第二十話 蓮見(二)
前倒しで家の中の仕事を済ませ、どうせすぐ汗をかくことになるのだけれどせめて、と軽くシャワーを浴びて浴衣に着替えた。花を見に行くのだから、花柄は避けて紺の格子にアイボリーの半幅帯、臙脂の帯締めを組み合わせた。甘さのないコーディネートだがもう娘でもないのだしよかろう。素足に下駄、日傘を差し
「行ってまいります」
と声をかけて、屋敷を出た。
「白梅様、今日はお出かけで」
「ええ。近くまで」
「お気をつけて」
ご近所さんと挨拶を交わす。
ケイさんはうきうきと出かけて行ったが、さすがに打ち合わせに行って挨拶だけで帰ってくることもあるまい。時間に余裕を持って出たから、私のほうが先に着くだろう。ゆるゆると歩いて目的地へ向かう。
多々良が浜は大きく弧を描く広い砂浜の一部だ。中央に港があり、東側に海水浴場があって夏休みに入った今、普段の長閑さが嘘のように観光客が集いにぎわっている。
私が向かっているのは街の西側、山へ向かって少し入ったあたりで観光客はやってこない。だから夏休みといっても行き交う子どもの姿が少し増えたくらいで普段とさして変わらず静かだ。
ぎらぎらと照る海がその姿を建物のすきまからちらちらのぞかせる街道から住宅街、山の方向へ足を向ける。白梅荘から離れたこのあたりまでくると普段言葉を交わすほど親しい人々もいないので、日傘で何となしに顔を隠しながら歩く。塀越しに見える夾竹桃の鮮やかな赤や芙蓉の薄紅を愛で、時間をかけて目的地に辿り着いた。大きい人の姿はない。白梅荘を早い時刻に出たからまだかろうじて朝のうちだ。それなのにずいぶん日差しがきつい。久々によく歩いた。
まず、神社におまいりする。自分ちが土地神の守人だからといってよその神様を軽んじたりしない。東京の実家があったあたりは、いろんな土地の出身者がいろんな神様を連れてきたところだった。ご利益のありそうな神様仏様は拝んでおこうという、よくいえば懐の深い、有り体にいえばざっかけない都会の下町だったからどの神様も隔てなく大事にするのが当たり前だった。
がら、がらり。
ぱん、ぱん。
私は知恵者の守人の血を濃く受け継ぎながら多々良が浜では未だに異分子でもある。この街の生活と歴史に根づきともに時を過ごす神に挨拶をきちんとしなければ。
まあ、何ということもない。つまるところ、気軽に神様仏様を拝む土地で育ったからこうして神社におまいりするのが好きなんである。義務だからおまいりするというより好きだからおまいりしたくなっちゃうんである。手や口を清め、鈴や拍手の音で穢れを払うと身体がしゃっきりするような、身が軽くなるようなそんな気がする。
――お邪魔いたします。
おのずと、頭が垂れる。
神社の境内からお池を眺めた。
ここは昔作られたため池なのだそうだ。今でも農業用水として現役だ。そこに蓮が生えていて夏になると花を咲かせる。見頃は早朝だと聞いている。確かに閉じかかっているものも見えるが、まだたくさんの花が開いていて壮観だ。
大きく厚い円形の葉が青々と茂り、あちらこちらに桃色の花が咲いている。
蓮の花は不思議だ。子どもの頃に見た寺の池で咲いていた花と寸分たがわぬ姿なのだけど大人になった今見てもやはり不思議だ。こうあってほしいと願う、ありがたさや珍かさがかたちになったかのような美しさだと思う。
大きなしずくのようなかたちのふっくりとした蕾。水の中からすっくと立ちあがった茎の上に咲く大輪の美しい花。中央の黄色いはちすを放射状に囲むぽってりと厚い花びらにあざやかな赤紫のすじが細やかに走る。大きく、美しい。この花は清らかでありがたいもののいますところにふさわしい。そんな美しいものがあちらこちらに、たくさん咲いていて
「まるで違う世界にいるよう」
意図せず、つぶやきが漏れた。
うっすらと、涼やかで甘い気配がする。香りなのか音なのか、快い気配はとらえようと探しているうちに空に立ちのぼり、消えた。
蓮や水草をそよがせる涼風が境内まで届く。手拭いで冷える前に首まわりの汗を押さえる。
そういえば。ケイさんとこうして待ち合わせをするというのも初めてだ。何せのっけから一緒に住んでいたものなあ。
水草をかき分け忙しなく泳ぎまわるかいつぶりの、親鳥の背に争うように乗り羽の中へもぐりこむ雛鳥の様子が愛らしい。子育ての季節なのか、鷭や軽鴨も雛を連れている。
――小梅に見せてやると喜ぶだろうか。
花や鳥の営みを繰り返し繰り返し見てきているに違いない者であっても、頑是ない様子をされれば子どもとして扱ってしまう。あらかじめ聞いていた再生後の様子と異なるのが気になるが、白梅が出てこないのでは確かめようがない。ひとまず再生は成功したようなので様子をうかがうことにしよう。
そうしてしばらく涼風がそよそよと髪をなぶるのにまかせていたのだがとっさに抑えたものの、舌打ちしそうになった。何ともいえず苦いにおいが背後、少し距離をおいたあたりに固まっている。洋物の香水かなにかの甘ったるい香りでコーティングされているのだが、溶け合わず分離している。不愉快なにおいだ。
「何ぞ、ご用でしょうか」
白い日傘越しにちらりと見遣る。複数の探索子を展開し、気配を探る。外はともかく、太鼓橋を渡って入る池の小島にある境内には私と、この男しかいない。
しゃりっと折り目のついた鈍色のよろけ縞の単衣に半衿や帯、雪駄や足袋などの小物も錆びて渋い色合いで抑えの効いた色合わせだ。斜に載せたパナマ帽だけが白いが、その色合いが涼感を誘い、夏らしくまとまっている。地味に見えて金のかかった格好だ。年の頃は六十代の半ばすぎか、もう少し行っているか。身長は私とさして変わらないが見た目通りの年齢ならば丈高い部類だろう。角帯に見覚えのある般若の根付けを提げている。押し出しのよい初老のこの男が川向こうの盟主か。
「あまりに暑いので蓮を見に来たんだが、花よりもよい。白梅のご当主は写真で見るよりずっとお美しいですな」
どうやら隠し撮りされていたらしい。それにしてもどんだけ写真映り悪いんだ。気になる。知らないところでショボい女扱いされるなんて不愉快だ。
はたはたとせわしなく扇子を使うので辺り一面男の体臭がまき散らされ、蓮の花の気配がどこかへ散じてしまった。川向こうの盟主はパナマ帽の影から現れた片目でこちらをじっと見つめる。
「それにしてももったいない。そんな男もののような浴衣でなく、もっと他に選びようがあろうに」
男ものか。私は気に入っているんだけど、そんなにだめかね。
「花と張り合ったとて、詮無いことです」
「いやいや、ご謙遜を」
川向こうの盟主は二、三歩間合いをつめてきた。じろじろと上から下へ不躾な視線を私に這わせる。
「ぜひわたしに選ばせていただきたいですな」
「お断りいたします」
川向こうの盟主はパナマ帽のつばをくいっと上げ、おもしろげに目を瞠った。
「ほう、きっぱりとしたものですな。理由を聞いても?」
「知らない人から物をもらわない。子どもでも知っていることです」
「それでしたらわたしは――」
「結構」
ちらりと視線をくれてやり、川向こうの盟主との間の地面に探索子のひとつをびしり、と叩きつけた。同じ精神干渉の異能持ちでないと探索子は見えない。しかし鎌鼬のように地面にびしり、と鋭く土埃が上がったのに相手は気づいたようだ。一歩後ずさった。
「欲しいものは自分で選んで手に入れる性分ですの。この格子柄の浴衣、気に入って仕立てたものですから愛着があります。でも他の人から勧められたらそもそも気に入ったかどうか分かりませんわ。あまのじゃくなんです」
ふふふ、と笑い、視線を蓮の咲く池に戻した。多少気味悪く映っているだろうが、川向こうの盟主の心の表層に私を侮る気持ちが漏れている。「薹が立っていると聞いていたが、つんけんとした態度がまるで小娘ではないか」とかなんとか、そんなところか。
会社員の頃からそうだ。こういう手合いは侮らせておくに限る。そのほうが動きやすいから。
――落ち着け、私。
予断で感情を暴走させてはならない。それでも抑えようとしてもふつふつと怒りが湧き起こる。近くに精神干渉の異能持ちがいたら、私を見てどう思うだろう。
――頭が、身体が煮えるようだ。
怒りが私の身体を開いた。後頭部に朱く肉の花が咲く。そこからうねうねとケーブルが伸び、それぞれが宙を舞う探索子とつながっている。探索子はペンシルロケットのような鋭く先のとがった形をしている。私の怒りに呼応して高いところで川向こうの盟主に狙いを定めたり、太鼓橋の向こうから蓮の花を眺めるふりをしている男たちの様子をうかがったりしている。こうしてたくさんの探索子を従える私はきっと、ギリシア神話の怪物メデューサのように醜くおぞましく見えるだろう。
蓮見の邪魔をされたから、そんな理由で怒っているのではない。おば様の、千草さんの遺体が周平経由でこの川向こうの盟主のもとへ運びこまれたと推測しているからだ。おば様が亡くなられてからおよそ半年。そのお身体が残っているにしろ、荼毘に付されているにしろ、おば様の死を穢した者どもを私は赦さない。今はまだ単に推測でしかない。言質を取ったら生まれてきたことを後悔するまで何度でもダメージを心にたたきこんでやる。
――さあ、どうやって情報を抜きとってやろうか。
私の怒りに呼応して探索子がくるくると宙を舞う。探索子と私とをつなぐケーブルがうねうねとのたうちまわる。ああ、酔う。怒りを抑えきれない。




