第十二話 疾雷(四)
「ああ、白梅様、手首が。痛々しい」
初老の女性が涙ぐんでさする左手首は赤黒く痣ができていた。白梅が休眠中だからか、なかなか薄くならない。しかしギャラリーに囲まれている今、目に見えてぐんぐん傷が癒えるよりこうしてごく普通に痛々しく見えるほうがまだましだ。
「大丈夫です。皆さんにこうして駆けつけていただけてほんとうに助かりました」
「あらいやだ、このくらい、なんてことないよ」
「白梅様が気軽に外に出てくださるとお目にかかれるこちらはいいけれど、ああして不審者が出るんじゃ危なくていけないね」
「まったくだよ」
近所の人々に礼をいい、理沙嬢を伴って白梅荘に戻った。
「しおちゃん、早く手当てを――あ、ごめんなさい、白梅様」
「呼び方、変えるようにいわれたのですか? ご家族から」
「――うん」
「――そう。私は以前のままで構わないのですが」
「ほんと?」
門から梅の木までのアプローチ、薔薇の茂みの前で私たちは立ち止まった。花期を終えようとしている頃合いだが、淡いレモン色の小ぶりの花をまだたくさんつけやわらかく甘い香りを漂わせている。
「以前と同じで構いません」
「ありがとう。しおちゃん」
もうすぐ十七歳になる少女はこうしてあけっぴろげなだけでもただ愛されるだけでもない、慈愛や陰りも含む彩り豊かな表情を身につけていた。向かい合う理沙嬢は相変わらず輝くように美しく愛らしい。しかし季節がめぐり、もうあどけなさが影を潜めつつある。変化を惜しみ、旧態を懐かしむ感傷をはねのける勢いに満ちた成長が眩しい。
「理沙嬢、先ほどのお友達は仲よしですか?」
「うん」
「すぐに連絡を取れるくらい?」
「うん、取れるよ。どうして?」
「一人だけ、乙女の資質を持つ娘がいたようです。白梅荘では乙女を増やす予定はありませんが、さっきの男が別の拠点にスカウトするかもしれません」
「スカウトって」
「理沙嬢、スカウトといってもご存じのように乙女はアイドルではありません。詳しく話せませんが、あの男のもとにいると命の危険があります」
理沙嬢の顔色が変わった。これこれこういう特徴の、と説明すると該当する娘をすぐに特定できたようだ。
「一刻も早く連絡を取って、身辺に気をつけるよう伝えてください」
「分かった」
母屋の裏口へと走り去る理沙嬢の小さな背中を眺める。そして後ろを振り返った。
「おかえりなさい」
「気づいてたんだ?」
向かい合い、五代も前に当主を務めていたという男をじっと見上げる。
色素の薄い長めのやわらかそうな髪が梅雨空の弱々しい光を集めて淡く輝く。にこにこと微笑む整った顔はどう見ても若者で、百五十年も二百年も生き続けているようには見えない。
――目が。
同じ精神干渉力を持ち心の内を見せないこの人の目には独特の色がある。何といえばいいのだろう。渇きや飢えに似ているが違う。何かに焦がれている者の目だ。寂しさも悲しみも諦めも、すべてを受け入れてなお何かに焦がれている者の目だ。人の身から外れ長い年月、若い姿を保ち人々と交わり、あるときは人々とのつながりを断ち、何を見て何を思ったのか。
――大きい人も私のいなくなった後、こういう目をするのだろうか。
でも今知りたいのはそこじゃない。
「あれ? 僕の美しさに見惚れちゃった? 特別にアンチエイジングのコツを――」
「もしかして私、当主を辞めたほうがいいですか?」
嵐太郎は真剣な表情になった。
「当主を辞めるのは一向に構わないんです。向き不向きでいったら向いていないのは明らかですし」
「そうじゃないよ。詩織ちゃん――」
ふ、と嵐太郎は口もとを緩め微笑んだ。
「真面目だな。大吾くんとそっくりだ」
「祖父をご存じですか」
「もちろん。代々の白梅の当主の中で最も優れていたと思うよ。あの子は――」
そうなのか。祖父は過去の当主からそう思われるほど優秀だったのか。
「ちょっと強引なところもあったけれど、時代には合っていた。でもあの子は気弱で優しいところもあったからね、辛かったろう」
背の高い私よりさらに高い位置から細く長い指で、私の頭を撫でる。
「詩織ちゃん、ほんとうにすまないね。大吾くんに――義務を先送りしたのは僕だ。そしてきみはそれを引き継いだ。そうだね?」
認めてしまいたい。教えを乞いたい。脳の中の拡張された記憶領域で、どこから手をつけていいのやら分からない記憶を紐解くその方法を知りたい。私に残された時間は少ない。あの義務を後に残したくないから、引き継ぎたくないから。
「お答えできません」
頭を撫でる手が止まる。見上げた先にある嵐太郎の顔がゆらゆらと揺れる。瞬きしたときに涙がこぼれた。
「そう」
「すみません」
「警戒されても仕方ないと思うよ」
私の頭から手を離し、嵐太郎は白梅の老木に目をやった。不思議なことにこの木には実がならない。やはり実験記録装置が擬態していて本物の梅の木でないからだろうか。
「僕もきみにいえないことがあるし」
「そうですか」
「質問があったらいつでも訊いて」
「はい」
嵐太郎は私の左手首を見たが、
「治療しようかと思ったんだけど、やめておこう」
日向のにおいがする方を向き、苦笑した。
「きみの主治医が帰ってきたようだよ」
「師匠」
大きい人が、嵐太郎と私の間に割って入る。口がへの字だ。拗ねているというより怒っているように見える。
「師匠、詩織に何をしたんですか」
「五木くん、何いってんの? いくらなんでもこの非力な僕が人の腕にこれだけの痣をつけられるわけないでしょ」
え? 「違いますよ」とかばおうとしたんだが非力? 細身とはいえこれだけ背の高い男が?
「確かに師匠は並はずれて非力ですけど」
「これは僕がやったんじゃない。周平くんだ」
ぶわわわ、とケイさんが反射的に獣化しそうになった。ステイステイステイ。またお洋服ぶっ飛ぶし至近距離でしかも背後にいる私は確実に串刺しになるのでやめておくれ。名前聞いただけで獣化なんて、この前の件がよっぽどこたえたんだな。
僕はこれで失礼、と去ろうとする嵐太郎に夕飯について確認する。寮母さんモードだ。
「お夕飯のときに先ほどの件について皆さんと話したいのです」
「先ほどのって、あの女の子の件?」
「ええ。周平さんのことを知っている方のお知恵をお借りしたいのです」
「そうだね。そのほうがいいかも」
嵐太郎はくるり、と大きな弟子を振り向き、「きみが帰ってきたということは、おりんちゃんも帰ってきたんだよね?」というなりスキップしそうな軽い足取りで母屋へ向かった。
部屋でケイさんに手当てしてもらっていると、理沙嬢が顔を出した。
「理沙ちゃん、いらっしゃい。久しぶりだね」
「うん、久しぶり。――えっとね、ボクのせいでしおちゃんが怪我しちゃった。ごめんね」
ケイさんは腫れあがった私の手首に包帯を巻く手を止め、苦笑した。
「理沙ちゃんがこの痣をつけたわけじゃない。悪いのは怪我をさせたやつだ」
「うん。そうなんだけどボク、この前のこと謝りに来たのに却って申し訳ないことになって……。しかも新しく問題発生したみたいだし」
理沙嬢がしょんぼりと俯く。割って入ることにした。
「新しく発生した問題については私がうかつでした。こうなることを視野に入れておくべきだったのです。乙女の皆さんに意見を求めてからになりますが、対策によってはまたこちらに住んでいただくことになるかもしれません。そして先日の件は」
不安そうに私を見つめる理沙嬢に微笑みかけた。
「水に流さない。時間をかけてお互いを理解していきましょう」
「ボク、ここに来てもいいの?」
「前もいった通り、あの日は外してほしかったのです。あなたとの賃貸契約は解除されましたが、おばあ様のもとを訪ねたり泊まったりする分には問題ありませんよ。おばあ様もお喜びになるでしょう――ちょっと、ケイさん痛い、痛いです」
「ああああっ、すまない」
話すうちに理沙嬢の表情が安堵に緩み、輝きを取り戻すのを見て嬉しくなったのか、ケイさんが私の手をぎゅっと握ったんである。別に手を握られるくらい、普段の接触過多に比べればなんてことない。しかし今あなたが握りしめてるのは腫れあがっちゃってる患部なんだよ。痛いんだよ。自重しろよ、こっちは怪我人なんだから!
もう一度患部を確認し、湿布を貼って包帯を巻き直す。理沙嬢が興味深そうにその様子を眺めている。サージカルテープとはさみを持って待機しているので、手伝うつもりのようだ。
「けーちゃん、今日は恰好がおじさんくさいよ」
「おじさんだから仕方ないなあ」
ほんとはおじいちゃんだけどね。
挨拶回りが多かったから、近頃スーツにネクタイ姿が多い。今もジャケットだけ脱いで着替えを後まわしにして手当てしてくれている。まくりあげた袖から太くて筋張った腕が見えたり、ネクタイを緩めてボタンをひとつだけ外したシャツから首が覗いてたりしているのがその、いやいやいやそこだけじゃないんだけれどもなんというかその、ちょっとかっこいいなあと私は思うんだけれども。
そういうたじろぎが動きに現れてしまったか、包帯を巻きながらケイさんが
「ん? 痛い?」
と顔を上げた。気遣わしげな表情だったが、赤面する私を見て苦笑する。
ケイさんは傍らの理沙嬢を振り返った。
「理沙ちゃん、今夜は予定ある?」
「特に何も」
「じゃあ久しぶりにみんなでご飯食べよう」
「やったあ」
無邪気に喜ぶ理沙嬢の様子に目を細めたが、申し訳なさそうにケイさんは目を伏せた。
「なんか……ごめんな、今日、周平に会ったんだって?」
「えっと、そんな名前の人だったけど、なんでけーちゃんが謝るの?」
「あれは俺の兄なんだ」
理沙嬢は心底驚いた、という表情になった。
「へえ、そうなんだ。見た目がけーちゃんより若いのはおいとくとして、あまり似てないね。なんだか問題多そうな感じに見えたよ?」
以前ならば「好き」「嫌い」でばっさりと切り分けていた理沙嬢だが、こうしていったん判断を留保し、抱いた印象を言語化しようと努めるようになった。今までことさら「子どものままでいよう」と自分で作った殻に押しこめていた心が大人になろうともがいている。そんな試行錯誤の現れなのだろう。なんだかほほえましい。
「うん。問題だらけなんだ。あいつ。――その話も夕飯のときにすることになると思う」
「りょーかい。でも問題だらけなのはそのお兄さんなんだからさ、けーちゃんが謝ることない、よね?」
開け放したドアから階下の音が聞こえてきた。
「あ、おばあちゃんだ! 今日は帰り、早かったんだあ」
真知子さんの帰宅を察し、理沙嬢は「じゃあ、またあとでね」と部屋を後にした。
「一本取られましたね」
「ほんとだ」
手当てをしていた居間から寝室へ向かい、着替えるケイさんを眺める。
「着替えないほうがいい?」
「そんなことありませんが……今日のケイさん、ちょっと素敵でした」
「俺の恋人はコスプレ好きなのかな?」
「コスプレってそういうものでしたっけ? あ、でも、ヤマアラシ姿はもっと好き」
いそいそと服を脱ぎ、
――ぐ、ぐぐぐぐ。
ケイさんは獣化した。やったあああ、と歓声をあげて抱きつく。
「たまりません。リアルファーのもふもふ感触がたまりません」
「きみはほんとにこれが好きなんだなあ」
「好きですよ?」
胸毛に鼻をつっこんだまま目だけ上げてケイさんと視線を合わせる。
「――いやその、俺がこんなだから個性だとか何とか、慰めてくれているのかと思っていたんだけど」
「ええっと、ごめんなさい。多分そうじゃないんだけど、そういったほうがよかった?」
肩の獣毛を梳く。ごわごわしたその毛をかき分け、指でなぞる。
「ここ――。黒子があるでしょう? 人型の時と同じなの」
そのまま首筋に手を這わせる。
「ここも。ヤマアラシになっても同じケイさんなの」
頬を撫でた指が唇に至る。熱い息と心もとないくらいやわらかい彼の唇が指先に触れる。
「姿が変わってもあなたなのね。うまくいえないんだけど、そういうのがとても嬉しい」
「詩織、ありがとう」
私たちはしばらく、そのまま抱き合った。




