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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
序章  皮剥鍋と乙女
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第六話  白梅(五)

 みちるさんが立ち上がり、窓を開ける。梅の花の香りがふんわりと応接室の中に漂う。私も窓辺に向かった。

 窓の下で子どもが腰をかがめてこちらを見上げている。隠れているつもりだったらしい。


「――?」


 ぐい、と掴まれるような、拒むことをゆるされない強い力で視線が縛られた。身体が反射的に抗おうとするが視線の先にいるものに吸い寄せられてしまう。燦々と降り注ぐ陽光、満開の梅の花、応接室の古びた調度、隣で同じように窓の外へ顔を向けるみちるさん、――視界からうずくまる子どもを除くすべてが消えた。


――美しい。


 夜明けのたいせつな光を集めて人のかたちにしたような美しさだ。少年にも少女にも見えるその子どもには魂をわしづかみにする美しさがあった。

 つばを後ろへ回し前後逆に赤いキャップを被り、ふわふわとウェーブのかかった顎あたりまでの長さの髪を後ろへ流している。すべらかな頬、大きな目は潤み、美しく弧を描くであろう眉を寄せてその子どもは腰高窓の上から覗きこむ私を睨みつけている。


「あ――」


 しまった、といいたげに美しい子どもが目を泳がせたのと同時に、視線を縛る力が緩み、消えた。視界が元の駘蕩(たいとう)とした早春の景色に戻る。


――今の、何?


 瞬き二回、いや、三回ほどの間だったろうか。私は自分の意思で目を動かせなかったような気がしたのだがまさかこの美しい子どもが――。


「コイツ、誰?」


 鈴を転がすような愛らしい声でコイツいうな。たいそうな美形であるよと感心しかけた気持ちが吹き飛ぶではないか。

 よくよく見るとこの子どもはずいぶん顔色が悪い。ふるふると身を震わせたかと思うと「ぶえっしゅう!」と盛大に水っぽいくしゃみをした。


「みちるちゃん、あのね聞いて聞いてボクね、ぶえっしゅ、今日ね、さ……ふえっ、ふ、ふえっしゅ! 竿頭になった!」

「あらやだ、この子風邪引いちゃったんじゃないの」

「みち……みち……ぶえっしゅうううい! みちるちゃん聞いてってば」

「はい聞いてますよ、竿頭ね、聞いてる。聞いてるからちょっと待ってなさい」

「みちるちゃ……ぶえっぶえっしゅ」


 みちるさんは慌てた様子で応接室を出て行った。奥の方で誰かを呼ばわり、野太い声が応じているのが聞こえる。さっきのおっさん乙女か。

 それにしてもこの場をどうしたものか。口に出さずともお互いそう考えているのは明らかだ。気まずい沈黙にその場が支配されたかに見えたそのとき、


「ぶえっくしょい」


 ひときわ大きなくしゃみとともにかわいらしい鼻から水っぽいサムシングがじゅび、と飛び出た。


――ああああ、出ちゃったよ。


 お互いにそう思った、気持ちがひとつになったと感じたね。不本意ながら。こんなことで絆を確かめたくない、面識ないってのに。

 仕方ない。放置するわけにもいかない。私はよいしょ、と窓から身を乗り出し、腕を伸ばした。


「はい、立って」

「んあ?」

「いいから、立って」


 鼻から口にかけてじゅびじゅばなサムシングにまみれていて口を開けない子どもを立たせ、手に持っていたハンカチを鼻にあてた。


「はい、ちーん」

「……」


 (はな)かめっていってんの。子どもの鼻にハンカチを当てなおし、


「はい、ちーんして」


 促すと、涙目になっている子どもは「ぷーん!」と勢いよく洟をかんだ。


「よーしよし、もう一回。はい、ちーん!」

「ぷーん!」


 とやっていると、裏手から前庭にみちるさんとおっさんが「風邪引いちゃったかも」「心配ですね」などと語り合いながら現れた。


「あ」

「ん?」


 おっさんは私を、いや、もっとピンポイントにフォーカスして私が掴んでいるハンカチを凝視している。そうだった、いかん、他人様からお借りしたハンカチで洟拭いちゃった。

 私が「しまったよ、やっちゃったよ」感に打ちのめされるのをよそに、手の中のハンカチにぐりぐり顔をこすりつけ鼻まわりが一時的にすっきりしたか、子どもは


「みちるちゃん、けーちゃん、ボク竿頭になったよ! ところでコイツ誰?」


 ドヤ顔で元気よく言い放ちふたたびじゅび、と洟をすすった。コイツいうな!


「はいはい、話は後で聞くしお客さんもちゃんと紹介するから。風邪引くといけないからまずお風呂」


 みちるさんが子どもを連れて裏手へ向かう。背中を押されながらその子は


「そこのひと、ありがとね! ティッシュがそこのテーブルにあるんだけどね、でもハンカチ助かったよ!」


 律儀に礼をいう態で私の傷口をさらに大きく広げ「ぶえっしゅ」とくしゃみをしながら去って行った。こんの生意気なお子様めえええ、さらに三十分じゅぶじゅば洟まみれになりやがれ。



 お子様の洟つきガーゼハンカチを握って腰高窓から上半身を乗り出す私と、眉を八の字に下げて困っているおっさん、リュックサックや釣り竿、大きなクーラーボックスがその場に残された。


「……すみません」


 このおっさんは気まずいシーンにぶちこまれると誰が悪いとか悪くないとかにかかわらず謝っちゃう人なんだな。


「いいえ、こちらこそお借りしたハンカチにたいへんなことをしでかしましてほんとにすみません」


 もぞもぞ窓から降り、私は


「すぐそちらへ行きますんで!」


 窓を閉め、ハンカチを握りしめたまま玄関から外へ出た。前庭にまわると、おっさんはその巨体に対してやたら小さく見えるリュックサックを肩にかけ、竿とクーラーボックスを掴もうとしていた。


「あの、お手伝いします」


 声をかけるとおっさんは目を(みは)り、かがめていた腰を伸ばした。先ほどとほぼ変わらぬいでたちだが、使いこんだ風合いのウェストエプロンをぴしりと腰に巻いている。そのせいか駅前で初めて会ったときよりいくぶんしゃっきりして見える。

 私は女性としては背の高いほうで身長が百七十センチある。仕事をしていたころはいろいろな付き合いがあったが、向き合う相手の立場はともかく、目が自分よりぽーんと高い位置にある人と出会うことは滅多になかった。それでおっさんの巨体、特に顔の位置の高さが珍しくてついじろじろ見てしまったんだがそうしてぼんやりしていたのがいけなかったか、相手はすっと私の手からお子様の洟まみれハンカチを抜き取ってしまった。


「あっ、あのあの、それ、洗ってお返しします!」


 とられてからいうことじゃないよなー。おっさんはばっちいハンカチをウェストエプロンのポケットに突っこみ、別のポケットから豆絞りの手ぬぐいを取り出すと、私の手をぐりぐり拭った。唇をへの字にするので愛嬌がある。


「やっぱり洗いましょう」

「え?」

「風邪がうつるといけませんから。こちらへ」


 手、握られちゃった。相手が初対面のおっさんでもちょっとどきどきする。火照りを鎮めるために掌を頬へ持っていこうとしてふたたび手を取られた。


「インフルエンザだとたいへんです。まず手を洗ってください」


 叱られた。どきどきするのなんのと浮かれている場合じゃなかった。




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