第十八話 疾雷(十)
自分でいいだしておいて何だが、みちるさんの再生が新月でなければならない理由は分からない。単に明るさの問題でないのは明らかだと思う。例えば今日の天気。これだけ雲がかかっていれば月が出ていようが新月だろうが関係なさそうだ。昨日もどんよりした空模様だったが、今日は輪をかけてどんよりしている。それでも気温はぐんぐん上がり、ねっとりとした空気になってきた。
再生のタイミングそのものはみちるさん本人が決めるが、夜になるのは間違いないという。午後遅い現在、私はみちるさんの寝室を訪れていた。みちるさんの、というより白梅の指名なのだろう。サシで話したいらしい。身構えて枕もとに向かったのだがあまりに小さく枯れた姿にことばも意気も失った。布団から出ている指先をそっと握る。かさかさと乾いてあたたかい。初めて会ったあの病室で握ったときと同じ感触。それなのにこの人は短い間にこんなにも疲れ衰えてしまった。
「――おやかたさま」
「みちるさん、白梅、ごめんなさい。再生を先送りすべきではなかった」
きゅ、とかさかさの指が私の手を握り返す。
「よいのです。変えていただけてようございました。――どうしてなのか、再生は新月と決まっていたのに忘れていたようなのです」
「……」
「おやかたさま。再生のプロセスをご存じですか」
白梅に、嵐太郎から聞いた再生の様子を話した。
「そのとおりでございます。それは嵐太郎様がまだ子どもの頃の、あのときでございますね。――なつかしい」
白梅は熱に浮かされたような潤んだ目で私を見上げた。かさかさとした指がきつく私の手を握る。
「――おやかたさま。今回は仮死から再生の間隔が長くなってしまうかもしれません。あまり間隔が長引くと再生は失敗します。もしそうなったとしても嵐太郎様のせいではありません」
「承知しています。今回の再生には私とケイさんも立ち会います」
「そういえば、あの大きい乙女は医師なのでしたね」
――ああ、私は、私たちは歳をとった……。
吐息のようなつぶやきが白梅と私の間を遮る。しばし目を閉じていた白梅が再び私を見上げた。
「おやかたさま。ありがとうございます」
「なんのことでしょう」
「私が取り憑いているこのみちるという人格を、おやかたさまならば説き伏せて――抜き針の儀を執り行うことも可能でした」
「白梅。そんなことは――」
確かに、その気になればみちるさんを説得して抜き針の儀を執行できただろう。たとえそれがみちるさんの死につながるとしても、白梅と人を隔てることが私に課せられた義務を果たす近道になる――それは分かっていた。
でも、そうしなかった。今日、明日ではない、より期限の緩やかな未来へ問題を先送りしてしまう。私自身の残り時間も明らかでないのに。確実に打てる手があるのにタイミングを逃してしまった。どうしても私はみちるさんと白梅とを分けてとらえることができない。みちるさんと、今夜新しく生まれ変わるというまだ会ったことすらない人格とを分けてとらえることができない。
「おやかたさま――白梅はどうなってしまうのでしょう」
それは分からない。
ただ生きていれば、命さえつないでいればなんとかなる。いつか必ず事態を打開できる、そう信じて闇雲に動くしかない。他の選択肢を封じてしまったから。
* * *
夜。陽が落ちていっそう湿度が高くなった。身の置き所がないほど蒸し暑い。
私は離れにある風呂場で水垢離して晒しで胸もとを固め、白装束に身を包んだ。昼間、白梅にはああいったがまだどういう事態になるか分からない。必要があればすぐ儀式に臨めるよう潔斎した。
刻限までまだ間があるはずだ。風呂場の出口で外を眺める。理沙嬢の抜き針の儀式の日も、こうして離れの前を眺めていたんだった。ついこの間のようにも、ずいぶん昔のようにも思える。
空の色が変わった。新月だから。それだけではない。空が暗く、重い。のったりと倦む重く蒸し暑い空気の中にすうっと冷めた風がとおる。
「詩織。少し早いが」
母屋の入口からケイさんの声がかかった。
「ええ。荒れそうですね」
離れの戸を閉て、母屋へ向かった。示し合わせていないのにお互い白装束で、顔を合わせるなり苦笑いした。
ぼつり、ぼつぼつぼつ……。
雨が降りはじめた。大粒の水滴が地面を抉るように叩きつける。
「行こうか」
「ええ」
荒れそうだというので早々に雨戸を閉てたとかで屋内は灯りがともっているのに重苦しく暗い感じがする。雨と風が雨戸や外壁にあたって大きな音を立てる。
大広間には診察台や機材が揃えてあった。ケイさんが白装束のみちるさんをそっと長椅子の上に横たえる。真知子さんとお久さんがそれぞれにみちるさんと名残を惜しみ、隣室へ去った。屋外で風が一層強まったか、鎧戸がばたばたと音を立てる。嵐太郎がみちるさんの額を撫で、手首にそっと指をあてた。
時が満ちた。ひときわ荒く「ぐ、ひゅう」と呼吸音がしてそれきり、みちるさんの身体から力が抜けた。嵐太郎が表情の失せた声で告げる。
「心停止」
ケイさんがストップウォッチのスイッチを押す。
「二分以内に蘇生しない場合は一次救命処置、その後引き続き二次救命処置、それでも五分以内に蘇生しない場合――どんなに長くても六分が限度です」
「分かってる。五木くん、そのストップウォッチ、詩織ちゃんに渡して」
両手で受け取る。
「タイムキーパー、お願い。経過を一分単位で、二分経過以降は三十秒単位で知らせて」
「了解しました」
激しい風切り音が鎧戸を叩く音がする。
「――一分経過」
みちるさんの身体に変化はない。遠くで雷が鳴っている。
「――二分経過」
蘇生の気配はない。
「師匠、一次救命処置を始めましょう」
両手をみちるさんの手首と頸動脈にあてていた嵐太郎がケイさんを振り返ってうなずく。
「おりんちゃん、帰っておいで」
嵐太郎はみちるさんの胸に手をつき、ぐっぐっぐっぐ、と圧迫した。素早く気道を確保し、人工呼吸をする。そして再度身を起してぐっぐっぐっぐ、と圧迫を再開した。
「――二分三十秒経過」
雷鳴が近づいている。
「――三分経過」
「師匠、交代しましょう」
「……」
「――師匠!」
ケイさんが嵐太郎と交代し、同じ手順で胸部の圧迫と人工呼吸をしている。嵐太郎は汗を拭い険しい顔でちらり、と脇に置いてある機材を一瞥した。
「――三分三十秒経過」
ちかちかちか、とせわしなく明滅したかと思ったら、室内の灯りが消えた。室内が闇に閉ざされる。ケイさんがカウントしながらぐっぐっぐっぐ、と規則正しく胸部圧迫を続けるのが聞こえてくる。
閉じているはずの鎧戸の隙間から激しい閃光が漏れる。稲妻だ。同時に
ばり、ばりばりばり、ずずず……。
ひときわ大きく雷鳴が聞こえ、再び大広間は闇に飲みこまれた。
――早く、早く目を闇に慣らさなければストップウォッチが見えない。
焦って顔を上げてみて、驚いた。
――青い。
空気の流れに乗るように青く輝く細かい粒子が空気中を舞っている。
「五木くん、交代しよう」
「はい」
長身の男ふたりが入れ替わり、作業を再開する。
青い粒子は塊になったり薄く散らばったりしている。焦りを抑え粒子の流れを注視すると、みちるさんの顔のあたりに集まろうとして塊をなし、何かに阻まれぶわわ、と散らばり、またゆるゆると集まって塊を作り、と繰り返している。
――もしかして、この青い粒子がないと再生できないんじゃないか。
――何かが阻んでいるのか。
ケイさんと嵐太郎が何かいい交わしている。
青い粒子の塊はふわふわと漂い、嵐太郎の左腕、手首のあたりで逃げるように散らばった。そしてまた塊になり漂い、診察台の足にぶつかって散らばり、また集まって除細動器にぶつかって散らばった。私の身体の周りにも青い粒子が漂ってきたが、掌にあるストップウォッチにぶつかると、蜘蛛の子を散らすように避けた。
――機械、いや、金気を嫌うのか……!
「ケイさん、嵐太郎さん、金属を、金気のある道具をすべて大広間の外へ出してください」
「詩織ちゃん、何を……」
ケイさんは、私の視線が宙に浮く何かを追っているのに気づくと、すばやく除細動器や機材をワゴンにまとめ、掛け布団をマット代わりに床に敷くと、みちるさんの身体をそっと横たえた。
「師匠、腕時計を外してこのワゴンへ」
「五木くん――?」
「師匠、早く!」
ケイさんが診察台を持ち、扉へ向かって駆けた。嵐太郎もいわれるまま腕時計を外すとワゴンを押し、ケイさんを追って大広間の外へ向かった。
大広間の扉が閉じる。微かに梅の花の香りが漂う。青く輝く粒子は大きな塊となりみちるさんの身体の上に集まっている。再びみちるさんのもとに駆け付けた男ふたりに、私は叫んだ。
「もう一度、胸部圧迫をお願いします!」
嵐太郎が跪き、両手でみちるさんの胸部をぐっぐっぐっぐ、と圧迫した。青い粒子の塊が動き出した。みちるさんの身体に少しずつ入っていく。徐々に速度を上げて粒子が吸いこまれていく。みちるさんの身体の上の粒子の塊は渦をかたちづくっている。
「もう少し、もう少しで――」
と嵐太郎に声をかけたとき、再び稲妻が走り、雷が鳴った。
ばり、ばりばりばり、ずずず……。
青い粒子は燐光を放ちながらみちるさんの身体の中に吸いこまれていく。
「ぐ、ふう」
みちるさんの胸が嵐太郎の両手を押しのけるように大きく上下し、そして燃えた。胸から弾けるように現れた炎はあっという間に広がってみちるさんの身体を包んだ。その炎は初め青く、そして瞬きをする間もなく白く変じて激しくみちるさんを、そして私の視界を灼いた。
激しい光に眩み、よろけたところを傍らで大きい人が支えてくれた。目の奥が痛む。力強い腕に頬を寄せる。稲妻の閃光が鎧戸の隙間から漏れる。ほんの少し遅れて雷が鳴った。
微かに子どものしゃくりあげる声がする。
やっと目を開けることができた。明るい。停電が解除になったか、灯りが戻っていた。
みちるさんの姿はなく、おかっぱ頭のつやつやとした髪をふるふると震わせ、嵐太郎の腕の中で心細げにすすり泣く幼児がいた。みちるさんが身につけていたのと同じ白い小袖が肌蹴てしまい、細い腰のあたりでだぶついている。
「……お――」
「名を呼んではなりません」
慌てて私は嵐太郎を制した。ケイさんに伴われ、そばに寄る。嵐太郎の腕の中でふるふると震える幼女の頭を撫でた。つややかな髪の感触が快い。微笑みかけると、ふくふくとした頬を濡らしたままじっと見上げる。濡れ濡れとした大きな瞳に、幼く愛らしい見た目にそぐわない深遠と混沌、人でないものの気配を宿している。
――白梅。
「名乗りなさい」
「……」
「まだ、おり――」
「お黙りなさい」
力をこめて嵐太郎を睨みつける。心の表層にしびれが走るくらいのダメージは与えたはずだ。嵐太郎は目を瞠り凍りついた。
「さあ、名乗りなさい」
「……」
嵐太郎を睨んだ顔が怖かったか、幼女はまた愛らしい顔を歪め、大きな目を潤ませた。子どもは泣くのも仕事の内と聞くから仕方ないけれど、怖がられるのは困るな。苦笑すると幼女は目を潤ませたままきょとん、とした表情になった。
「あなたには他の誰のものでもない、自分の名前があるでしょう? さあ、名乗りなさい」
「……こ」
「――ん?」
幼女を怖がらせないよう微笑みかけ、その濡れた頬を指で拭う。そのままゆっくりと頬を撫でると、幼女は目を伏せた。長い睫毛が滑らかな頬に濃い影を落とす。再び視線を私に戻した幼女の目に深遠と混沌、人でないものの気配が戻っている。
「――こうめ、です」
「あなたの名は小梅というのですね?」
「はい」
私は小梅に向かい、腕を広げた。
――おいで。
小梅は立ち上がり、ととと、と私の腕の中に駆けこんできた。小袖や袴などの白装束はおいてけぼりで、真っ裸だ。
「おかえりなさい、小梅」
「ただいま、です。おやかたさま」
膝立ちの私の胸もとに縋る小梅の、ふくふくとやわらかく、それでいて細く儚い熱い体をぎゅう、と抱きしめた。
――ごめんなさい、みちるさん、小梅。ごめんなさい、白梅。
また背中合わせの日々を強いることを心の中で詫びる。こらえきれずあふれた涙が小梅のつややかな髪を濡らす。
「おやかたさま」
幼い小梅が舌足らずに口にすると「おやーたしゃま」といっているように聞こえる。
「ないておられるの?」
「ええ。こうして、無事に小梅に会うことができて嬉しいのですよ」
生命力がいつ枯渇するか分からない自分の身体、後継者の望めない白梅荘。それでも生きていさえすれば、命をつないでいさえすれば必ず、状況を打開する局面がやってくる。――ほんとうにそうだろうか。心もとない。多様な選択肢を豊かに茂らせていた樹形図の枝葉は刈り取られ、まっすぐにひとつの方向へ向かっている。
遥かかなたで轟く雷鳴が、微かに聞こえてきた。梅雨が明ける。




