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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第四章  月見酒と乙女

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第八話  精霊馬(八)


 小梅が軽食をとるのを拒否している。


「ぽんぽんいっぱいになってしまうです」

「なりません。踊っているうちにおなかがすいてしまいますよ。おねむになったらどうするのです」


 おなかがすくことと、おねむになること、この間に疲労があり、低血糖状態があり、ぐずりがあり、だっこがあり、そして締めのおんぶで撃沈し睡眠世界へ旅立つというプロセスがあるのだが割愛した。

 すっかりわたあめを入道雲だと思いこんでしまった小梅は、先に軽食をとるとわたあめを食べられなくなると考えたらしい。あんなもんザラメひと掴みにも満たないってのに腹いっぱいになるものか。


「残念ですねえ。小梅の好物、だしを作ったというのに食べてもらえないとは」

「だ、だ、だしでしゅか?」


 幼子が釣れた。少し離れたところで嵐太郎が「まただしかあああ」とげんなり顔をしている。だしというのは、胡瓜と茄子を刻んで塩水につけ灰汁(あく)を抜いて絞ったところに(ねぎ)茗荷(みょうが)生姜(しょうが)などの薬味と醤油をまわしかけただけのものである。東京で一人暮らししていた頃、近所に住まう山形出身の老女に教わった。これがご飯にかけて良し、納豆に載せて良し、簡単なのにたいそう美味なんである。料理が苦手ということになっていて、その料理下手という評価に異議がある、大いにあるのだがしかし、そんな低評価にあえぐ私が作ってもこのだしは好評である。嵐太郎は茄子が天敵なのでこの限りでない。茄子好きの小梅はだしをそうめんにかけるのをことさら好んでいる。


「ちょっとだけ、――食べたいでしょう?」

「……」

「そうめんをゆでてもいいんですよ?」

「……食べたいでしゅ。ちょっとだけ」


 まんまと軽食をとらせることに成功した。



     *     *     *



 山手へ分け入ったところにある広場が盆踊り会場となっている。多々良が浜は観光地だけれど、盆踊りは観光客向けでなく地元の人が地域ごとに催すため、ごく小規模だ。それでも、(やぐら)が組まれ、燈籠(とうろう)が連なり、屋台も出てなかなかに盛況である。

 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。

 櫓の上には揃いのゆかたを着た音頭取りが数人、輪になって踊っている。踊りの輪が二重になり、三重になった。にぎやかな音につられて人々が集まり、自由に踊りの輪に加わって踊り疲れると輪から外れる。

 最初のうちは小梅だけでなく私も振りが分からなかったが、踊りながら一周まわる頃にはなんとなく形になってきた。輪の中に理沙嬢、小梅、嵐太郎、私の順に並んでいる。熟女乙女ふたりは「あとでまいりますわ」と輪の外で団扇(うちわ)を使いながら和やかに語り合っている。


「なんだよう、どこ行くんだよう」

「ちょっと挨拶だけ」


 と声が聞こえてきて、私の少し前、理沙嬢のすぐ後ろに大きな人影が加わった。


「白梅様、こんばんは」

「こんばんは」


 微笑みかけると日焼けした顔をほころばせる。石部少年だ。


「理沙ちゃん、久しぶり」

「きよくん……」


 おいおい、甘酸っぱいな。いつの間に「理沙ちゃん」「きよくん」の仲になってんだよ。

 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。

 しばし輪になって黙って踊り続ける。小梅が「なーに?」とことばにせず表情で問うのでにっこりと笑んで応える。「黙ってほっとけ」の意であるが伝わるかどうかは分からない。嵐太郎が小梅に「しーっ」と仕草で伝える。


「あの、浴衣も、似合うね」

「そう?」


 理沙嬢の頬が赤い。

 今日の理沙嬢は真知子さんと一緒に選んだ新しい浴衣を着ている。明るい空色に染め白の綿紅梅(めんこうばい)桔梗(ききょう)の花の柄だ。柄が細かくて一見地味だが、涼やかで大人っぽくもある。小柄な理沙嬢には柄が大ぶりでないほうが似合うようだ。麻の半幅帯は撫子(なでしこ)色の市松模様。唇にも淡く撫子色の紅を差している。初々しい娘ぶりだ。

 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。


「かわいいよ」

「ありがと」


 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。


「じゃあ、またね」

「うん」


 体を(はす)にして言葉を交わすだけだったのが最後に一瞬、二人の視線が絡んだ。微笑み合う。燈籠に照らされる笑顔がまぶしい。

 石部少年は理沙嬢の恋情に気づかず自分が一方的な思いを抱いていると考え、理沙嬢は自分だけが気持ちを持てあましていると思っている。以前より距離が縮んでいても、お互いがお互いを思って遠慮している。その遠慮がこうして顕れる。

 理沙嬢と石部少年が美しく笑みを交わすさまに私の心は締めつけられた。二人はまだ高校生と小学生で、生活圏も文化圏も異なる。その隔たりはおそらく二人が大人になってもしばらく続くだろう。先に大人になり、結婚や出産の適齢期を迎える理沙嬢は今の気持ちを維持しようとすると長期間待たねばならず、石部少年は本気でお嬢さん育ちの理沙嬢とどうこうなるつもりがあるのならば、いっそう急ぎ足で大人にならなければならない。

 初恋というのは特別だ。釣り合いだとか思惑だとか、そんなものと無縁にただ惹かれあう。そういう恋はまぶしい。

 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。


「おり……小梅ちゃん、上手に踊れるようになったね」

「がんばって踊ってましゅよ!」


 こうしてぐるぐると輪になって踊っていると、お店のおじちゃんが雲をつかまえて(あめ)にしてくれるのだという。小梅はわたあめをおいしく食べるために鼻息荒く踊っている。

 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。

 熟女乙女二人が加わったのと交代で、私は輪から外れた。会場の隅の大きな銀杏(いちょう)の影で一息つく。手拭いで額を押さえる。真夏なのに私の身体は凍えて、汗をかいていないけれど。

 輪から私のように外れる者、新たに加わる者がいる。理沙嬢と石部少年のような淡い交歓でなく、若者同士の明け透けなやり取りも見え、浮ついて賑々しいのに、なんだか現実感が薄い。


――あれ、お父さん、お母さん……?


 輪の中に両親の姿がちらりと見えた気がした。

 そんなはずがない。中年になってもみょうちきりんに仲のよかった夫婦は最期まで仲良くともに交通事故で亡くなってしまった。もう十年以上前のことだ。

 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。


――不思議だ。


 つい似ている人を探してしまう。

 あの人は機嫌が良いときの祖母と少し似ている。親しい人と話すときのにこやかな頬の上がり方が似ている。輪の中で疲れた顔をしている美女は、河川敷で会ったむちむちさんとゴージャスな口もとが似ている。しゃっきりと背の高い爺さんは祖父と。年齢はいっているが若い頃はさぞかし、と思わせる華やかな老婦人はおば様と。


――不思議だ。


 似ていると思った人の面影は、半周も回らぬうちに消え失せてしまう。


――おば様。


 会うときはいつも喪服に身を包んでいた美しい人。透きとおるような肌が儚く、弧を描き微笑む唇はさびしげで、切れ長な目は濃く長い睫毛で縁どられていた。顔の造作だけでない身の内から匂い立つような美しさに圧倒される、そんな人だった。そして私以上に家族に縁のない人だった。看取ることができなかったのならばせめて供養だけでも。寂しい思いをすることのないように。そう思っていたのに。遺体を荼毘(だび)()すこともできず、忌みごとを徹底して避けることになっている白梅荘では先祖の霊としておば様を(まつ)ることもかなわない。

 盆踊りは現世に帰ってきた死者と生者が交歓する場でもあるという。

 もう一度あの輪に戻ればおば様と会えるだろうか。祖父と会えるだろうか。私がこれから先、どうすればいいか、導いてもらえるだろうか。


――きっとだめだ。


 ふと人の輪の中で祖父に似ていると見えた背丈の高い老人は、次に顔が見えたときは祖父と似ても似つかず、華やかな面差しの老婦人はおば様に似ているように見えたはずなのに、実際にはそうでなかった。

 後ろへ、前へ。

 すらり、すらり。

 よいよいよいよい。

 どどん、ぱ。

 盆踊りはきっと、生者と死者が交歓する場ではない。異なる世界の重なるところですれ違うだけだ。


――心配しないで。ちゃんと暮らしているから。

――見て。こんなに楽しく暮らしているから。


 死者に見られているつもりで精一杯賑々しく、明るく踊る。踊りの輪に死者の面影を見るのは、その人のことを忘れられないから。賑々しく、明るく。

 私は生きているから、重荷に縛られようと圧し潰されようと、とにかく足掻(あが)いて前へ進まなければならない。生者の世界で。先が見えなくても前へ。おば様が引き継いでくださった家族を守るために。


――でも、義務を果たそうとする私はきっと、家族を守ることができない。


 おば様だってこの義務のことをご存じで、それを胸にしまってみちるさんにも漏らさず亡くなったのだ。分かった上で私に引き継いだはずだ。祖父の妻だった人だもの。

 銀杏の木に片手をつき、額を寄せる。

 何が何でも私の代で義務を果たしてみせる。たとえ誰かの力を借りることができなくても。必ず。恐れなのか(おそ)れなのか、身体の震えを抑えられない。ぎりぎりと歯噛みする。冷たい汗が背中を伝う。震えをやり過ごし、ついていた手を銀杏の幹から離そうとしたとき、その手を握られた。

 重なる浅黒い手はひんやりとして見覚えのない傷にまみれているけれど、背後から親しげな日向のにおいがする。その傷だらけの大きい手の上に更に私の青白い手を重ねた。


「うそつき」

「……すまない」

「何があっても一緒にいるって、いったくせに」

「……違う。何が起こっても離れないといったんだ」

「やっぱり、うそ」

「……すまなかった」


 手を放し、振り返る。私は目を(みは)った。

 周平が「無事だ」といったのを鵜呑みにしたつもりはなかったが、思いのほか傷が多い。夢の中の大山嵐と同じ場所、目の上に傷がある。唇の端も切れて腫れている。手を伸ばしかけて、やめた。


「こんなに怪我を」


 どうしても声が震えてしまう。


「問題ない。平気だ。見た目が大袈裟なわりに大したことないんだ。それよりきみに――」

「遅いいいい!」


 低いところから一喝された。ケイさんと二人で振り返る。金魚柄の愛らしい浴衣を着た小梅が仁王立ちしていた。



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