第十七話 疾雷(九)
みちるさんとの最後の日々は瞬く間に過ぎていった。
「再生は――儀式というわけではないから乙女の立ち会いは不要よ」
ゆっくりととぎれとぎれ口にするみちるさんの声は嗄れていた。いつものきっぱりとした声を聞きたかった。
ここしばらく、目に見えてみちるさんは衰えている。肌や髪ははかさかさと乾き艶を失い、身体がしぼんでますます小さくなったように見える。
――このままでは新月を待たずはかなくなってしまうのではないか――。
新月の前日、とうとう歩くことさえできなくなったみちるさんを目の前にして私は言葉を失った。
――明日の夜には再生して新しい体になるんだから大丈夫。
――あと一日なんだから、大丈夫
そう自分にいい聞かせても不安が募る。
雨上がりの庭を見たいというみちるさんを、ケイさんが抱き上げて車いすにそっと載せた。そのまま車いすを押し中庭へ向かうケイさんに嵐太郎がついて行く。みちるさんが見せた微かに顔を傾ける気配をとらえ、嵐太郎は
「どうしたんだい?」
などと世話を焼いている。細長い体をかがめて覗きこむ嵐太郎と、大儀そうなしかし安心しきった目で見上げるみちるさんを裏口の上がり框で見送って振り向くとお久さんが厨房の入口に立っていた。
ちらりと目が合うと、お久さんの顔に苦笑いが広がった。小暗い裏口の土間からその表情をうかがうことはできない。目が合ったときにお久さんがするりと心の奥にしまったあれはなんだったのだろう。
「お茶を淹れましょうか」
茶葉や茶器の支度をしながら横目で窓の外をぼんやり眺めるお久さんの様子をうかがう。
今日のお久さんはいつも通りしゃんと背筋が伸びているのに何となしに輪郭の揺らいでいる感じがする。水を汲もうとやかんを手にし、ああ、そうだ、厨房の灯りを入れていなかった、とスイッチへ手を伸ばそうとしたとき、お久さんがぼそり、とつぶやいた。
「わし、乙女を辞めてもよいだろうか」
「いいですよ」
お久さんがくるりと振り向く。顔が影に隠れる寸前、驚き瞠った目に揺れる光が宿ったのが見えた。
「よいの?」
「はい」
振り向いたお久さんの表情はよくうかがえないが私をじっと見上げているのは分かる。
「乙女を辞めてもかまいませんよ。ただし、条件があります」
「なんじゃろうか」
「お久さんもご存じのとおり、抜き針は危険な儀式です。明確な意思がなければ成功しません」
「そうじゃな。理沙ちゃんのとき、そう聞いた」
こうして上から問うのは、年上の、そして世話になりっ放しのこの乙女に対して失礼かもしれない。しかし私は姿勢を正し、お久さんの肩と頬に手をあてた。窓の外の灯りが届く角度へ体の向きを変えてお久さんの目をじっと見つめる。
「館の主として問います。本当に乙女契約の解除を望みますか?」
お久さんの細い目に光が差しこむ。
戸惑い。悲しみ。諦め。執着。希望。喜び。失望。
虹彩が明るい茶色に輝く。細く絞ってなかなか目の色を見せないこの人の心がはっきりとここに表れている。
私はこの人の乙女契約を解除したくない。
この人の要塞という異能を頼りにしているから。それもある。小さな体に似合わない格闘スキルを頼りにしている。それもある。乙女たちの間で緊迫感が高まるとき、自然とガス抜きするように、和を取り戻す方向に行動するお久さんのそのバランス感覚や人当たりの良さを頼りにしている。もちろんそれもある。
乙女を辞めた後、実家、あるいは本家筋の叔父様の道場でまた暮らすとしても、どこか居づらく、肩身狭く過ごすことになるのではないか。その懸念もある。でもほんとは、いちばんのわけは。
――私があなたと一緒に暮らしたいのだ。
そういってしまいたい。さっき「乙女を辞めてもかまいませんよ」といい放った同じ口で。
「わし、みちるちゃんの対の乙女のままでいて、いいんじゃろうか」
ゆらゆらとお久さんの瞳が揺れる。
「明日、最後まで対の乙女でいつづけるのは不安ですか」
「みちるちゃんがみちるちゃんでなくなるというのが想像がつかなくてのう」
「みちるさんは何かおっしゃってましたか」
頬と肩を拘束する私の両手からするりと抜け、お久さんはうつむいた。
「城下みちるとしての人生は終わる、と」
無言のままうつむくお久さんの頭、つむじと額の間を見ながら私は小旅行から帰宅した日、体調を崩したみちるさんが抜き針の儀式を依頼してきたときのことを思い出していた。
――一度、すべて忘れてしまうの。
――私自身の意識は眠ったままで、記憶も心の奥底に沈む。
――今の『みちる』という私はもうすぐいなくなる。
――そうしたら詩織ちゃんのこともみんなのことも……
――きっとお久のことも、忘れてしまう。
――だから、私に抜き針の儀を……
「みちるさんが、私やほかの乙女があなたをどう必要としているか、そこは度外視してかまわないんじゃないでしょうか」
再びお久さんが顔を上げる。細い目に涙がたたえられている。瞬きでつつ、とその涙があふれ出した。
「明日の夜、みちるさんはいなくなってしまいます。私もそれがどういうことなのか想像がつかない。考えるのを心が拒否する。でもあの人は白梅の乙女なのだと、私の乙女なのだと思うのです。私の知らない誰かに変わってしまうのだとしても」
「……」
「お久さん、あなたはどうしたいのですか」
お久さんの口もとがわななき、目から涙があふれ続ける。
「――みちるちゃんが庭を見せてくれた。青い花が浮き上がるようにふわふわと咲く庭じゃ。わし、要塞の強化のためにあそこにも毎日行くんじゃ。でも知らなかった。青い花があんなに燃えるように輝くなんて」
お久さんはぐい、と目もとを拭った。それでも涙があふれる。
「みちるちゃんがいっておった。再生する直前、最期のときにこんな青い光に包まれるのだと。再生前の人生の記憶、殊にこの青い光を思いだしたら再生に向けて老化しはじめる。でも今回は三十年も前からこの青い光が蘇り、自分を苛みつづける。それでも美しい炎だと心惹かれてしまう、と……」
こらえきれない様子でお久さんがうつむいた。ぽたぽたと涙が落ちる。
「城下みちるとしての人生は対の乙女を必要としないのかと思っていたのに、やはり今回も対を見つけた、見つけてしまった、とみちるちゃんはいっておった。でも――」
――青い光に残り時間をじりじりと燃やされるような三十年だった。
――でも、お久、あなたに出会えてよかった。
そういわれたのだそうだ。
どうやってやり取りするのか、「『対』などつくらなければよいと毎回忠告する」という白梅を振り切ってまで、そうして得たその対にこうした不安と重荷を背負わせてまで、彼女の再生は繰り返さなければならないのか。しかしここでみちるさんやお久さんの抜き針の儀式を執行しても――。
――散る。鮮やかな朱。
――色を失った世界、光と熱を失った私の乙女の、その部分だけが朱い。
「ああ、おやかたさま。いや、詩織ちゃん。そうじゃな。こうしてみちるちゃんに乙女の皆に心を残したまま乙女でなくなったとて詮無いことじゃ」
お久さんが苦笑いしながら腕を伸ばし、袂から取り出したハンカチで私の頬を拭う。
「申し訳なかった。大事を前に取り乱してしもうて」
「ごめんなさい」
「いいんじゃ、いいんじゃ。わしが悪かった。もう迷ったりせぬよ。ほれ、入口で大きいのがのう、『俺のハニーをいじめるな』とか何とか、ナイト気取りでこちらを睨んでおるよ」
親しげな日向のにおいに背後から包まれる。
「お久さん、俺、睨んでませんよ。変な話を作らないでください」
「そうかのう、わし、視線でズバッと――やや、すまぬすまぬ。ところでみちるちゃんは」
「お部屋で休んでいらっしゃいます」
「うむ、じゃあみちるちゃんのご機嫌うかがいにまいるかの」
私を背後から抱き締めるケイさんの腕をぽんぽん、と叩き、お久さんは階上のみちるさんの部屋へ向かった。
「詩織、こっちを向いて」
いわれるまま振り返ると、改めてぎゅう、と抱きしめられた。
「私、だめでした。泣いちゃいけなかったのに」
「そんなことない、だめじゃない」
大きい人はいつもいつも私に優しい。今もこうして胸もとに縋る私を抱きしめ、頬ずりして甘やかす。
「俺たちは簡単に乙女を辞めることなどできない。だから辞めるときは他の誰かのせいでなく自分でちゃんと決めないといけない。理沙ちゃんの儀式で俺たち乙女はそれを知った。だからああして乙女の意思を尊重し確認するのが正しいんだ。詩織、きみは間違っていない」
「でも私、口にはしなかったけど、きっと気持ちが漏れて」
「そうだな。俺ならきみの泣き顔を見たらすぐ気持ちが揺らぐだろう。きみの泣き顔はかなりくるから。今はきみの立場とかいろいろあるから我慢できているけれど、そのあの――」
大きい人の胸もとから顔を上げた。目を合わせようとするとふい、と逃げられた。ケイさんの頬が赤くなっている。尊重、我慢、「くる」ってなんぞ。まさかアレか。こんなときにアレ話か。両腕をつっかえ棒のようにしてぐぐーっと巨体を押しやり離れようとするが、こんなときに限って大きい人は強引だ。ぎゅぎゅ、と力強く抱き寄せられた。
「離してください」
「やだ」
「ケイさんのすけべ」
「いやほんと、それは済まないと思ってる。でも俺も男なんで」
「いいかげん枯れちゃってもいい年齢でしょうよ」
なんたって百歳なんだし。――あ、いけない。タブーだったっけ。
それからしょんぼりしたケイさんの機嫌を取るのが大変だった。特に首のあたりが大変だった。でも機嫌は直ったんだと思う。
理沙嬢も加わって全員がそろったみちるさんを囲む最後の晩餐はケイさんが腕をふるい、いつも以上においしかった。席を替えてみちるさんの隣に座ったお久さんが、皆と同じご飯をやわらかく、細かく刻んで食べやすくしたものをみちるさんの口へ運び、微笑み合っていた。特別にみちるさんに言葉を求めたりはせず普段通りの夕食だったけれど和気藹々と、しかし少し口数少なく私たちは最後の時間を噛みしめた。




