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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第四章  月見酒と乙女

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第十七話  良宵(一)



 切れかかった街灯がちかちかと点滅する。

 ち、ちりち、ち。

 そこかしこから、虫の音が聞こえる。


「いい夜だな」


 街灯の下に周平が立っていた。


「久子のことは、聞いた」


 何もいえない。ケイさんも黙っている。しばらくそのまま無言で立ち尽くしていた。


「秘書が死んだのは知っているか」

「ええ、聞きました」


 明、暗。明、暗。明、暗。

 ちかちかと街灯が点滅する。


「そうか」


 周平が顔を上げた。長めに整えられた前髪の間から縦長スリット状の瞳がのぞく。満ちるまであと少しの月がのぼってきた。周平はそれを眺めている。


「議員のほうも周りを困らせているらしい」

「……そうですか」

「『音が追いかけてくる、音のない世界に行きたい』と風呂に顔をつっこんだりするらしい。しばらくすると水から顔を上げるんだが、息が続かないからじゃなくて耳の中で血の流れる音がするのが嫌で顔を上げるんだそうだ」

「……」

「白梅の、アンタを呼んで詫びているそうだぞ」

「……そうですか」


 ケイさんが私の前に出た。月明かりと街灯の点滅から少しだけ隔てられる。


「何がいいたいんだ」


 周平は無表情にケイさんを一瞥するとまた視線を私に戻した。


「あの議員はもう長くない。――オレが引導を渡してやろうと思ったんだがな、必要なさそうだ」

「やめろ」


 ケイさんは私を腕の中に閉じこめ、周平に半分背中を見せた。背を向けるのは人間、そしてほとんどの動物にとって逃げを意味する。でも大きい人の場合は違う。背中を見せることはケイさんにとって攻撃の意志表示だ。

 周平は不機嫌に顔を歪め、ケイさんに視線を向けた。


「ネズミ、あの日お前は何をしていたんだ」


 ケイさんが身体をびくり、と震わせた。


「オレなら女に止められてもタイミングを逸したりしない。自分の女を傷つけ、(おとし)める存在を、それがたとえ変えられない運命であってもオレは(ゆる)さない。白梅の、オレならアンタを守るのに手段を選ばない」

「……俺は詩織の言葉をすべてそのまま受け容れる」

「ネズミ、その結果がこれか。こんなに傷つき疲れ衰えているじゃないか」


 私の背中にまわるケイさんの手が強張(こわば)る。


「ネズミ、お前のやり方はただ甘やかしているだけだ。甘やかして、壁を作っている。壁があるからお互いを理解できない」

「……違う」

「お前が甘やかすのは、お前自身が甘やかされたいからだ、ネズミ」


 はじめ半分だけだったはずなのに、今は完全に周平に背を向けている。警戒し尖っていた目つきが、心を傷つけられ潤んでいる。これは迎撃態勢ではない。逃走だ。

 そうか。

 私には慰撫適性がない。人としてだけでなく、獣としてのケイさんのことも好きだけれど、「いつでも完全獣化していいよ」といえない。分かち難く大きい人の体に組みこまれた獣の(さが)を解放させることができない。この夏の終わりの、大きい人の自信に満ちたあの美しい立ち姿を思う。ただ甘やかすのでなく、すべてを受け容れることができればどんなにいいか。


「ごめんなさい」


 私を見下ろすケイさんの頬に手を伸ばす。


――乙女を傷つけ、貶める存在を、それがたとえ運命であっても赦さない。

――乙女を守るのに手段など選ばない。


 そうできればどんなにいいか。お久さんは亡くならずに済んだに違いない。


「――ごめんなさい」


 明、暗。明、暗。明、暗。

 ちかちかと街灯が点滅する。

 明、暗。明、暗。明、暗。暗、暗、暗。

 月が綺麗だ。月も、ケイさんが私を呼ぶ声も遠い。



     *     *     *



 眠っていたようだ。


「ここはどこ?」

「公園だ」


 ああ、小旅行の帰りに寄ったあの、崖の下に磯のあるあそこ。黄金週間から数ヶ月経つ。昔のことのようだ。今は夜で、ほぼ満ちた月が空の高いところにある。


「寒い?」

「いいえ、大丈夫。こうしているとあたたかくて気持ちいい」


 なんだか問題のある体勢だ。ケイさんの膝の上で横抱きにされている。でもいいや。誰かに見られるわけでなし。すりすりと大きい人の胸もとに頬ずりした。

 大きい人が私の頭の上でため息をついた。


「ごめんなさい」

「なぜ謝る」

「いろいろと……」


 ケイさんがまたため息をつく。

 愛想尽かされそうだな、私。実際のところ、どうなんだろう。既に愛想尽かされている可能性もあるんじゃなかろうか。


「きみが謝ることはないだろう」

「でも……盆踊りの夜からもうひと月以上経つのに、まだケイさんのお話を聞けてないです」

「――そうだな」

「やっと二人になれたのに、お話を聞けそうにありません。――ごめんなさい」

「聞いてほしい。だけど今のきみには無理だろう」

「――ごめんなさい」

「詩織、俺はきみを責めているんじゃないんだ」


 涙がにじむ。ケイさんが目尻に口づけ、ため息をついた。

 月が酷暑に()み疲れた大地に冷たい光を放つ。昼間の苛烈な日差しでたくわえられた熱が放たれ、そよそよと風が吹く。ただそれだけのことであっても、大きい人のぬくもりから隔てられるようでさびしい。私の光。私の熱。私の半身。――そう思えていた頃はよかった。


「詩織。――辛いこと、苦しいことすべてをきみから遠ざけてしまいたい」

「――ごめんなさい。私、疲れた」

「おいで。しばらく休むといい」


 ああ、大きい人のあたたかい日向のにおいがする。

 一見岩のように厳しく頑丈な心の表層に、無防備に入口が開いている。そこからふるふるとやわらかい波動が漏れて私を誘っている。いつもいつも、大きい人の心にダイブするのをためらう。ためらっても結局ダイブさせてもらうんだけれど。そして大きい人の心を傷つけないように細心の注意を払う。私なりに努力しているけれどそれでも風穴を落下するときケイさんは苦しそうにする。

 できるだけ傷つけないように。そうしたい。でも、できない。ふるふると震える波動に誘われるまま、私は大きい人の心の中に意識をすべて連れてダイブした。



     *     *     *



 心の中の風穴も夜になったりするんだろうか。あたたかく、やわらかい風が吹いているけれど、風穴の中は(くら)かった。風穴の内壁に埋まる鉱物のような何かの結晶がきらりきらりと瞬く。私は錐揉(きりも)みするように落下していった。


「あっ……」


 ケイさんが苦しんでいる気がする。でも体勢を整えることができない。どんどん心の外、身体の感覚が遠くなる。


「――あ、うううっ」


 カーテンのようにうすぎぬが重なる膜、いちばんケイさんが苦しがるところだからほんとうはもっと気をつけなければならない。それなのに腕や足に力が入らない。風に(あお)られるまま風穴の内壁にぶつかり、跳ね返され、私はそのままセノーテに()ちた。

 ずず、ずん……。

 澄んだ水が衝撃を緩和する。力なくゆらゆらと揺れる私の手指の間を泡がくぐりぬけていく。

 セノーテも昏い。

 泉の入口すぐ近くでゆっくりと点滅するアンカーが視界の端を通り過ぎる。心の外側、ケイさんが私の身体をきつく抱きしめる感覚もどんどん遠くなっていく。

 暗くひんやりとしたセノーテの水がとても気持ちいい。目を閉じ、その快さに身を任せて私はそのままゆっくりと沈んでいった。

 どのくらいそうしていただろう。身体のまわりの水が温かい。目を開けると下からぷぷぷ、と泡を吹きつけられた。あのいそぎんちゃくのような煙突だ。もうすぐセノーテの底に着く。そうしたらいそぎんちゃくのような煙突の傍らで眠ろう。そう思っていたのだが、

 ぐぱあ。

 煙突の口が大きく開き、私は呑みこまれた。



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