第十話 疾雷(二)
大広間の中央で、私は左手の薬指を口に含み、指先を歯で食い破った。血があふれ出る。薬指から滴る血は、
ずずずずず、ずぞぞぞぞ。
大広間の床に、白梅に吸いこまれていった。
「二百ミリリットル、ちゃんとあげられましたかね」
「全然足りてないと思うよ」
やっぱりそうか。すぐ傷が塞がっちゃうんだよな。
もう一度左の薬指を口に含もうとすると、甘チャラ嵐太郎に止められた。
「試しに白梅に訊いてみたらどうかな。うちの弟子もけっこう出血したから案外満足したかもしれないよ」
――……。
かなり不満だが我慢してやる、そんな気配みたいなんだけど。白梅、ほんとにすまないね。おば様のご遺体がどうなったのか、結局分からずじまいになってしまった。
まだ目覚めないケイさんの体を拭い、タオルケットを掛ける。長椅子の傍らに跪き苦しげに眉根を寄せる大きい人の髪をそっと撫でた。
出勤の準備があるから、と慌ただしくその場を後にしたみちるさんについて大広間から出るのかと思いきや、嵐太郎とかいう甘チャラ男はそのまま残った。鞄を開けて平たい箱を取り出す。
「これ、お土産ね」
また夜のお菓子か。そしてまた化粧箱剥き出しか。それが基本のお作法か何かなのか。はたまた流行ってるのか。つい賞味期限をチェックしてしまう。
「ご丁寧にどうも。好物なので嬉しいです」
「そうなんだってね」
にこにこ、というよりへらんへらんと顔を緩ませて笑っている甘チャラ男こと昔の当主、嵐太郎であるが、どうもいうことが怪しい。
「なんで知っているかというと、あの議員さんたちとお話したからだよ!」
ずいぶん得意げだな、おい。
「さようですか。あまり友好的な会合でなかったのでご気分を悪くされていなければよいのですが」
「たとえじゃなく文字通り顔が泥まみれになっちゃったとかで、すっごく荒ぶってたよ」
「……荒ぶってましたか」
なんでそんなに嬉しそうなんだ。
「僕ね、その話をね、川向こうの盟主さんちで聞いたんだ」
見た目は私より若いが、五代前の当主だという。どういう事情で当主を辞めたんだか知らないが、年齢は百歳ではきかないはずだ。百五十歳。あるいは二百歳か。非実在レベルの高齢者なのにチャラチャラと若々しい男の目だけが老成し、どこか見透かすような色合いをちらちらと見せている。試されているのか、あるいは敵対宣言なのか。判断に迷う。
――ぐ、ぐぐぐぐ。
――から、からん。
長椅子の上でケイさんが苦悶しながら獣化していた。
「――師匠。ことと場合によっては俺、師匠相手でも戦います」
「怪我人のいうことじゃないよね。傷、開いたんじゃないの?」
「う……」
「まあ、獣化したほうが治りが早そうだけどね、五木くんの場合。でも無理しちゃ駄目。はい、もう一回人型に戻って。さっさと戻らないと背中の針毛を刈っちゃうぞ」
人型に戻ったケイさんの傷の具合を診て、ガーゼや包帯を巻き直し、「しばらく寝てなさい、ね?」などとやさしく語りかけたりして甘チャラ男、なかなかいい医者のような感じがする。そして窘められて少しむくれながらも素直に目を閉じ、ケイさんはうつ伏せのまま寝ついた。嵐太郎が苦笑した。
「――五木くん、すっかり乙女になっちゃって」
なんと珍妙な。予備知識なしにのぞむと倒錯的内容に聞こえなくもない。
「ここが例の儀式を執行した場所なの?」
「ええ」
そっか、ここだったら内緒話できそうかな、と嵐太郎はつぶやいた。
「外部の盗聴あるいは白梅、いずれを警戒するかによります」
「へえ。外部の盗聴ってこの屋敷内で?」
「しらじらしいですよ。あの議員先生と秘書が盗聴器を仕掛けにきたといっていましたが」
「ふふふ。尋問もせずにぺらぺらしゃべらせたそうじゃないの。確かにあまり口の重い人たちじゃないかもだけど、精神干渉遣い、うまくなったよね。けっこう有名だよ」
嵐太郎は甘ったるい顔を引き締めた。
「今心配なのは、盗聴」
今。限定なのか。
「はい。おそらく大丈夫です。今までここから外部に情報が漏れたことはありません。ただ、白梅に聞かれる可能性はあります」
「そう」
白梅はおやつ(血液)が足りなくて不貞寝しているような気がするけれどもね。嵐太郎は甘ったるい印象を与える垂れた目だけでやわらかく笑んだ。
「ここ二年、川向こうの盟主さんちに引き留められちゃっててさ。五木くんは相当心配して探してくれたみたいなんだよね」
本人が語るほどお気楽な事態ではなかったらしい。要するに拉致監禁じゃないか。
「外部と連絡を取れなかったのはきついけど、そこを除けば労働条件は悪くなかったんだよね。お金欲しかったし」
嵐太郎の話は川向こうの盟主からいったん離れた。
「僕がいなくなって困った五木くんは実家であるここを訪ねたらしいんだ」
それで「見つかるまでここにいらっしゃい、嵐太郎様のことだもの、どうせふらふらしているだけよ」などとなだめられ引き留められ、乙女契約まで結んでしまった、と。大雑把だが詳細は特に教えてもらわなくても分かる。「俺、乙女か。乙女なのか」とかなんとか違和感を抱きつつすぐ白梅荘になじんだのだろう。目に見えるようだ。
「おりんちゃんはすっごく優秀だからね、わりとすぐ僕の居場所を見つけてくれたの。でもなっかなか出してもらえなくてねえ。あの川向こうさんってね、没落華族なんだけど、今は投資ファンドとかやってるの。昨今不景気だからものすごく大変みたいでさ」
甘チャラ男によるとファンドマネージャーとしての川向こうの盟主はなかなかに優秀であったのだとか。
「川向こうさんってエンジェル投資家っていうの? 本人の資産でベンチャーに投資している分にはよかったんだけど、ファンド単位でバイアウト、企業価値を高めた後で売り抜ける、要するにハゲタカだよね、――そこに手を出してから怪しくなったみたい。ここしばらく焦げ付いてたんだって。そこで川向こうさんは自分ちのルーツに着目した」
川向こうの盟主の家系は、かなり大きな「播種計画」拠点で代々家令を務めた家であったらしい。かなり昔、大きな拠点のわりにあっさり崩壊したらしい。
「その拠点崩壊時に成り上がって、そして明治維新のときに華族に列せられるまで出世したのが川向こうさんち、というわけ」
戦後、多くの華族と同様に家運が傾きはしたものの、政財界でそこそこのポジションにあったそうだ。没落華族といわれても相当にうまいこと立ちまわったほうなんではなかろうか。
異能――。人の考えを読み、魅了し、結界で館を守り、獣に姿を変える。主筋にあたる人々の奇妙で不思議な、人とは思えない力のいい伝え。本来ならば、おとぎ話だと笑い飛ばしておしまいだ。
確かにハイブリッドコードキャリアを輩出した家系ではない。しかし家令、すなわち使用人ではあるけれど、大きな拠点を切り盛りする立場にあり、拠点崩壊後は土地の混乱をおさめのし上がっただけあって、川向こうの盟主宅にはあやふやないい伝えでない記録が蔵にどっさり残っていた。
川向こうの盟主は周平のことを父親から聞かされていた。「島」崩壊時に残された文書、これでバイオ関連の事業を立ち上げられると踏んだ。まず周平を、そしてふらふらと放浪していた周平が頻繁に立ち寄る白梅荘について調査し、議員先生やら甘チャラ男に辿り着き取りこんだ。
それにしても周平の、あれだけの力と実験記録装置「朽ち縄」があれば抵抗できそうなものだが。この目の前の甘チャラ男も見た目のわりにクレバーな感じがするし。
「お金ってのは大事だし、魅力的なもんだよ」
「そのお歳になっても、ですか?」
「お金そのものが魅力的なんじゃないんだよね。お金を使うことができる、お金で色んなものが買える、あり得ないものも買えたり動かせたりする、これが魅力なの。カノジョは今ひとつそのあたりに執着なさそうだね」
そう見えちゃうんだろうか。
「それにね、取り巻きも一緒になってすっごく盛り上がってたわけ、川向こうさんたち。その盛り上がりっぷりがなんていうか、いい歳したおじさんたちの集団なのに夢見がちというかなんというか」
「まさか中二病」
「ああ、そう、それ。周平くんがそういってたよ。若い子の間で流行ってる言葉なんだって?」
いや、流行っているというかなんというか。そうじゃなくて周平百歳越えてるくせにどこでそんなことば覚えてきたんだ。
「それにあんなに楽しそうに夢を語られると『アホくさいから抜けます』っていいづらいよねえ」
「それで二年……」
「そう、二年付き合っちゃった、アンチエイジングの新しいサプリ開発。結構楽しかったよ」
にこにこと語る嵐太郎の表情に邪気は感じられない。しかし何か嫌な予感がする。
「でもね川向こうさんの本当の依頼は、アンチエイジングじゃなくて不老不死の実現だったんだ」
河川敷で会ったむちむちした女性とは探索子をぶつける、いわば精神干渉の殴り合いだったが、この相手は違う。
使っているパワーは大したことがない。力で圧倒することも可能だろう。しかし気づいたらずぶずぶと底なし沼に引きこむような罠がそこに隠してあるかもしれない、そんな得体のしれない不気味さがある。知っている情報も知らないことも、相手にどう印象づけるかを巧妙に組み立てて、そして視線を縛ったときにはもうその相手を捕えひきこんでいる。そんな罠が張ってあるかもしれないところに簡単に踏みこめない。
――本当の依頼は不老不死の実現。
再生という特殊な異能を持つみちるさんをつぶさに診察してきた主治医のこの人に対する依頼が不老不死の実現だとは。思いきってぶつかってみるという選択肢はない。とにかくみちるさんを、白梅の乙女たちの安全を優先するために、こちらの情報を読ませない。相手の情報開示も要求しない。これで時間を稼ぎながら相手のミスを誘う。そうやって意図を探る。消極的なアクションだが、仕方ない。
「カノジョ、なかなかいい警戒の仕方するね。情報を引き出さないやり方なんだ。気分は良くないけれど、正しい対応なんじゃないかな。おりんちゃんみたいに闇雲に信じちゃうよりずっといい。白梅と関係なく育ったのにちゃんと当主できてるじゃない」
睨み合う。老獪な相手だ。ミスを誘発させられるのはこちらかもしれない。
ふ、と嵐太郎の表情がやわらかくなった。
「まあ、久しぶりの里帰りだからね、ゆっくりさせてもらうよ」
梅田家との養子縁組に必要な人物だ。そして何よりも、再生を控えたみちるさんのサポートにも欠かせない。滞在を拒否するわけにいかない。
――義務も何もかも全部、投げ出してしまってもいいじゃないか――。
そんな気持ちになりかけるのを抑える。表情を変えないよう努めたのだが眉間にわずかに皺が寄ってしまった。嵐太郎の表情が面白がるようなものになった。
「しばらく厄介になるから、その間にもっと仲良くなれるといいね」
――そんな気なんぞないくせに。
口を衝いて出そうになることばをぐっと飲みこみ、私は微笑んだ。




