第三話 梅雨寒(三)
しとしとしと――ぴちょん。
雨が降っているとにおいが洗い流されるかと思いきや、さにあらず。この程度の降りであれば、空中に飛散するノイズレベルのにおいが減って却って把握しやすいんだよね。ふらっとお外に行って鼻歌歌いながらにおいを確かめ楽しむ散歩とか、したいよね。水たまりを子どもみたいにばしゃばしゃするのも楽しそうだ。小応接室の窓越しの雨の音とにおいに気を取られそうになるのを懸命に我慢した。楽しいとは口が裂けてもえない客なのでなおさら集中する気が失せる。
現在、ケイさんと二人で接客中である。
客は地元選出の国会議員先生、以前理沙嬢に対するストーカー事件を解決するのに不本意ながら世話になった人物である。どうもこの人は儀式後の屋敷内の様子といい、今回の件といい、ずいぶん耳が早い。こうして本人がやってくるというのもなんだかフットワークが軽過ぎて妙だ。
議員先生は秘書一人を連れてやってきた。同伴の秘書は以前やってきた人物だ。前回はともかく、今回の訪問に気乗りしない様子で居心地悪そうにソファに掛けている。
「このたびはご婚約おめでとうございます」
「わざわざお越しくださいまして痛み入ります」
「こちらご婚約のお祝いでございます。取り急ぎまいりましたのでつまらないものですが」
秘書が心底嫌そうに差し出す。その表情にどん引きしたが、渡されたものを見てその表情に納得した。包装も熨斗もないむき出しの化粧箱というのもそうだが、婚約祝いにこのセレクトとは……含みがあると考えていいんだろうか。
「まあ、これはこれは。好物なんです。ご出張先からわざわざこちらへ?」
ブツは「夜のお菓子」というキャッチフレーズで知られた銘菓である。好物なのは本当だ。さくさくしていて美味だし。
「いいえ、東京の自宅から直接参りました」
会話が途切れる。ご当地から直接来たわけでないということは事務所だか自宅だかにあった到来物、あるいは買い置きしておいたものを掴んできた、と。どうしてそんなに慌てているんだろう。あるいは意図があって敢えてそうしているのか。今のところ、判断するには情報が足りない。
突如、議員先生が話し始めた。
「白梅様はいちばん若い乙女をやめさせたのだとか」
「ええ。本人が希望しましたので」
「あの娘から乙女は生まれないということですかな」
何を訊きたいのだろう。ケイさんと目を見合わせる。微笑んでうなずく彼に任せた。
「もともと乙女は直系で生まれにくいのです。彼女が乙女であり続けたとしても、乙女が生まれる可能性は低かったと思われます。これは当屋敷の主治医としての見解です」
「口をはさまないでいただきたい。白梅様から直接お言葉を賜りたいのでな。従者でなく」
これは怒らせようとしているんですかね。挑発なんですかね。むきゃー、と夜のお菓子を叩きつけていい場面なんですかね。もったいないからしないけど。菓子に罪はないし。
ケイさんは表情を変えることなく穏やかに微笑んだまま私の手を軽く握り、掌に指を滑らせた。そのあたたかな感触が私を落ち着かせる。そうそう、集中しなきゃ。
「従者? 私の婚約者のことですか?」
「白梅様からすれば従者に違いありますまい」
「そうなのでしょうか。私が白梅荘の当主だからですか?」
「まさに、そのとおり」
視線を議員先生から逸らし、握ったままの手をこちょこちょとくすぐるケイさんと合わせる。
「私、もしかして当主だからと偉そうにしていますか?」
「そう感じたことはないな」
議員先生はムッときたらしい。「んもう、やめてくださいな」「ふふ」的いちゃこら小芝居が眼前で展開され自分は放っておかれているのでは無理もないか。ケイさんのたわむれに赤面するふりをしつつ、複数の探索子を展開し機会をうかがう。
「白梅様はこの地と無縁に育ったお方だ。お立場がよくお分かりにならないと見える」
「私の立場、ですか?」
客二人の心の表層を見比べる。どちらから取り掛かるのがよいか。
「そうだ。この地において白梅様は神の守人、神の子孫でもあらせられる。そんなお方がそう簡単に手近な男に手をつけられるなどと」
――こちらから始めよう。
挑発しようと懸命になっている議員先生の心の表層に、探索子をこっそり潜ませた。
「手近だなんて、そんな」
「あなたは白梅荘の当主だ。当然縁組は社会的地位の高い男性と行わなければならない」
会談の場の主導権を握りたい一心なのだろう。議員の心の外壁が忙しなく動く。興奮の度合いが高まるたびに間欠泉のように心の内側から外に向かって扉がばたりばたりと開いたり閉じたりしている。
「先生は私どもの婚約に反対なのですか?」
「う……」
するり。
議員先生が本音を漏らして動揺を見せた隙にぱかりと開いた心の外壁から探索子を内側に紛れこませた。
前回、表層で意思の繊維の束を握っただけで心の内側まであっさり曝け出した秘書はさらに容易だ。アポイントなしの突撃訪問、冗談ととられかねない手土産、挙句の果てに訪問の趣旨に反する発言。議員先生の目に余る振る舞いにうろたえる秘書は隙だらけだった。
ごく小さな二つの探索子を、客二人の心の片隅に潜ませたままにしておく。
「い、いや、ちゃんと条件の整った男性でなければ白梅様にご不満があろうと」
「いずれ跡目を継ぐ私の頼りなさを案じた先代からの遺言に従ったまでですが、不満はありません。むしろ、その――」
俯いて赤面するふりをしつつケイさんの手を握る。
――二人とも仕掛けました。
――了解。
悟られないよう素早く合図する。
「詩織」
隣に座るケイさんが私を向いた。体ごと向き直ったので片腕が私の背中にまわる。
「お茶が冷めてしまったようだ。淹れなおしてくれる?」
「はい……でも」
「お客様のお話はちゃんとうかがっておくから」
「はい。よろしくお願いします」
それでは、と中座する私を追うかのように議員先生は腰を浮かせかけたが、ケイさんの
「お話は私がうかがいましょう」
ゆったりと響く低い声に舌打ちをした。
後ろ髪を引かれる思いで廊下へ出て厨房へ向かった。
ああしてケイさんが侮られたり、私が中座したりすることも織りこみ済みだ。黄金週間の小旅行以来、ケイさんに手伝ってもらって何度も精神干渉のトレーニングを行った。アンカーを強化し、機能を加え、探索子も複数のタイプを使い分けられるようになった。先ほど客二人の心の中に潜りこませた探索子は私の分身ではなく意思の繊維を減らして軽量化した時限式、つまり使い捨てできるタイプのものだ。意思の繊維が少ない分、探索子との距離が開けば繊細なハンドリングができないのだが、接客しているケイさんの中にあるアンカーを中継地点にしてその欠点をカバーしている。
予想していたこととはいえ、大切な人にあからさまに侮蔑の感情を向けられると気分がよくない。しかしケイさん自身がそうして盾になることを選んでいるのだ。そして外部の視線や自分たちのポジションを知るためにその戦術を選択したのは他の誰でもない私自身だ。目をそらしてはならない。
「本来は従者であるきみなんぞでなく、このわしの家に乙女を優先的に寄越すべきなんだよ」
「せ、先生。おやめください」
「やかましい」
議員先生は止めようとする秘書を振り払ってさらにヒートアップしている。ケイさんの心のセノーテにあるアンカーを経由して小応接室にいる人々の様子が私の心に届く。探索子を操作して、客二人がより感情的になるようじくじくと後押しする。時限式の探索子ふたつには、客の集中力と思考力を削ぐために感情を刺激し、欲望が露わになるような動きをするよう設定してある。
「子どもの乙女がやっと十六歳になったというのにわしのところに寄越すどころかやめさせるなどと、当代の白梅様はとんでもないことをする。この地を代表して国政に携わるわしを侮るのか」
アンカー経由で伝わる情報の中にはケイさんの心の動きも当然ある。のんびりとした口調と同じく、心の中も穏やかなままだ。
「先生は乙女をご所望なんですか」
「美しく優れた異能を持つ、出産可能な乙女が必要だ。少々薹は立つが当主の白梅様でもよい」
「当主自身が希望するならば私に否やはありません。ただし当主との結婚をお望みだとしても、先生は白梅の館に婿入りなさらないでしょう」
「婿入り? とんでもない。だいたい白梅の乙女という化け物じみた女と結婚などできるわけがなかろう」
わずかにケイさんの心に揺らぎが生じた。
「何をお望みなのか分かりかねます。白梅の乙女について勘違いされておいでのようですが」
「多々良が浜の外から貴種を招き入れる、そのための乙女であろうよ。わしという貴種を乙女で結びつけておかねば、多々良が浜はますます寂れるぞ。半獣の血を入れるための乙女ではないわ」
怒りで頭が沸騰しそうだ。しかし対峙するケイさん本人は落ち着いている。
「私なんぞについてよくご存じで」
「忠実な従者面してしらばっくれていられるもの今のうちだ。馬脚を露わす羽目に陥るぞ。婿から白梅の当主に直るよりどうだ、わしらと組まんか」
「……」
「ここで従者や医者なんぞするよりずっと金回りもよく、面白い研究もできる。異能遺伝形質の軍事転用だ。そのために研究材料としても、上の連中への供物としても、ハイブリッドコードキャリアの苗代としても出産可能な乙女が必要なのだよ」
「……」
「女などの顔色を窺わずとも済む立派な男の仕事だよ。どうだね、五木君」
「いいかげんにしろよ、じじいッ」
それまで沈黙を守っていた秘書が立ちあがった。
「どうした」
「どうした、じゃねえよ。何をぺらぺらしゃべってるんだよ」
頃合いか。これ以上心の内側を刺激しても興奮が募り攻撃性が増すだけだろう。厨房からまた小応接室へ向かいながら、客二人の心に潜ませた探索子の分解を始める。
「ぺ……! 中島、なんだその物いいはッ」
「川向こうの盟主様のいいつけを忘れたのかよ!」
探索子がゆっくりと二人の心の中で崩壊する。崩壊しながらまだ情報を送信してくる。
川近くに建つ大きな純日本家屋。古びて堂々としたたたずまいだが、そこかしこに綻びや崩れが見られる。手入れの行き届かない陰りの多い庭に立つ錆びた色合いの着流しに塗りの下駄、渋い色合いの帯に下がる般若の根付け。着流しの男の顔に秘書の意識が向かう前に探索子が完全に崩れた。
ぷつり。
情報が途切れる。この男が「川向こうの盟主様」とやらなのだろうか。探索子破壊のタイミングが早過ぎたのか。着流しの男についての顔が見えなかったのが残念だがロケーションなどの情報すべてを記憶する。今はそこがどこか分からなくてもいずれ突き止める際に役立つだろう。議員先生の内部の探索子も崩壊して情報が途切れた。アンカーをそっと震わせてケイさんに情報収集完了の合図をする。そして小応接室の入口へ向かった。




