第十五話 疾雷(七)
「僕は川向こうさんとは立場が違う。僕、この白梅荘がなくなればいいと思っているんだ」
食堂は奇妙な沈黙に侵された。右の頬にケイさんの視線を感じる。私はみちるさんの様子を注視していた。うつむいていたみちるさんがゆっくりと顔を上げる。どこか童女めいて目に混沌と深遠、人でないものの気配を帯びたそれはみちるさんではない。
――白梅だ。
ちらりと私を見て目を細めた後、嵐太郎に向き直った白梅はゆっくりと言葉を紡いだ。
「嵐太郎様、相変わらずたわけたことを」
男を突き放し、見下す目をしている。対する嵐太郎も甘ったるくチャラチャラした雰囲気をかなぐり捨てていた。
「おりんちゃん、僕の考えは何年、何十年、たとえ何百年経っても変わらない。こんなこと、もうやめよう」
「何を馬鹿なことを。知恵者の血を濃く継ぐ誇り高き者のことばとも思えません」
「しかし、おりんちゃん」
「くどい」
静かでゆったりとした口調であるにもかかわらず、厳しい響きだ。
「今のあなた様は当主でも何でもありません」
刹那、嵐太郎の目に宿った光は何だったのだろう。フィルタをかけずそのままを記憶する。集うメンバー、固唾をのんで見守る人々の表情、カーテン越しの雨の音、ただ冷えていく夕餉、接する膝の、傍らの大きい人の親しげなぬくもり――すべてを。
嵐太郎はつつ、と窓に目をやった。カーテン越しに夜の景色が見えているかのような仕草だ。そして表情を元の人を食ったような笑みに戻した。
「それもそうだ。僕は当主ではない。いうだけは自由だ。ただの意見のひとつでしかないけれど」
肩をすくめる。
「そういうわけで僕はこの白梅荘に関して川向こうさんと意見が異なる。そのあたりを川向こうさんは僕が実家嫌いなんじゃないか、寄りつかないんじゃないかと勘違いしているみたいなんだけど、念のためという感じで周平くんを偵察に差し向けているんじゃないかな。見つけたら連れ戻してこい、とかなんとか。ただ――」
嵐太郎は少し表情を引き締めた。
「里帰りした日、そして今日、二度詩織ちゃんと向かい合う周平くんを隠れて見てたんだけどちょっと彼、様子がおかしいね。五木くん」
「はい、師匠」
「周平くんのあれ、周期的な凶暴化ってことはないの?」
「どうでしょうか。あいつの獣種は複数なので、凶暴化の周期は以前からまちまちでした」
「僕が川向こうさんちを脱出する前から様子がおかしくてね。近隣の若い女性をさらっちゃったりとか。川向こうさんはどうも手を焼いてたみたいなんだよね」
「――えっと、そのあの、みなさんは獣化についてご存じないと思うんですが」
よその拠点について知らない乙女がほとんどだ。ケイさんは自身の異能について説明することにしたらしい。しどろもどろである。
「えっと、困ったことに獣化の異能持ちは凶暴化する時期というのがありまして、そのあの、凶暴化するときは一般的に異性への渇きというかなんというか、そのあの、欲望が高まる傾向があります……」
乙女と女子高生の冷視線で晒しあげられ、ケイさんは青くなったり赤くなったりしている。ちょっとかわいそうだ。
「ああ、そうか。みんな知らないよね。五木くんの名誉のためにいうとね、この人の場合文字通り草食系だから、山の中を走りまわって木の実とか根っことか果物なんかを齧ってれば満足しちゃうの。ちょっと姿かたちが変わるだけでただのキャンプ好きのようなもんでしょ。お土産が自然薯だったり茸だったりあけびだったりするから僕は楽しみにしたもんだ」
懐かしそうにしていたが、再び表情を引き締めた。
「ま、それはおいといて周平くんなんだけど、もしかしたら川向こうさんもコントロール不能になっちゃっていて、多々良が浜で暴れてくれてる分には自分たちのテリトリーに被害がないからって放置している、その可能性もあると思うんだ」
「その根拠は」
「周平くんが暴れている多々良が浜にあまり関わってこない。川向こうさんが今一番関心を持っている場所なのに」
「なるほど」
嵐太郎本人の思惑はともかく、川向こうの盟主とやらがこちらに手を出したいその理由も以前より明らかになった。それだけでも収穫があったといえよう。周平は体内にある朽ち縄からもたらされる飢えにつきうごかされてハイブリッドコードキャリアを求めているが、川向こうの盟主は違う。単にハイブリッドコードキャリアでなく白梅と契約した乙女であることが重要視されているというわけだ。
「ひとまず理沙嬢が川向こうの盟主に連れ去られる可能性は低いということですね」
「そうだね。この点においては乙女契約を解除しておいてよかったと思う」
あのままにしておけば、大企業のオーナー一家の令嬢といえど何をされていたか分からなかったということか。顔色を青くしている理沙嬢を気遣うように微笑みかけ、嵐太郎はいった。
「だから今は周平くんの対策に集中していいと思うよ」
「質問がございますの」
ずっと黙って聞いていた真知子さんが小さく手を挙げた。
「白梅の乙女の場合は、白梅の意向もさることながら契約者本人の固い意思がなければ乙女契約を結べなかったと記憶しているのですが、他の拠点でも同じですの?」
「これは――どうなんでしょう。どなたかご存知ですか? ケイさんは?」
「俺がかつていた『島』はだいたいが赤ん坊のうちに契約してしまうから、本人より親の意思次第になってしまう。よく分からないな。でも子どもであってもある程度主張できる年頃であれば本人の意思が契約の成否を左右すると思う」
真知子さんは
「そうですか、拠点が変わってもそのあたりは同じですわね」
としばし考えこみ、理沙嬢に向かって厳しい表情を向けた。
「理沙ちゃん、軽々しいふるまいは慎んでちょうだいね。その男性から声をかけられたのだとしても、それに応じたのがお友達であってあなた自身のふるまいでないとしても、事件に巻きこまれればあなたがそのグループにいた、それだけでお父様の事業にさし障る可能性もあるのですよ」
何もそこまで、と割って入ろうかと思ったが、やめた。
「ごめんなさい」
理沙嬢は素直に祖母に従っている。
「理沙ちゃん、理沙、よくお聞きなさい。異能を身のうちに秘める者にとって、力ある者に見出されることそのものが誘惑です。よくよく考え、自分自身を律しなさい。あなたは白梅のおやかたさまとのつながりを断ったのです。あの切ない苦しみを思えば誘惑をはねのけるくらい、何ということもないはずです」
「はい」
「こちらが承諾しなければ契約は成立しません。どんなに誘惑されようと拒否するのです」
「分かりました」
孫がしっかりと返事するのにうなずき返し、真知子さんが視線を私に向けた。
「理沙の警護は不要ですわ」
「いやいや、真知子殿、そういうわけにも――」
私はお久さんを視線で制した。
「せっかく高校に復学したのです。いつ確保できるとも知れない安全のために将来ある理沙嬢を白梅荘の中で閉じこめておくわけにいきません。結局自衛していただくほかないのが心苦しいのですが」
「しおちゃん、大丈夫だよ、なんとかなる」
「何かことがあれば必ず連絡をください。避難所としてこの白梅荘をいつでも使ってもらってかまわないから」
「ありがと、しおちゃん」
「それでは、理沙嬢の件は現状維持で」
ある者はしっかりと、ある者は渋々といった態で結局は全員が頷いた。
みちるさん、いや、白梅が「おやかたさま」と小さく声をかけてきた。
「なんでしょう」
「白梅から皆様にお知らせが」
「どうぞ」
白梅はみちるさんとは違う、どこか童女めいた表情で食卓に集うメンバーを見遣った。
「本日で城下みちるが外で担っていた職務がすべて終了しました。つきましては長らく滞っていた再生を早速あす――」
「白梅。お待ちなさい」
「何か」
白梅は眉間に皺を寄せ、不満の表情を露わに私をきっ、と睨んだ。 頭の中のどこかでぱきり、と錠の外れた音がする。
――再生は
「再生は」
――お待ちなさい、急いてはなりません。
――再生は、――次の新月がよい。そうしましょう。
いつだ。次の新月はいつだ。よし、ちょうど半月。
「再生は、二週間後。新月の夜に。よろしいですね?」
さまよわせていた視線を戻し目を合わせると、白梅は姿勢を正し、
「かしこまりました」
と先ほどまでの不敵な態度が嘘のようにおとなしく従った。
「みなさん、あと二週間という短い日々ですが、みちるさんと名残りを惜しんでください。それから嵐太郎さん」
「なんだい?」
「当日のサポートをお願いいたします」
「了解」
皆がわらわらと食堂から出て行った後、一人残って窓を開けた。室内の倦んだ空気がのったりと撹拌されながら屋外のそれと入れ替わる。
周平に掴まれた左手首はまだずきずきと痛む。しかし明らかに腫れが引いている。包帯を解いてみると綺麗に癒えていた。
――白梅。
目を覚ましたら当主が派手に怪我をしていて慌てたのだろうか。それとも心を痛めたのだろうか。混沌と深遠とを宿した思惑の読めない目、野良だ何だといいながらこうして私を気遣う白梅の心根を思うと、口もとが緩む。そして同時に心が痛む。
――みちるさん。
すっかり癒えているのにエコーのように鈍く疼く手首をさすり、私は中庭を眺めた。
闇に包まれた庭に天から細い銀の針がびっしりと、ひっきりなしに落ちてくる。刺さるように鋭い篠突く雨が、蒸れて倦んだ空間を裂く。
ざ、ざざ。
さらに雨脚が強まった。




