第十八話 良宵(二)
どのぐらいこうして眠っていたのだろう。
気づいたら、固い岩盤に横たわっていた。ここは青く、昏い。なだらかな丘の中腹あたり、平坦になっている一枚岩の上だ。見渡す限り、岩盤が広がっている。上から時折きらきらしたものが降ってくる。はるか上に天井がある。きらきらの粒の群れが時折ぎゅっと集まったり、ゆるんだりする。そのゆるんだ拍子にほんの短い間、月のようにまるく光が漏れた。
あそこがセノーテとの境、いそぎんちゃくのような煙突なんだろうか。もしそうだとしたら、私はケイさんの心の深部に来ていることになる。
寒くはない。なぜか水が重く、熱い。テレビでちらっとみたことのある深海の風景に似ているかもしれない。でも深海は水温が低いと聞いたことがある。こんなにあたたかくはないはずだ。足下の岩盤に積もった砂をすくってみるともわもわと視界が遮られるのかと思えばそうでもなく、きらきらとした粒の大きな砂が指の間からこぼれてゆく。殺風景なくらい広々としている。水が重く熱く、ぎゅうっと圧迫されているように感じられる。
――ここがどこかなんて、どうでもいいか。
私は岩盤にごろり、と転がって眠った。
ごちん。
「痛い」
おでこに何かぶつかった。なんだよ人が寝てるんだから物投げるなよ、と上半身を起こしたところにまた何か降ってきた。
「痛てて」
頭にごちん、とぶつかった何かが地面に落ちた。見上げると、ゆらゆらと何かの塊が落ちてくる。
「ちょっとちょっと、いくらゆっくり落下でもこんなたくさん――」
焦って立ち上がり、後ずさった。
どすん。どすん、どすん。
けっこうな数の落下物だ。全部頭にぶつかっていたら涙目くらいじゃすまなかったかも。
煙突が閉じたか、光が消えた。そのまま待っていると、しばらくしてやっと落下がおさまった。足下で半ば砂に埋もれた落下物をひとつ、拾ってみた。
「タイルだ……」
セピア色に褪せ、隅っこが欠けたタイル。見覚えがある。そっと表面を撫でてみるとぼんやりと輝き、儚げで優しそうな美しい人の姿がうっすらと浮かび上がり、消えた。ケイさんの元婚約者、美奈子さんだ。もう一度タイルの表面を撫でてみる。ぼんやりと輝いた。
「ん?」
タイルがおかしいんじゃない。いや、タイルが頭直撃で降ってくることには疑問があるがしかし問題はそこじゃない。結構な速度で周りの景色が動いている。
「地面が動いてるうううう」
暗い深海底めいた場所で、お尻の下の地面が高速ベルトコンベアみたいに動いているというのはあまり気持ちのいいものではない。あまり起伏のない地形のようだが、真っ平らというわけでもない。ゆるやかな勾配をするすると登り、ぽーん、と放り出され着地、またするする地面ごと滑っている。なんじゃこりゃ。時々チムニーのような、岩でできた樹のようなものの近くを通る。前方の開けた岩盤の連なりを見るに、まだ止まりそうな気配がない。景色が変わり映えしないので、改めて手の中のタイルに写った美しい人の姿を見る。
首は私ほどひょろひょろ長くないかもしれない。でもさして抜いていない襟から少しだけのぞく鎖骨のラインや秀でた額にかかる髪のほつれがしどけなく、それでいて初々しく上品だ。はにかむように伏せられた目。白い肌。物いいたげに少しだけ開かれた唇。ケイさんの元婚約者はやはり美しい人だった。
――かわいいな。
年の頃は十九、二十歳あたりか。娘盛りだ。
正直なところうらやましい。同じ年頃の私、どうだったろう。大学生のころだ。わりと忙しい学生生活だった、そのくらいしか印象がない。私、かわいくなかったし。恋人はいたけれど今でいうリア充とはちょっと違う。パートナーが欲しいな、と思う者同士がたまたま出会って「妥協しちゃうか?」みたいなアトモスフィアが醸成されちゃってそのままGO、という、ね。若かった、私。
現在百歳近いという美人の思い出タイルに見入ってそんなことをほろ苦く思い出していたらば、いきなり首根っこを掴まれ放り出された。
「ぎゃああああ」
水の中だから、そして多分イメージ世界だからある程度衝撃が緩和されているのかもしれないが、それでもどっすん、とけっこうな衝撃とともに岩盤に尻もちをついた。載っていた地面の高速ベルトコンベアが何かの山に
がすうううん。
とつっこんでいる。山のてっぺんが僅かに崩れた。
「あ……、ない」
握っていたタイルがない。きょろきょろと周りを見回していると、少し離れたところで白く長い美しい指が砂の中からタイルをつまみ上げていた。
「あらこれ、――あのバカ女じゃないの」
少し低めのよく響く声。大柄で美しい――女性?
「ちょっと、あなた。『美しい』ってことに異議はないけどね、なんでそこ疑うのかしら。女よ、女。生まれながらの女」
抜けるように白い肌に濡れ濡れとした黒髪が豊かにウェーブを描き、出るところが出て締まるべきところが締まる黒いドレスに包まれたBQBボディ。こちらのBQBは理沙嬢のようなボン・キュッ・ボンじゃない。バインバイン・キュッ・ボン、爆裂ダイナマイトボディだ。そのめりはりに見合って大柄、おそらく身長は私とあまり変わらない。大きな目の、瞳の色が少し薄めでまつげがばっさばさ、左のほう、目尻の際に小さな泣き黒子がぽつりとあってその陰りが目もとのゴージャス感を際立たせる。眉山がきりり、と上がっていて少し意地悪そうに見える。細くはないがっちりとした鼻柱がすっきりと通り、唇も厚く大きい。年の頃三十代半ば、同年代のゴージャス美女だ。美人であることに疑いの余地は全くないが、本当に女性なんだろうか。とにかくものすごく筋肉質で骨太なんである。でも、よく見ると確かに隆々とした首から肩のラインが女性らしい。タイルに描かれたケイさんの元婚約者と真逆の雰囲気を持ったかっこいい人だ。
「うふふふ。かっこいいってのは嬉しいわね」
「ちょいちょいおかしなリアクションが返ってくるんですが、私の考えが詳細に漏れているんですかね」
「やだ、あなたと私の仲じゃない? ツーカーよ、ツーカー」
「いや、初対面ですよね、私たち」
「まあ、そういわれればそうね」
ゴージャス美女が拾い上げたタイルをぽい、と山に向かって放り投げた。それはケイさんの大事な人の描かれたタイルでしかも隅っこが欠けているからきっと壊れやすい。
「うわわわわ」
ずざざざ、とスライディングしてタイルをキャッチした。何とか間に合いキャッチには成功したが、私自身が山の中にどっかーん、とつっこんでしまった。山が削れて辺り一面きらきらもうもうと砂粒が舞い上がる。
掌に収まったタイルを撫でて確認する。ぼんやりと輝き、儚げで気の優しそうな美しい人の姿がうっすらと浮かび上がって消えた。隅っこは欠けているが、他に特に壊れていそうなところもない。
「よかった」
タイルを胸に抱く。ほっとしてうつむくと目の前の地面にがすっ、と尖ったヒールが突き刺さった。ゴージャス黒エナメルパンプスに包まれた足はでかくてごつい。たくましく長い足、黒いドレスとたどり恐る恐る目を上げると、先ほどのゴージャス美女が手を差し出してきた。ありがたくその手を借りて立ち上がる。がっちりと分厚く、あたたかい手だ。
「あなた、変わってるわね。それ、何か分かってるの?」
「何って、――思い出タイル、ですかね?」
「思い出タイルって、何よその小学校の卒業記念制作みたいなネーミングは」
まあいいわ、と美女は腰に手をあてる。仁王立ちスタイルがよく似合う。
「それはね、記憶結晶よ」
記憶結晶はこの心のセノーテで一定期間思い出されないと形が崩れはじめ、門をくぐって深海底に落ちてくるのだそうだ。
「門?」
「あのぐにゃぐにゃ動く煙突みたいなの、見たでしょ?」
「ああ、いそぎんちゃくみたいなかわいいあれですね」
「あれ、かわいい? 変わってるわね、あなた」
また変人認定された。
「大体の記憶結晶は形をとどめず、粒状にほぐれて落ちてくるの」
あの時折降ってきたきらきらしたものは思い出タイル、じゃなかった記憶結晶だったのか。
「記憶というのは不思議ね、こうして」
ゴージャス美女は身をかがめ足下の砂を掬い、撒いた。きらきらと粒が舞い上がり、積もる。
「ぼろぼろになっていてもなくなったわけじゃないの。新しくまた集まって形を変え、石ころみたいな結晶になるのよ。だから本人がすぐに思い出せなくても完全に忘れているわけではないの」
そうやってタイル状のものが分解され砂になり、また集まると石ころのような結晶になる。それが岩盤に組みこまれて少しずつ移動し、いずれあの門と呼ばれたいそぎんちゃくみたいな煙突を通ってセノーテへ出るのだという。
このゴージャスさんがいう「石ころみたいな結晶」ってあれに違いない。いそぎんちゃくみたいな煙突についていたきらきら。そうやって岩盤が循環し、セノーテから風穴へと移動していくのだろうか。昏い風穴の内壁に埋まる鉱物のような何かの結晶がきらりきらりと瞬く様子を私は思い出した。
すぐに思い出せなくてもそうやって記憶が残っているというのはなんだかさびしいような、とても頼もしいような、不思議な気持ちになる。大きい人の心の複雑な仕組みの一部をこうして知ることができるのは嬉しい。
ゴージャスさんが隣でため息をついた。
「まあ、――それでここが何かというとあれだ、記憶結晶のズリ山っていうか廃棄する場所っていえばいいのかしらね」
「へ?」
「心の主が無理矢理剥がした記憶結晶が集まる場所なのよね、ここ。自然に分解されたんじゃなくて無理矢理剥がしてるから、形が残っちゃう」
それじゃ、この記憶結晶はケイさんが不要だと判断して自ら剥がしたということか。きゅ、と握ると手の中でぼんやりと美しい人の姿が浮かび上がる。
「ちょっといいにくいけど、あなたもここに放りこまれちゃってるってどうなのかしらね?」
あ。え? マジですか? 愛想尽かされていらない女扱いされてるってこと? ある程度そんな気がしていたとはいえ、さすがにこれはショックだ。ずどーんと落ちこむ私の背中をゴージャスさんが優しく撫でる。
――だいじょうぶ、だいじょうぶ。
「落ちこむなっていっても無理かもしれないけどさ、多分違うっていうか、今そこにこだわっても仕方ないっていうか、ね?」
そうなのかね。仕方ないのかね。
「ああ、困ったわねえ。あの子もほんと阿呆だわねえ。手がかかるわねえ」
微笑むゴージャスさんは大して困ってもいない様子だ。しかし急に慌て出した。
「あっ、あのおバカ、こら、外すな」
跪き、私の手を取るとゴージャスさんは
「時間がない。またこうして会えるかどうか分からないから、よく聞いて。まず、ここにあなたが来ちゃってるのはちょっとした手違い。そして、とにかくあなたは人の話をちゃんと聞け。いいわね?」
と早口で捲し立てた。そして
「んもう、話くらいさせてよおおお」
と半べそかきながらしゅばば、と消えた。
なんだか悪い人じゃなさそうだったし、事情通みたいだったけど、ちょっとやかましい感じだった、かな。疲れていると今ひとつちゃんと対応できないタイプっていうかなんというか。
まあ、いいか。
先ほど高速ベルトコンベアがけっこうな勢いで突進していたので、そのエリアに足を踏み入れないよう慎重に場所を確認する。地面のうっすらと痕跡が残っているあたりを避け記憶結晶のズリ山とやらに近づいてみた。試しにひとつ記憶結晶を手に取ってみる。
その古ぼけた記憶結晶は四隅が丸くなり、ひびが入っている。タイル貼りの洗面台、鏡に少年が映っている。硬そうな前髪が鬣のように後ろへ靡いている。切れ長の目、への字に曲がった口。
――ケイさんだ。
面影がある。小学生になるかならないか、五、六歳くらいだろうか。不機嫌そうなへの字口だが、とてもかわいい。
セノーテの壁に埋まっていた記憶結晶は触れれば記憶の主であるケイさんの思念が感じられたのだが、どうもこのズリ山の記憶結晶は違うようだ。記憶の一こまが画像として再現されるけれど、思念や音声などは抜け落ちてしまっているらしい。
どんな場面なのか分からないけれど、かわいらしいので見ていて楽しい。記憶結晶の中の不機嫌そうなケイさんはどうもお尻あたりを気にしているようだ。眉間に皺を寄せている。そして、鏡にもう一人映っている。ケイさんのお尻あたりを指さして大笑いするその人は豊かな黒髪、抜けるような白い肌、ばいんばいんのBQBダイナマイトボディ、さっきしゅばば、と消えたゴージャスさんだ。
――そういえば、この人誰?
残像が薄らぐたびに指で撫で、何度も眺める。まだ幼児のケイさんが洗面所にいるところに居合わせているのだから家族なんだろう。記憶結晶の中のゴージャスさんはさっきの姿より少しだけ若い。あ。あー、そういう……あー。シュウトメか。




