第八話 白梅(七)
悲鳴は外の、比較的近くから聞こえた。さっきの洟じゅびお子様の声だ。生意気とはいえ、いや、お子様だからこそ悲鳴を発する事態の出来は剣呑だ。
厨房の窓から顔を出すと、棟続きの離れ近くの茂みががさりと不自然に揺れた。
――あそこ、もしかしてお風呂?
私は走った。蜘蛛だか虫だかが窓にへばりついているだけかもしれないが、不審者が入りこんでいる可能性だってある。子どもに悲鳴を上げさせるのはゆるせん。
裏手の出口から外へ駆け出した。石鹸と湯気のにおいがする方向に見当をつけて走ると、不案内のわりに当たりだったようだ。
黒いキャップ、黒い上着、黒いズボン。黒ずくめの格好をした長身の男がこちらに背を向けて立っていた。
「何を――」
しているのか。質そうとして喉がつかえことばに詰まった。風体が怪しいことを除けば何の不思議もない。そのはずなのに男から禍々しい何かを感じる。
「いよいよか。やっと始まるんだな」
キャップの影に隠れ、男の顔は見えない。
――いやだ。
心が凍りついてしまって何も考えられない。逃げなければ。何がなんだか分からないけれどよくないことが起きる。それなのに動けない。
ふふ、と男が笑む気配がした。
「待っていた」
「何を――」
待っていたのか。ねばねばとして見えない何かに呑みこまれてしまったかのように身体がいうことを聞かない。
――いやだ、こわい。こわい。
目をぎゅうっ、ときつく閉じる。背後からばたばた足音と
「詩織さ……」
ケイさんが息を呑む気配がした。
――来ちゃ駄目。
呪縛が解け忙しなく息をつく私の視界が、風を巻くように駆けつけた人の大きい背中で塞がれる。
――駄目。
怒りと暴力の気配が大きく膨れあがった。それが黒ずくめの男のものなのか、大きい人のものなのか分からない。何がなんだか分からない、こんなのはいやだ。大きいものに包まれ安全なところに隔離されて私は危ない目に遭わずにすむかもしれない。でもそんなの駄目だ。
――いやだ。いやだいやだ。
私が自分の足でここまできて事態をこの方向へ動かした。どんなにいやな目に遭おうとそれは私のもので、いやなこと、怖いことだからってそれを他の人に肩代わりしてほしいわけじゃない。
――だからやめて。
目の前の広い背中に縋る。大きい人の目と、唇がまくれ上がり剥き出しになった白い歯に怒りと暴力の衝動が見える。私と目が合ってそれらがまたたく間に痛みと悲しみに塗り変わった。
そこからしばらく、暗闇を切り裂き明滅する雷のように記憶が切れぎれだ。
もがく私の身体は地面に横たわり、分厚い胸板に抑えこまれている。
いやだいやだ、と左右に振る頭の下に大きくあたたかな掌がある。
太い片腕で支えられた巨体の向こうから衝撃が鈍く伝わってくる。
――なぜ。どうして。
その人の顔が苦しげに歪む。痛いのか、悲しんでいるのか、怯えているのか。ぽたぽたと上から水が降ってくる。頬が接するくらい近くにいても、彼の涙が私の流すそれと混じり合っても、大きい人の気持ちが私には分からない。
――なぜ。どうして。
背後からの衝撃のせいでなく、かばわれている私が彼を悲しませ、怯えさせているような気がしてならない。もどかしい思いに衝き動かされもがき、
「……ケイさんやめて。お願い、怪我しないで」
巨体を押し退けようとしたとき、複数の足音とともに男女の争う声が近づいてきた。
「うぉりゃあああああッ!」
裂帛の気合い、そして少し離れたところで何か重いものが叩きつけられる鈍い音、悲鳴が聞こえた。
「ひと思いに死ぬか、死ぬ方がマシな目に遭うか、どちらがよいか、さあ選べ、腐れ小僧!」
「痛! いツた痛痛! おばちゃん、それマズいから。そんなことされたら死んじゃうから」
「黙れうっさいわ、おのれにおばちゃん呼ばわりされる謂れはないわ腐れ小僧が」
「今問題にするの、そこじゃないから、生死にかかわる問題だから」
「やかましい、腐れ小僧! 元はといえばおのれが紛らわしい真似をしくさるからうちの住人と客人が危ない目に遭っとるんじゃ」
「オレちゃんといいましたよ。怪しいやつが入ってきましたっていいましたよ」
「怪しいおのれの言など信用できるものかッ」
「ああっ、あっち! あっちですよ、おばちゃん、ほら、不審者!」
ばたばたと続けざまに人が走り去った。
「逃げるな、不審者!」
「待て! 早う追いかけんか、腐れ小僧」
「待つのか追いかけるのかどっちかにしてよおばちゃん」
男女の大声が遠ざかる。
辺りに静寂が戻る。ゆっくりと抱き起こされた。くらりと眩暈がする。大きい人に縋ろうとすると離れかけていた太い腕がふたたびやわらかく私を抱き留めた。
「……すみません」
低く太く、表情の褪せた声だ。身体がかくかく震えて声がうまく出せない。
「け……けが、怪我は、ありませんか」
やっとのことで声が出た。コントロールが利かない。身体の震えが大きくなる。答えが返ってくるまでしばらくかかった。
「だいじょうぶです。詩織さんこそ、お怪我は」
守ってくれたのはケイさんじゃないか。私に怪我なんかないこと分かってるくせに。がくがく震えながら目の前のセーターに顔をすりつける。ゆっくりと、ケイさんの大きな手が私の背中を上下する。震えをなだめる掌の優しい動きに反して声は硬く平板だ。
「詩織さんを怖がらせてしまいましたね。すみません」
違う、違う。あなたが怖いんじゃない。ことばで、全身で力いっぱい叫ぼうとしているのに私の心は大きい人に伝わらない。恐怖から遠ざかり、日向のにおいに包まれ安堵の中にいるというのに悲しい。自分自身の嗚咽に溺れ、私は意識を手放した。
いや、手放しそうになっただけで結局すんでのところで持ちこたえた。ケイさんの手が止まった。私の涙も引っこんだ。実に不本意だ。気を失ったほうがよっぽどよかった。私の背後、少し離れたところでもぞもぞ人の動く気配がある。
「ケイちゃん、ヤッチマイナですわ!」
「おばあちゃん、覗くのやめなよ。ぶえっ、ぶえっしゅううう」
「ちょっと理沙ちゃん、くしゃみくらい我慢できませんの?」
「あのね、おばあちゃん、ボク風邪っぽいわけ。それより『ヤッチマイナ』って何なの、首もげっての?」
「何いってるのかしらこの子ったらそんなのチュ」
「ぶえっくしょい」
なんだかあほくさくなってきた。今日出会ったばかりのおっさんとの距離が物理的に近すぎるのも含めてどうでもよくないか。あー、やめやめやめ。
「ええっと、はじめまして。高野詩織と申します」
ケイさんから身体を離し、向き直って名乗った。離れの窓の内側に好奇心いっぱいできらきら輝く顔が並んでいた。顔ふたつのうちひとつは洟を垂らしている。