第十九話 蓮見(一)
暑い。うだる。暑い。ぎらぎらと日光が照りつける。梅雨は明けたんだが、湿度がさして下がった感じがしない。しかしうだってばかりもいられない。今日は外に出て土いじりをするつもりだ。
――紫外線を甘く見ては駄目。
――長時間外に出るときは日焼け対策を万全に――。
六百年間紫外線にさらされ続けたお方のおことばは重い。初めて白梅荘に来た日に見た、布でできた巨大な蓑虫みたいな怪しげな装備が功を奏していたのだろう。初老に差し掛かったみちるさんはしっとりつるつる美肌をばっちり保っていた。すばらしい。幾度も再生しているとはいえ六百年ものの美肌。その説得力高さたるや、お肌の曲がり角が忘却の彼方に去って久しく、たいていのことはスルーできるようになった私にすら衝撃を与えるほどだった。でも「日焼け対策」「お肌のお手入れ」と口うるさく注意する、ちょっと意地の悪い不機嫌メガネ――みちるさんはもういない。そのことに思い至るとまだ、胸が痛む。
長年飼い慣らした横着と諦念と、みちるさんのありがたい教えとをすり合わせた結果、つばの広い麦わら帽子をかぶることで妥協することにした。
菜園で茄子と胡瓜を収穫し、手入れをする。念入りに手ぬかりなく世話をしたので特に茄子はばんばん生っている。秋までおいしくいただくために剪定もばっちりしておいた。
「はっはっは、今日も茄子責めにしてくれるわ」
いけ好かない甘チャラ男の苦手食材をしつこく記憶しておいた私は毎日茄子料理をばんばん出している。乙女たちが飽きないようレシピを探していろいろと試さなければならないが、そうして手間をかける価値は十分にある。
みちるさんの再生後の姿、幼女の小梅の好物が意外なことに茄子だ。
「おやーたしゃま、おいしいね」
と小梅はにこにこしながらむっしゃむっしゃ夢中になって私の作る茄子料理を平らげる。
「らんたろしゃん、お茄子めしあがれ」
小首をかしげるとおりんちゃんという女性に似ている――そりゃそうだ。別人格になっているだけで、同じ人物なのだから――そうで、嵐太郎はめろんめろんになっている。めろんめろんついでに茄子を無理矢理食べさせられている。「このぬるっとした感じが嫌なのに……」などと涙目になって甘チャラ男が茄子を口にする様子を見るとスカッとする。はっはっは。
母屋のどこかから小梅がきゃっきゃとはしゃぐ声が聞こえてくる。小梅は身長一メートルあるかないか、見た目は四、五歳の女児だ。眉の上で切りそろえた黒く艶やかでまっすぐの髪をおかっぱにして、すべらかでふくふくとした血色のよい頬、きかん気そうな眉、表情豊かな大きな目をしていて愛らしい。
「おやーたしゃま」
どす、と後ろからやってきた衝撃に、菜園の畑の端っこにつんのめる。小梅だ。幼児といえど力いっぱいタックルされれば衝撃は大きい。
「きゃきゃきゃははははは」
尻を突き出しつんのめった間の抜けたポーズがいたく心の琴線に触れたらしく、小梅が弾けるように笑う。こら、小梅ええええ、と仕返しに擽ってやるとまた笑う。
「お茄子」
くるり、と表情を変え目を丸くしてぷっくりつやつやと実る茄子を指さす。
「へたにとげがありますよ。気をつけて」
「とげ」
「ほら、ここに」
指し示すと、「ほおお」とつぶやき、恐る恐る人さし指でつつく。
「いたいです」
唇を尖らせ、むうう、と棘を睨むさまも愛らしい。時折、再生前のみちるさんを思わせる表情やしぐさが見える。嵐太郎だけでなく、小梅は白梅荘の住人全員の心を鷲掴みにしている。
「おやーたしゃま、おやつはまだですか?」
「もうそんな時刻ですか」
「です」
よっこらしょ、と立ち上がる。道具をまとめ、ざるに載せた野菜を指先でつつく小梅を伴い屋内に戻った。
執務室へ向かう。
インターフォンで話を済ませてもいいのだけれど、できれば直接声をかけたい。ノックすると、内側から
「はい」
と低くゆったりした声が返ってきた。
執務室はどんよりしている。北向きで風通しも良いので、母屋の中では断トツで過ごしやすい場所なんだが雰囲気が淀んでいる。ケイさんが事務仕事を苦手としているからであるが、それだけでない。
から、からん。
ステンレスのポットからタンブラーにお茶を注ぐ。氷の欠片がたてる澄んだ音が涼しげだ。
「どうぞ」
机からソファへのっそり大儀そうに移動してきた大きい人にタンブラーを渡す。ぐいっと飲み干すので
「おかわりなさいますか」
と尋ねると、無言でふるふると首を振る。口がへの字だ。あらら。膝をぽんぽん、と掌で示す。ここへ座れ、とな。隣じゃだめか。
「失礼しますよ」
ケイさんは事務仕事もそうだが、暑さも苦手だ。梅雨入り後のひんやりした頃はともかく、ここしばらくの暑さでずいぶんまいっているようである。
「くっついていると、暑くなって辛いんじゃありませんか?」
「そんなことない。詩織、ひんやりしてる」
膝に載せた私をぎゅうっと抱きしめ、綿の単衣の背中をすりすりなでる。さっき小梅と一緒に汗を洗い流して着替えたばかりなのでくっついてまた暑くなるのは勘弁してほしいのだが、口はへの字、哀愁漂う上目遣いでおねだりされると弱い。頬を撫で、への字の唇の端にちゅ、と口づけるとケイさんの表情が和らいだ。
このところ、ケイさんと寝室を別にしている。正確にはみちるさんが再生して小梅になって以降だ。まだ幼い小梅は一人で寝つけないらしく、夜中目が覚めて寝台に一人きりだと分かると、泣きながら私を探す。お久さんや真知子さんといっしょでもだめであるらしく、激しく泣くのでもともとの私の居室、白梅の老木を見下ろす寝室で小梅といっしょに寝ている。
ケイさんは三日間我慢したのだという。それである夜、私の寝室へ侵入し川の字を試みようとしたところ、小梅に「めっ」と拒否されたのだそうだ。私は一度寝るとめったなことでは目が覚めないので、そんなことがあったというのも聞かされるまで知らなかった。
だからといってケイさんと小梅が仲が悪いかというとそういうことはない。他の乙女や私と同じくケイさんも小梅の愛らしさにでれでれし、小梅も自身が愛される価値があることを承知の上で皆に甘える。私が寝かしつけ担当なら、ケイさんはジャングルジム担当らしい。肩までよじ登って髪の毛を鷲掴みし頂上を征服して鼻高々な小梅にケイさんはにこにこと踏みつけられている。獣化の心配はないそうだ。
暑気あたりに加えてこういった事情もあってケイさんはたいそう元気がないのである。最初のうちはあまり心配していなかった。そもそもイタすかイタさないかといったら今までイタしたことなどないんだし、ただ寝室を分けたくらいなんだし。それでもあまりに萎れたケイさんの様子が少し気になったので
「抱き枕を買います?」
と提案したところ、えらく湿っぽい調子で拒否された。いい思いつきだと思ったのだけれど。――ちょっとボケてみただけだ。分かっている。今までが単に近過ぎ、零距離接近状態だっただけで、本来もうちょっと離れていてもいいんじゃないかな、と思うんだがとにかくべたべたとくっついていたい質であるらしいケイさんにしてみると急に距離をおいた感じがするのだろう。だからこうして必要がなくても直接顔を合わせるようにしている。
ふうう、とため息が落ちてきた。
「困らせて申し訳ない」
「困ってなどいません」
ぎゅうぎゅうと抱きしめて満足したらしいケイさんは、私の背中を「だいじょうぶ、だいじょうぶ」となでている。ボディタッチ過剰ではあるものの、ケイさんの通常モードに戻ってきたようだ。
「あ、そういえば」
少し体を離し、視線を合わせる。
「明日の朝一番でお出かけでしたよね?」
「ああ、打ち合わせがある」
「お帰りは遅くなります?」
「いや、場所も近いし、さして時間もかからないと思う。どうして?」
すぐ近くにある頬を指でなで、再び視線を合わせる。
「外で待ち合わせ、しませんか?」
「そと?」
「ええ。神社のお池で蓮が咲いたと聞きました。会合の帰りにお池で蓮の花を眺めるのはいかが? 蓮の花って、子どものころ以来見ていないので、じっくり眺めたいです。――あなたと」
浅黒い肌に刻まれた笑い皺が深くなる。厚い唇に太く猛々しい鼻すじ。白髪交じりの硬そうな髪がかかる垂れ気味の眉。切れ長の目に宿る光が揺れる。
「いいね。そうしよう」
大きい人が嬉しそうに微笑む。心もとないくらいやわらかく熱いものがゆっくりと私の唇を塞いだ。
生まれた場所も年齢も、何もかもが違っているのに私たちは鏡像のように似ている。
さびしくて人恋しくて、それなのに誰かに触れられるのが怖い。相手の心を傷つけ嫌われるのが怖い。だから異能でとげとげしく武装し心を鎖す。
壁を造ろうと異能で武装しようと、どんなに遠ざけようとも大きい人は軽々と踏み越え、境界を溶かしてしまう。私が心に隠し持っていた懼れも隔てもすべてその熱で。
姿が変わってもあなたのことが好き。人の肌を刺し切り裂く針毛を身にまとう獣の姿も好き。あたたかく美しいあなたの心を知りたい。穏やかであたたかな風穴、青い光に満ちたセノーテ。もっとあなたのことを知りたい。しかし私の異能はあなたの心を暴き踏みにじる。課せられた義務があなたと私を隔てる。
身を寄せあたため合いたいのに棘でお互いを傷つけてしまう。私たちふたりは同じジレンマを抱えるヤマアラシだ。




