第七話 白梅(六)
手を引かれ向かった建物の裏手は昔の家の土間をどーんと大きくした感じで表よりいくらか庶民的だった。
おっさんに連れてこられたそこは厨房だった。ステンレス製のシンクや作業台には愛想の欠片もないが機能的で美しい。「追い始めるぞ」とかなんとか声をかけたら「ウィ、ムッシュウ」と元気に応える白いコックコートに身を包んだにいさんたちがわらわら飛び出てきそう。素敵。
厨房の隅の白い洗面ボウルの前に立たされた。
「しっかり手を洗ってください」
うなずく。水でじゃばじゃば手をすすぎながら横目で様子をうかがうと、おっさんは隣に設置されたランドリーボックスにエプロンのポケットの中身、すなわち洟まみれのハンカチと豆絞り手ぬぐいをぽいぽい放りこみ、するりするするエプロンの紐を解きこれもランドリーボックスに入れた。そして重々しく
「ちゃんと石鹸を使って爪の間や手首までしっかり洗ってくださいね」
と言い置き、身をかがめ厨房の出口をくぐって外へ行った。
神経質に過ぎるのではと口を尖らせたくなったが、おっさんのいうことは道理にかなっているので石鹸を泡立ててことさら丁寧に手を洗う。そうするうちにまたがらがらと引き戸を開けておっさんが戻ってきた。今度は巨大なクーラーボックスを両手に抱えている。もりもりの泡にまみれた両手を丹念に水ですすいでいると、クーラーボックスを床に置き、おっさんが隣へやってくる。私の手を洗う様子を見て満足げだ。
タオルで手を拭っていると、おっさんは両袖をまくり上げ丁寧に手を洗い、洗面ボウル隣のラックから新しいエプロンを取り出し装着、手ぬぐいをばばば、と頭に巻きつけさらにポケットにタオルだのなんだのを突っこんだ。実にきびきびしている。
そしておっさんはクーラーボックスの蓋を開けた。隣へ行って覗きこみ、思わず歓声を上げる。
「うわあ、いっぱい!」
黒いのやら茶色いの、ベージュ色、菱形おちょぼ口の皮剥が氷といっしょにどっさり入っていた。
「これは素晴らしい。ざっと見て四十枚はありそうです」
「そんなに! さっきのガ……いや、あの子が釣ったんですか」
「お客さんが来るから、と張り切って出かけたんですよ。普段は陸っぱりなんですが、今日は沖で確実に釣るんだ、なんて宣言してましたから。それにしてもよくがんばったなあ」
私が「さっきのガキンチョ」と口を滑らせそうになったのに気づかれなかったようで幸いだ。おっさんはクーラーボックスをみっしり満たす皮剥を前ににこにこしている。
「これだけあれば肝和えの他に鍋も仕立てられるな。今夜は全員揃うけど十分……あ、もちろん食べますよね」
「私も?」
「はい。今夜は何かご予定が?」
各方面から御役御免されて毎日が日曜日のようなものだ。ご予定なんて上等なもの、存在するわけがない。
「いきなりお邪魔するのも失礼ですし」
「詩織さん、もしかして魚嫌いですか?」
「いやいや、そんなことないです魚好きですよ……って、名前?」
おっさんは「ああっ」とうろたえながらがばーっ、と立ち上がった。後から思えば高いところで好きなだけうろたえさせておけばよかったんだがそのときは後追いするように「およ?」と私も立ち上がり、いっしょにあわあわしてしまった。
「そのそのその、ち、千草さんがあの、血のつながりはないけど孫のような娘なんだ、と『詩織ちゃん』の話をよくされていてその、は、初めてお目にかかる気がしなくてそのあのあのあの」
「落ち着いて、おっさん、落ち着いてくださ」
あ、やっちゃった。おっさん呼ばわりしていた心の声がついに漏れた。乙女に向かって「おっさん」ってはっきりいっちゃった。もしかして、もしかしなくても禁句だったか? どう見てもおっさんなんだけどやっぱりまずいかなまずいよね、きっと。
「すみすみすみ、すみません!」
「いいえ、こちらこそすみません。まだ名乗っていませんでした。俺、五木です。五木圭一と申します」
おっさんは胸に片手をあてていった。
「あの、何とお呼びすれば」
「それは何とでもお好みで。何でしたらその、おっさんでもかまいません。そういう歳ですので」
あっ、おっさん、顔を背けちゃった。「かまわない」口ではいいつつ内心かまうんだな。やっぱり乙女としてはおっさん呼ばわりは耐えがたいものがあるに違いない。みちるさんや洟じゅびお子様に習ってケイちゃんと呼ぶのは本人に違和感がなくても初対面のこちらには親しさの振り幅を大きく超えてハードルが高い。圭一さんというのはおっさんほど忌避感がなくても乙女らしからぬお名前だからいやがるかもしれず、五木さんでは他人行儀でうじうじさせてしまいそうだし、どうしたものか。
「じゃあ、ケイさんとお呼びしても?」
びくりと肩を震わせて彼は刹那、動きを止めた。そのとき何を思ったのか、その瞳の揺らぎから分かったわけではない。でも私の呼びかけは彼の心を元あった場所から違う場所へ動かしたらしい。おっさん乙女は
「はい、ぜひ」
やわらかく微笑んだ。
口癖が「すみません」だったり、本人の意思と関係なさそうなところで乙女扱いされていそうだったり、もしかしたらほんとに乙女のつもりなのかもしれなかったり、腰が低いかと思えば妙に強引だったりするけれど、今見せているやわらかく素朴な笑顔がこの人の本質なのかもしれない。そうであってほしいと思った。
そこからのおっさん改めケイさんはすごかった。
ボウルやらバットやら包丁やらを取り出すと、べろっと皮を剥き、頭をもいで肝を取り出し、身を三枚に下ろし、あっという間にカワハギを捌いていく。鮮やかな手つきだ。
手伝いを申し出ると「皮剥捌けますか」と訊かれた。正直に「できません」と答えると、ケイさんはさしてがっかりした様子も見せなかった。
家事炊事は得意じゃない。刺身は寿司屋や小料理屋で綺麗に盛りつけられたものをありがたくつまむ。ほんとはそうでないと分かっちゃいるが、海で切り身や刺身が泳いでいるんだと本気で信じたい。そのくらい魚を捌く行為と縁がない。エプロンを借りて葱を洗ったり人参を洗ったり使い終えたボウルや鍋を洗ったり、主に洗い物で獅子奮迅の働きを見せつけましたよ、私は。
鍋と刺身の下ごしらえが終わると日が傾き、夕方近い時刻になっていた。仕込みのすんだ食材を冷蔵庫にしまいながら「お茶でも淹れましょうか」とケイさんがこちらを振り返ったとき、外から「ぎゃあああっ」と悲鳴が聞こえてきた。




