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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第四章  月見酒と乙女

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第十六話  野分(七)


 タオルにくるまった真知子さんは私にしがみついたまま部下を手招きした。


「わたくしは無事です。警察を呼んでくださいまし」

「かしこまりました」

「あの車に乗った男たちがこの家の子どもを誘拐しようとしましたの。様子がおかしいのでくれぐれも気をつけて」

「かしこまりました、会長」


 雨に濡れるのもかまわず、真知子さんの部下は手配のためにきびきびと歩き去った。真知子さんの顔は青白い。なのにその小さな身体はとても熱い。

 ううううう。

 私の胸に顔を伏せ泣き(むせ)ぶ様子は惑乱しているように見えるのに、一企業の代表権を持つ人とはこんなにも気丈に、冷静に状況を判断し、事態を収拾できるものなのか。


「――呆れまして? こんなわたくしに」

「いいえ。とても頼もしい」


 ざ、ざざざ。

 ざ、ざざざ。

 ガレージの外、地面を叩く雨の音が強まった。激しい雨が事件の痕跡を洗い流す。お久さんの不在――それが胸に迫る。ぐぐ、と歯噛みする。こらえろ、こらえろ。


「詩織ちゃん――」

「大丈夫です」


 これは不在ではない。


――私は乙女を失った。


 ケイさんがいなくなったときとは違う。お久さんは亡くなり、二度と帰ってこない。その遺体は白梅がまるごと呑みこんだ。荼毘(だび)()すこともできない。遺体を親族に返すこともかなわない。


「みなさん、よく聞いてください。一度しか申しません。お久さんは――」


 小梅がぼんやりと地面を見つめていた目をゆっくりと上げ、私を見つめる。目に混沌と深遠、人でないものの気配を帯びたそれは小梅ではない。白梅だ。


「八月いっぱいで乙女を引退されました」


 ガレージに集まる五人、真知子さん、ケイさん、嵐太郎、そして私と白梅。全員が項垂れ、動かない。


 サイレンが聞こえる。探索子を展開した。左腕の中で契約錠が(きし)み、ずれる。嵐太郎がびくり、と身体を震わせた。偽りを重ねる。そのために私は立ちあがった。制服に身を包んだ警官がこちらへ駆けてくる。

 ざ、ざざざ。

 ざざ、ざざざ。

 夏の終わりを告げる台風がやってきた。終日ただひたすら叩きつけるように大粒の雨が降り続いた。



     *     *     *



 西日の差しこむ部屋。

 床の間には有名な書家の掛け軸が飾ってあった。有名な箴言(しんげん)が味わい深いと評される書体で書かれている。もともとあまり好きでなかったが、何度も呼び出され幾度も目にするうちに嫌いになった。

 この家の主である老人は床の間を背に腕組みして座っている。老人を中心に息子である壮年の男性とその妻、少し離れたところで細い目をした小柄な老人がちんまりと座布団におさまり、茶を(すす)っている。


「梅田さんとおっしゃいましたか。妻を返せないというのなら、それなりのものを用意していただこう」

「……」


 とうとう来たか。平伏したまま、気づかれないようにため息をついた。



     *     *     *



 お久さんは生前、「離婚した」「元の家族」といっていた。しかし本家の当主であるお久さんの叔父に訃報(ふほう)を知らせに行ったところ、翌日、夫だと名乗る老人から呼び出しがかかった。以来呼び出されてはひたすら責められ謝りつづける、それを繰り返している。

 真知子さんが憤った。


「乙女の契約は本人だけでなく、出身家庭とも結びますのよ。その契約の中に遺体を返せないことが明記されていますの。事件性を明らかにできないことについてならともかく、毎日のように呼び出されて『遺体を返せ』と責められるなんておかしいですわ」

「それが……、息子さんがそうした契約を交わした覚えがない、と」

「当たり前ですわ。お久ちゃんは離婚して実家に戻ったんですもの。乙女契約はお久ちゃんとご実家を対象に交わされているはずですわ。二十年近く音沙汰なし、接点もなかったくせに今更どの面下げて家族などと」


 唇に指をあてて真知子さんが首をかしげた。


「他に何か目的があるのかしら」

「たぶん、お金」


 嵐太郎が膝の上でおとなしく絵本を広げる小梅のおかっぱ頭を撫でながらぼそり、とつぶやいた。


「あの近くに知り合いが住んでてさ、ちらほら噂が聞こえてきたりしたんだけど」


 その噂によると、どうもお久さんが乙女契約を交わすにあたり実家に支払われたインセンティブの一部が元婚家の借金の清算に費やされたらしい。


「本家さん――あの道場経営している久子ちゃんの叔父さん――、あの人に借金きれいにしてもらってから久子ちゃんが金になると知ったみたいでさ。金の無心してたんだと、元旦那」


 困ったものでちゅねー、と小梅の顔を覗きこみ語りかける。小梅はちょっと嫌な顔をしているのだが、それでも拒否しない。


「だからね、あと何回もしないうちに金の話が出るよ、きっと」


 嵐太郎はため息をついた。


「もうこちらはインセンティブ支払い済みなんだからお金は必要ない。それにしても詩織ちゃん、本家さんならともかく、元旦那につきあってやる必要があるかな? 警察の人にしたみたいに元家族さんたちにもえいっとやっちゃえばよかったんじゃない? 記憶操作」

「――すみません」

「詩織ちゃん――僕、責めてるんじゃないんだけどな」


 嵐太郎がうつむいた。小梅が膝の上で振り仰ぎ、小さな手で嵐太郎の頬を撫でる。



     *     *     *



「申し訳ありません」


 畳に手をつき平伏する。呼び出しに応じて通されたこの部屋で今日も数時間待たされた。西日がうなじをじりじりと灼く。


「――あんたには誠意ってものがないのかッ。払え、金を寄越せッ」


 老人が湯呑みを掴み、座卓に叩きつけた。派手な音を立て割れた磁器の破片が飛んできて私の頬をすぱり、と裂く。


「詩織!」


 手を伸ばそうとするケイさんを制する。(あふ)れる血を拭う。ハンカチをジャケットのポケットにしまうために身を起こすと、床の間側に座った三人がたじろいだ。私の頬の傷がまたたく間に塞がっていく。それを見てしまったのだろう。三人と対照的に、小柄な細い目の老人は動じない。


「申し訳ありません」


 畳に手をつき、私は頭を下げた。



 陽が落ちて風が吹き始めた。残暑の熱気をゆっくりと押し流す。

 ち、ちりち、ち。

 そこかしこから、虫の音が聞こえる。切れかかった街灯がちかちかと点滅する。駐車場で私とケイさんは細い目の老人に頭を下げた。


「いやいや、却ってわしのほうこそすまんかった」


 この細い目の小柄な老人はお久さんの叔父だ。最初の二回を除き、お久さんの元婚家からの呼び出しすべてに立ち会った。長時間待たされるのにも、お久さんの元家族が私たちを責めつづけるのにも、ただ黙って立ち会っていたのだが今日、老人が金の話を持ち出したとき


「あんた、白梅様にたかるつもりじゃったんか」


 初めて口を挟んだ。その後、いきり立つ老人のいい分をふんふんと聞き、


「久子が死んだのは白梅様のせいじゃないと何度もいうとるじゃろうが。それにあんたもう、ずいぶん昔に離婚して他人なんじゃから口出さないの」


 と幕を引いてくれた。

 どこかお久さんと似た面差しの細い目をした老人はさっき出たばかりの家を見遣った。


「何度も呼び出される白梅様には悪いと思ったんじゃが、久子の息子がな、あれが納得しないんじゃないかと思ったんじゃ」


 あれは母親っ子でなあ、と苦笑する。


「近所の人々や警察がなんとなしに久子のことに触れないのが、忘れておるのが不思議じゃったが――白梅様、あなたはそれと同じ術をわしや久子の息子にかけなかった」


 ちかちか、ちかちか。

 街灯の明かりが点滅する。細い目の老人の姿はそのたびに明かりに照らされたり暗がりに沈んだりした。


「久子にとってここ二十年近く、白梅荘が家、乙女と白梅様が家族じゃった。白梅様、あなたと出会った春からこちら、久子は以前よりさらに楽しそうじゃった。道場に来るたびに『詩織ちゃん』の話をしてなあ。白梅様、あなたは久子がいったとおりのお人じゃのう」


 懐かしげに細い目をますます細くする。


「今後は風変りなお味の糠漬(ぬかづ)け、あれがいただけないのは残念じゃな」


 ちかちか、ちかちか。

 (ひい)でた額。おっとりととぼけた愛嬌のある穏やかな細い眼。大らかな笑みをかたちづくる口もと。凛としたたたずまい。明滅する光に浮かび上がる老人の面差しはお久さんによく似ている。


息災(そくさい)に暮らされよ」


 ケイさんと私は頭を下げた。草履(ぞうり)砂利(じゃり)を踏む音がする。顔を上げたとき、駐車場に細い目をした老人の姿はなかった。


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