第六話 梅雨寒(六)
からから、からん。
ケイさんの体に隔てられた向こうで鋭い怒気が渦巻くのを感じる。
「ネズミ、寝てるんじゃなかったのか」
「寝ていられるか」
あたたかい掌が「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と私の背中を上下する。これじゃいつもと変わらない。悔しい。唇を噛んでいると、ケイさんが
「すぐ戻る、といっただろう。駄目じゃないか」
と口をへの字にして私を見下ろした。
周平が「ハッ」と呆れたように吐き捨てた。
「ネズミはそうやって甘やかしていれば白梅の当主を手のうちに収めておけると思っているようだが、どうだかな。その女は相当な跳ねっ返りだぜ」
「どうとでもいえ。周平、俺はお前みたいに誰かの代わりをこの人にさせるつもりはない」
「俺が白梅の当主を、美奈子の代わりにしているとでもいいたいのか」
ほんの少し、背中にまわる腕が強張った。
からから、からん。
背中の針毛が一斉に逆立った。ケイさんの憤りがうかがえる激しさだ。ケイさんが周平を鋭く睨んでいる。
美奈子という人が誰なのか知らない。だけど見当はつく。若いころに傷つけたという婚約者なんだろう。周平が私をその人の代わりにすることはないような気がするが、ケイさんはわりと代わりにしてるんじゃないかな。おそらく首あたりが美奈子という人と似てるんだと思う。そういうのは単にきっかけだし、お互い様だったりもするから指摘しないけれど。
憤怒に震える針毛の激しい動きとは逆に、ケイさんの声は昂ることなく平坦だった。
「美奈子じゃない。大吾さんだ」
祖父? ケイさんの身体越しに顔を出す。驚きに蒼褪める周平と目が合った。
「ネズミ……大吾の何を知ったつもりになってるんだ」
「確かに面識はない」
「だいたい、大吾はずいぶん前に死んだし、白梅の今の当主と年齢も何もかも違うだろう」
「確かに違うな。でもおまえは大吾さんと重ねているんじゃないか。この人を手に入れれば大吾さんに近づけると思っているだろう」
大きく開いた虚ろな瞳孔、ぬらぬらとぬめる白い肌。長めの茶色い髪は乱れ、しかしぬめぬめと、そこだけは血色のよい唇をわなわなとふるわせ、私を凝視している。
「周平、やめておけ。間違いなくそうならない」
「ネズミ、違う、ほんとに違――」
「大吾さんはもう亡くなっているじゃないか。大吾さんの孫である彼女のために、大吾さんにそっくりな彼女のために、といいながら周平、結局おまえは大吾さんのイメージを押しつけているだけじゃないか。この人は大吾さんじゃないぞ」
「分かってる。当たり前だ。分かってる――」
ふうん、今までにないうろたえっぷりだな。この周平って人はじーさんに懸想してたわけか。それでじーさんそっくりな私の顔が気に入ったと。じーさんっぽくて女だから、性的嗜好面でヘテロなオレ様に都合がいいと。そんなにじーさんが好きだったら、じーさんが生きてるうちにオノレの性的嗜好を捻じ曲げてでも愛を貫けばよかったんでないのか。隔世遺伝で目もとが似てるだけで性格も全然違うんだし、生まれ変わりでもないんだし、迷惑千万だ。
うむむむ。
そっくりな顔にストーキング、うなじフェチ、どっちもどっちだ。そしてさすがナチュラルボーン女たらしの父を持つ兄弟だけある。二人とも距離の詰め方があまりに急激で好みが特殊、つまるところ変態だ。
自分がより変態度の高いほうの男を恋人にしていることに忸怩たる思いがないというと嘘になるが後悔はないぞ。それより、会話に実りがないというか度し難い方向へ行っているのが気になる。敵対する者の正体もつかめていない。まだまだ後手に回ってばかりだ。切実に情報がほしい。
「私から質問してもいいですかね?」
ケイさんの腕の中から出て、足下に落ちていた針を拾い、構える。
「なんだ白梅の。アンタの質問になら喜んで答えるぜ。その前に物騒な針を捨てろ」
「例のむちむちした女性の遺体、どうしました? そしてこの針は必要があってこうして携えているのです。捨てません」
「遺体? そんなこと、訊いてどうする?」
「ごまかさないでいただきたい。……でも、答えたくないならひとまず質問を変えましょう。むちむちさんはどうやって異能を発現させたんですか?」
ケイさんがはっとした。
ハイブリッドコードキャリアの異能は成長に伴って自然と顕現するケースと、実験記録装置によって覚醒させられるケースとがある。実験記録装置に覚醒を任せたほうが、異能レベルがより高くはっきりと発現するのだとみちるさんから聞いた。
近辺の実験記録装置はここ数十年からおそらく一世紀以上、白梅と「島」だけだったはずだ。もし他に交流ある拠点があるならば今頃、他拠点との縁組やハイブリッドコードキャリアの人材交換などができて、もっとキャリアの人数も多いはず。そうでないということは、「島」が滅んでいる現在、すでに近隣の実験拠点は白梅だけになっている。
それなのに、例のむちむちさんは白梅の乙女ではない。
自然と異能が顕現したのかもしれない。長身ではなかったが長命傾向の強いタイプで、かつて存在した「島」など他の拠点で異能を覚醒させられたのかもしれない。
しかし、いずれでもない気がした。
自然と発現するには彼女の異能、精神干渉のレベルは高かった。心の内部をちらりと観察した限りでは彼女が大人になり切れていない、短絡的で幼稚な性格をしていたと感じた。実年齢がそのまま精神年齢と釣り合うとは限らないが、彼女年齢は二十代と見ている。そうなると、白梅の乙女でないハイブリッドコードキャリアの存在は不自然だ。
「ほう。確信がある、そんな顔だな、白梅の」
「彼女は『島』の実験記録装置によって異能を引き出されたのだと推測しています。今も滅んでいないのですね、『島』は」
ケイさんが息を呑む。
「そのとおりだ。さすがオレの見こんだ女だ」
元の場所にはすでに住む人もなく、実験記録装置の痕跡もなかったという。それなのに今も「島」は存在している。
――どこに?
「島」の実験記録装置は元の場所にない。別の土地に移動したのか。あるいは――。
ぞぞぞぞぞ。
饐えた気配。周平の、闇の中でもぼんやりと光を放つぬらぬらとした肌。波動のようなおぞましい気配、そして脳裏から離れないあるおぞましい可能性に震える。
――まさか。いや、そんなはずはない。そんなことがあっていいはずがない。
ふふふふふ。
周平が笑う。発光する皮膚が浮き上がり、目が、虚ろに開いた瞳孔が影に沈む。笑っているのは本当に周平なのか。
「質問に答えなさい。おまえは誰ですか」
周平の肌はまだらに光を放ち、腕がぶらりと投げ出されたように揺れている。ほっそりとして端正な顔の口もとが緩み、蜥蜴のように二股に割れた舌がだらりとはみ出ている。
ああ、駄目だ。当たってほしくなかった推測がきっと正しい。受け入れられない。気持ち悪い。
右手で握った針で淀んだ冷気をしゃっ、と薙ぎ払う。しっかりしろ、私。たとえ受け入れられずとも事実は厳然としてそこにある。それを明らかにしなければ。
「お前は誰ですか? 周平? それとも『島』の実験記録装置?」
「そんな――馬鹿な」
少し離れた場所にいるケイさんが驚きのあまり棒立ちになる。無理もない。この人は自分のせいで故郷である「島」が、「島」の人々や実験記録装置が失われたと思っていたのだ。もう失われてしまった人々はともかく、実験記録装置が目の前に、しかも兄の身体の中に存在するといわれて簡単に納得できるはずもない。しかし今うろたえられるとまずい。
「ケイさん、だいじょうぶですか」
「――ああ、すまない。平気だ」
ぶるり、と体を震わせ、いったん解けかけた獣化を再度かけなおす。より体が分厚く、針毛が多く長くなった。黒い獣毛に覆われた姿はこんなにも力強く美しいのに、月の隠れた闇夜に呑みこまれてしまいそうだ。
事実を突きつけたところで追いつめられる相手でない。「それがお前に知られたところで、どうということもない」などと鼻であしらわれる、そんな気がする。それでも相手の次の手が読めない今、仮説をぶつけ事実を暴き、できるだけ情報を吸い出すほかない。
落ち着け、私。眼前の光景、禍々しい空気に中てられてはならない。次の、さらに次の手を繰り出した場合の分岐。戦略と戦術により結果の変わる樹形図。現在どこにいるのか、何を成果とし、落としどころとして、どこで撤退するのか。さらに先、近い将来の、決して誤ってはならない義務に関わる分岐を保持して――。
うろたえるな、私。
事態が流動的であっても劣勢であっても必ず打開可能な分岐が巡ってくる。落ち着いてそのチャンスを掴め。そのために、語り続けろ。
「答えなさい。おまえは誰ですか」
「質問が多いな、白梅の」
ふふふふふ。
「まあ、いい。アンタのその大吾にそっくりな生意気な目つき、たまらないな。そんな目をされたんじゃ仕方ない。教えてやろう」
周平の肌がまだらに明滅する。瞳孔の開いた目や緩んだ口、粘膜の露わになったそれらの部分が影に沈む。もともとのつくりが端正なだけに、虚ろな表情と肌が内側から発光するさまが不気味だ。
「オレはオレさ。周平だよ。ネズミの腹違いの兄で、『島』の実験記録装置『朽ち縄』の主であり、そして今は『朽ち縄』自身でもある」
実験記録装置「朽ち縄」自身ってどういうことだよ。どこかに朽ち縄を隠しておいて、コミュニケーション端末化しているみちるさんのように憑依のリンクができているわけじゃないのか。一体化しているというのか。ならば――。
じーちゃん、こんな気持ち悪い男となんで友達なんかしていられたんだ。じーちゃんが生きてたころは気持ち悪くなかったのか。それともじーちゃんが来る者を拒まないタイプだったのか。わけが分からないよ、心が理解を拒否してしまうよ、じーちゃん。




