぶしょうひげ)がちくちくと掌に刺さるけれど、その感触も愛おしい。

 両手でケイさんの顔を撫でる。睫毛(まつげ)の長い柔和な目。笑い皺は疲労で普段より深く刻まれている。ゴージャスさん譲りの太く猛々しい鼻すじを、厚い唇を指で撫で、目を合わせて微笑み、そして口づけた。あたたかく、心もとないくらいやわらかい。


「もう一回」

「ん」


 一度といわず何度も、何度も、口づけた。

 途中、弓なりにしなる背中を支えてくれるケイさんの手の爪が伸びかけた。たじろぎ、身を退()こうとするケイさんの首にすがりつき、とどめる。私はもう「怖いかどうか分からない」などと気持ちをあやふやなままにしない。私にも慰撫適性がある。ゴージャスさんはそう請け合ってくれた。具体的にどうすればいいのか分からない。でもその役割を他の誰かと分け合いたくないと初めて思った。吐息を絡ませるような長い口づけの後、背中にあたるあたたかな掌の感触で獣化のきざしが失せていることに気づいた。


「――詩織、俺の話を聞いていてほしい」


 ケイさんがぽつりぽつりと語り始めた。美奈子というかつての婚約者の話、彼女の慰撫適性の話だった。(おおむ)ねゴージャスさんから聞いた話と同じだった。


「美奈子さんと会えた?」

「――会った、というより見た」


 どういうことだろう。


「寝たきり生活が長くて家族の顔も分からないくらい意識が混濁していた。それなのに、近づくと唸って嫌がって、暴れるんだ。よっぽど嫌なんだな、俺のことが」


 ケイさんはため息をついた。


「ほんとうにすまなかった。俺は馬鹿だ。離れないと気づかないなんて。俺を慰撫できるのは詩織、きみだけだ」

「慰撫適性はそんなに珍しいものじゃないって、あなたのお母様はおっしゃってたけど」

「そうなのかもしれない。でも、他のひとじゃ嫌なんだ。慰撫っていうのはその、体液を摂取するっていうかそのあの」

「へ? たいえき?」

「涙とか、唾液とか汗とか、血液とか」


 いや、分かりますよそのくらい。


「だから、他の人じゃ嫌なんだ。詩織でないと」

「うーん。じゃあ、さっきみたいなあんな感じで?」

「――うん」


 実年齢百歳、外見年齢中年のおっさんが真っ赤になってもじもじ――ええい、はっきりいってやる、かわいいさ。もっさりしたでかいおっさんのくせにかわいいなんて反則だ。それにしても慰撫の具体的手法がべろちゅうか。ん?


「――えっと、さっきちらっと爪がにゅにゅっと」

「ごめん。痛かったか」

「いや、大丈夫。平気。平気なので寝巻引っぺがさないでくださいって話聞きなさいよ――ステイ!」


 しゅんとして床に正座し上目遣いするケイさんたらかわいい――今はそれどころじゃない。いちいちでれでれすんな、落ち着け、私。話を聞きだしてみると、私はわりと早いうちから「ステイ!」で制止できていたことが分かった。ただ、


――凶暴化したときになんとかしてくれるのは美奈子だけだと思いこんじゃったわけ。


 ケイさんは教えられたとおり信じていたわけだ。私も自分の制止が効いているんじゃなくてアンカーのおかげだと思っていたし。今でもそんな気がしているし。


「俺、子どものころから獣化のコントロールが苦手で」

「ああ――」


 ゴージャスさんもそういってた。よそゆきに針毛で穴を開けたんだっけ。なるほど、それと美奈子さんが自分のパートナーだと思いこんでいたこともあって私の制止や慰撫が効果を上げていたと気づかなかったと。そのわりに初日からパーソナルスペースをまるっと無視した距離の詰め方だったような。


「獣化異能者は過剰な播種本能を抑えられないと聞きましたが――そうですか、私、浮気対象だったわけですね」

「え? いやそんな、違うよ? 母ちゃん、どんな話したんだ」


 髪が束になり先が尖り始め、元に戻る。爪が伸びてる。ほんとだ、あたふた慌てると獣化しちゃうんだ。


「じゃあ、ほんとに私で大丈夫なんですね? 完全獣化したところ見たいっておねだりしても、いい?」

「また今度。完全に獣化すると話できないから」

「――残念」

「きみはほんとに好きなんだなあ」

「好きですよ。今の姿も、山嵐の姿も」


 ぎゅうっと抱きしめられた。日向のにおいのする胸に頬ずりする。


「蓮見の日、気がつくと周りが真っ暗で、きみがすぐ近くにいるはずなのにどこにいるのか分からなかった。光のある方向へ歩いていったら川向こうの盟主の屋敷にいた。そして美奈子の入院している病院に連れて行かれた。その後、あの川向こうの盟主と呼ばれている男が現れると気分が悪くなって、気づくと獣化していた。いずれきみも連れてくる、とあの男がいうので屋敷を破壊した。暴れていたら周平がやってきてこれをくれたんだ」


 ケイさんはズボンのポケットから布の切れ端を引っ張り出した。すすけて汚れた切れ端には紺色の水玉模様が見える。――ああ、周平が持ち去った豆絞りの手拭いか。


「周平が『少しずつ噛みちぎって飲め』といった。いわれたとおりにして見たら獣化がコントロールできるようになった。その、きみの汗が染みこんでいるって」


 私たちの間にしばらく沈黙が下りた。

 「体液を摂取」ね。摂取する側も体液提供者を選びたいというわけね。なるほど、けっこう面倒な体質なんだわな、獣化異能者って。そりゃゴージャスさんみたいに「伏せ!」の掛け声一発で複数の獣化異能者の凶暴化を解消し一度に従えることのできる人が重宝されるわけだ。リーダーシップとかそういうのを通り越して神懸かった調教スキルというべきか。

 それよりも今は目の前の豆絞りの残骸の始末だ。


「それ、ずいぶん前の話ですよ。ばっちいから捨ててください」

「そうだな。もう、いいかな。きみに話を聞いてもらえなかったら大切に取っておかないと、と思ってたんだ」


 いや、ぼろい豆絞りを取っておくんじゃなくて、私との関係に問題が生じる場合は他のパートナーを探してください。そのぼろきれ、衛生上大いに問題がある。

 じーっと見つめ続けるという無言のプレッシャーをかけてようやく「分かった。捨てる」といわせることに成功した。


「ほんと、すみません。話を聞かないのは悪い癖だとあなたのお母様にも叱られました」

「気にすることはない」


 でも話を聞いてもらえると嬉しい、とケイさんは私の頭に頬ずりしながらつぶやいた。すみません、ほんと、すみません。


「私、意識を失ってどのくらい経ったんですか」


 めまいはだいぶおさまってきたが、また横になった。

 ベッドサイドの窓、カーテンの隙間から月の光が差しこんでいる。ケイさんの心の深海底にダイブしたあの日は確か残暑が厳しかったはずだ。今は窓の外の気配からして深夜、そうだとしてもずいぶんひんやりしている。


「――三日だ。きみは三日間眠りつづけた」

「そう。すみません」


 深海底では時間の感覚が薄かった。もしかしたらもっと、数週間、数カ月経過しているかもしれないと危惧していたのだがさすがにそれはなかったようだ。安心した。


「月がきれい――いい夜ですね」

「ああ、そうだな」


 ほんとうはすぐに白梅荘の皆に会っていろいろと詫びたいと思ったのだけれど、ケイさんに眠って疲れを取るよういわれた。三日間眠り続けてさらに眠るなんてと思ったけれど、睡魔がやってきてすぐに私を眠りの(ふち)に沈めた。

 眠りが深いはずなのに夜、何度か目が覚めた。そのたびにケイさんの腕の中にいることを確かめ、またうつらうつらと眠った。



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