第十五話 野分(六)
「これでわしらは裁かれずに済む」
「は、ははははは。化け物のおかげで助かった」
左手に握った意識の繊維の束をぐいっと引っ張る。男二人が胸を掻き毟り、苦しみはじめた。見えない何かが自分たちを苦しめる、それが何か分からないけれど目の前の貧相な女の手の動きに呼応していることは理解したようだ。
「あ、やめてくれ、あ、あ、あ」
「誰が裁かないといった」
さらに男どもの意識の繊維を引っ張る。
「さ、さっき、ご当主自身がいったではないか。あの化け物が遺体を呑めばわしらは人の世の罰を受けずに――」
「ああ、あれ」
ふふふふふ。
私の笑みに二人の男だけでなく、乙女たちと嵐太郎も凍りつく。
「お前たちには私が人の世の理に縛られるように見えるのか。なんとも気楽なものだな。答えろ、私は何だ」
「し、白梅荘のご当主――」
「たまたま後継者に指名されて白梅荘を相続した、ただそれだけの女だと、そう思っているのか。愚かだな。さっきお前たちがいったんじゃないか」
秘書の意識の繊維をぐぐうっと引っ張る。
「あ、やめ、やめてくださ――」
「白梅荘の当主は確かに、乙女のようにはっきりと異能が顕現しなくてもできる仕事だ。でも、私は違う。知恵者の末裔、人のかたちをしていても人ではない。――異能者、化け物だ」
ケーブル状の触手にペンシルロケットのような尖端。複数の探索子を放射状に展開する。
「お前たちが人の世の裁きを受けないのなら、私が与えよう、罰を」
ふふふふふ。
うねうねとケーブルをのたうちまわらせ宙を漂う探索子ひとつひとつが男二人に狙いを定める。
「し、詩織ちゃん、やめ、やめるんだ」
嵐太郎が私の心の表層へ探索子を伸ばしてきた。
びしり。
男たちに狙いを定めていたペンシルロケットのひとつが方向を変え、伸びてきた嵐太郎の探索子をはたき落とす。もとより注意を促す程度のつもりしかなかったのだろう。さして力もなかったので落とすのは難しくなかった。
嵐太郎と私以外の者には、何もないはずの路地で突然雨水が爆ぜたように見えただろう。
「詩織ちゃん、駄目だ、いけない。そんなことしちゃ、駄目だ」
「嵐太郎さん、詩織ちゃんは何をするつもりですの」
「あいつらを殺すつもりだ。詩織ちゃんの能力は精神干渉だ。同じ異能を持っていないと見えないから分からないだろうけど今、詩織ちゃんの身体から槍のついた長い腕がたくさん――詩織ちゃんの力は僕なんかとはレベルが違う、物理的な攻撃も可能なんだ。それを使って――駄目だ、やめよう、詩織ちゃん」
ひいいい。
男たちは後ずさろうと仰け反った。しかしかれらの心につながった意識の繊維は私の手の中にある。もがいても動けない。
色彩を失った世界。お久さんの頭からどくどくと流れる血だけが朱い。赦さない。私の乙女を損なうものを、私は決して赦さない。左腕の中で契約錠がぎちぎちと軋む。――さあ、どこからやるか。手か、足か。それとも耳か。知れ。私の悲しみを、怒りを、憤りを渇きを、痛みを、身体で知れ。
私の前に、ケイさんが立ちはだかった。
「詩織」
「――止めるな」
「止めない。止めないから聞いてくれ。詩織」
ケイさんが私を抱き寄せる。身体が熱い。
「きみがそうしたいなら、こいつらを殺せばいい」
「じゃあ、なぜ止めるの」
アンカーが大きい人のセノーテの光景を伝える。青でなく、黄色でもなく、赤ですらない。
ざ、ざわざざ。
昏い。黒く沈んだ色彩の中で光が点滅する。泡を噴きながら輝くそれはタイルだ。
お久さんと私。
お久さんと真知子さん。
お久さんと理沙嬢。
お久さんと小梅。
お久さんと嵐太郎。
お久さんがケイさんを見上げ微笑み、そしてお久さんがみちるさんと微笑み合う。
ざ、ざわざざ。ざ、ざわざざ。
お久さんを失った悲しみも痛みも、私ひとりのものではない。
「止めないといっている。詩織、俺の話を聞け。きみの手を汚す必要はない。命じるんだ、俺に」
ケイさんは雨に濡れた地面に跪いた。私の両手をとり、指先に口づける。男たちを拘束していた意識の繊維がばらばらと地面に落ちた。指先に熱い息と、心もとないくらいやわらかい――唇。その感触はすぐに離れていった。
ぐ、ぐぐぐぐ。
ケイさんの体の中から、骨の軋むような変な音がする。髪が伸び、束となり、その束の先が針のように尖る。爪が伸びる。顔が、腕が、黒い獣毛に覆われる。黒白まだらの針毛がシャツを突き破り生えてきた。
「俺に命令してくれ、詩織。――俺の女王」
ぐ、ぐぐぐぐ。
跪いたケイさんが手を地面につき、四つん這いになると変化が加速した。
ぐ、ぐぐぐぐ。
筋肉が盛り上がり、身体が大きく膨らむ。
から、からんからん。
頭を軽く振ると、一気に獣化が進んだ。
弧を描き後ろへ向かって伸びる半白の長い鬣。黒い獣毛に覆われた顔、身体。背中から腰にかけてびっしりと生えた美しい針毛。大きな大きな山嵐が現れた。
体高が私の身長を超える巨大な山嵐がふんふん、と私の胸もとに顔を寄せる。左目の上に傷痕がある。
「夢じゃなかったんだ――」
ごわごわとした鬣を撫で、首もとの、白い三日月状の毛の帯を指で梳いた。微かに麝香のにおいがする。
――ああ、なんて力強く美しい。私の山嵐。
大山嵐はふんふん、と鼻を鳴らすと
から、からからから、からん。
男たち二人に向かって針毛を逆立てた。
「ひいいいい、ば、化け物」
「あのときの、獣だ……! お屋敷をめちゃくちゃにした怪獣だ」
意識の繊維が解放され動けるようになった男たちが銀色の車に向かい走る。大山嵐が男たちへ向かって踏み出そうとした。それを止める。大山嵐が不満そうに鼻を鳴らした。
お久さんを、乙女を失った悲しみと痛みは私ひとりのものではない。
――そうだ。激情に翻弄されてはならない。
真知子さんが、嵐太郎が、小梅が、みちるさんが嘆き悲しんでいる。血塗られた痛みと悲しみの記憶を血の報復で上書きしてはならない。ましてや、乙女の手を汚すなど。そんなこと、させられるわけがない。鬣を撫で、大きな頭に腕をまわし抱き寄せた。
「ケイさん――あなたにさせられない。あなたにさせられないことを、私がしてはいけない。そうなんですね」
姿がまるで違っていても、愛しい大きい人であることに変わりない。心にあの美しい風穴とセノーテを持つ大きい人に「人を殺せ」などといえるわけがない。
でも、このままあの男どもを帰すわけにはいかない。地面に落ちた意識の繊維の残滓を拾い上げた。
ぎししししし、ぎししししし。
元議員の秘書が何度もエンジンをかけ直す銀色の車へ、私は大山嵐を従え踏み出した。手の中で男たちが落としていった意識の繊維を撚り合わせ、小さな塊を作る。大山嵐が顔を寄せ、においをかごうとするのでその塊を遠ざけた。
「駄目。鼻の中に入ったら大変ですから」
手の中で塊を二つに分け、眼を作る。触角をつけ、脚と翅も作る。二匹の小さな羽虫ができあがった。
「さあ、行きなさい」
掌から羽虫が飛び立つ。車の中で慌てふためく男たちの頭に羽虫が吸いこまれた。
まだ地面に男たちの意識の残滓が落ちている。拾い上げて手の中でふたたび繊維を撚り合わせた。今度は細長い紙縒りを二本。両掌を合わせて固める。針状のものに変わるよう念じた。できあがった二本の針を左の拳に収め、車の中の男二人に向ける。親指と人差し指で作った輪の中に
ふ。
息を吹きこむと吹き矢のように二本の針が飛んでいき、男たちの頭に刺さった。
大山嵐がふんふん、と不満そうに鼻を私の肩に押しつける。
「何をしたか気になりますか。あれは――」
羽虫は男たちが生きている間ずっと、お久さんを死に至らしめたシーンを何度も何度も記憶の中で鮮やかに再生し、その罪を囁きつづける。あの男たち二人は、携帯電話のバイブレーション、全く関係ない遠くのオートバイの車輪の回転音、耳もとを通り過ぎる蚊の羽音、風が木の葉を揺らす音、衣ずれ、すべての振動音をキーにお久さんの死を思い出す。振動音のしない環境など、地上にはない。生きている限り、何度も何度も繰り返し、強制的にその記憶にさらされる。
紙縒りでこしらえた針は、雨に濡れ不気味に嗤う私とつき従う大山嵐の姿を一日に何度も思い出すよう、ちくちくと記憶を刺激しつづける。暗がりで何かがうごめいた、光のいたずらが見せる幻に針毛を逆立てる大山嵐の荒れ狂う姿を、お昼休みに財布を手にランチに出かけるOLのステップ、その軽やかなリズムにすら私の咽るような不気味な嗤いを見出す。
逃げ場などない。日常の隅々にお前たちは私を、大山嵐を、お久さんを、お久さんを失って嘆き悲しむ乙女を見る。見つづける。
「――大したものではありません。私たち、白梅の乙女が忘れられなくなるおまじないです」
私は大山嵐とともにガレージに入った。そろそろ騒ぎを聞きつけて人が集まってくる。事態をなんとか収拾しなければ。大山嵐がふんふんと肩に鼻を押しつけてくる。
「ケイさんのおかげでなんとか最後は冷静になれたかな。どうだろう」
雨で濡れた鬣を撫で、頬ずりした。
それにしても、どうしたものか。
――完全に獣化してしまうと、ある程度発散して消耗するか、あるいは適性のある人物に慰撫してもらわないと人型に戻れない。
「困りましたね。ここでは発散して消耗するのは無理ですし……。私には慰撫適性がないのに。――困りました」
シャッターを開け放したオープンなガレージであっても、屋根と壁があるだけで外の音と気配が少し遠くなる。外の刺激から隔てられて初めて事実が重く胸を塞いだ。
お久さん。武術の達人で背筋の伸びた袴姿が凛々しい私の乙女。ほのぼの老剣客風の語り口だからついついペースに巻きこまれてしまう。聞かされるのは変態耳かきトークだったりと強引なくせに、気配り上手な私の乙女。おっとりととぼけた愛嬌のある穏やかな細い眼や大らかな表情をかたちづくる口もと、もうあの優しい笑みを見ることはできない。
――悔しい。
みちるさん再生の前日、お久さんの希望をかなえて乙女契約を解除しておけばこんなことには。
――悔しい。
大山嵐の頭に縋り、その大きな鼻先に顔をすりつけて私は泣いた。ぼたぼたと涙が落ち大山嵐の顔を濡らす。
「詩織」
ケイさんが立ちあがった。
「詩織、なぜ俺に命じなかった。なぜ――」
大きい人が泣く。太くあたたかな腕に抱かれていても、すがられているのはこちらだと感じた。ほんの少しの間そうしていたが、身体を離すとケイさんは
「服を着て――タオルと救急セットを取ってすぐ戻る。詩織は皆を頼む」
いい残し母屋へ向かった。
ガレージの外へ出る。泣き咽ぶ真知子さんを支え、意識を失った小梅を抱え茫然とする嵐太郎をともない、再度ガレージへ戻った。
ぎししししし、ぎししししし。
ぶるるるるる――。
やっとエンジンがかかった。急発進した銀色の車は、前方からやってきたつやつやの高級車を避けようとして白梅荘の生け垣に突っこみ、衝撃音とともに停止した。車内で男どもが泣き喚きながら暴れている。
ケイさんが後ろからバスタオルをかぶせる。毟り取るように受け取り、腕の中で震え咽び泣く真知子さんを包む。嵐太郎に加勢してケイさんは小梅の手当てを始めた。
「かいちょ、……会長! ご無事ですか、会長!」
迎えに来た真知子さんの部下がガレージに駆けこんできた。
刺さるように鋭い篠突く雨が、残暑に倦んだ空間を裂く。
ざ、ざざ。
更に雨脚が強まった。




