第二話 梅雨寒(二)
厨房に入ろうとしたところで、お久さんが雨に打たれる窓をぼんやりと眺め佇んでいるのに気づいた。
小袖の、緑と紺色の縞模様がしゃっきりとして背筋の伸びた袴姿の凛々しさを強めている。こうした折り目正しさはお久さんの身に習慣として染みこんだものなのだろう。しかし隙のない立ち姿なのに、冴えない。普段は笑みを絶やさない細く切れ長な目もとから表情が失せ、あたたかみのない梅雨寒の昼空に照らされる肌は蒼く、力なく閉じた口もとの皺がくっきりと影をかたちづくる。
ほのぼの老剣客風の語り口でついついペースに巻きこまれて聞かされるのは耳かき変態トークだったりと強引なくせに、それでもまわりを気遣うこの人の常にない打ちひしがれた姿に、声をかけるのがためらわれる。
「詩織ちゃん、わし、どうすればよいかのう」
そうだ。この人は気配に聡いんだった。入口でおろおろしていれば気づかれて当然だ。
「聞かされとったからの、知ってはいたんじゃが」
ふうう、とお久さんはため息をついた。ほんの少しのためらいがそこにあったように見えたが、ふるりと初めからなかったかのようにお久さんはそれを脱ぎ捨て窓からこちらへ視線を移してにいっ、と笑った。
「みちるちゃんがどんな子どもになるのか想像がつかぬ。楽しみじゃのう」
「再生の件ですね」
「そうそう。引き継ぎで忙しくしているのにすまぬのう」
「いえいえ。こういっては身も蓋もありませんが、忙しいのは私じゃありませんし」
「それもそうじゃ」
おそらく本当にいいたかったことはこれではないのだろう。しかし「他にもいいたいことがあるのでは」などと距離を詰めていいものだろうか。こういうときに踏みこめないのがもどかしい。
夕食はえぼ鯛の干物がメインと決まった。干物は焼き加減だけに集中すればいいからいくぶん気が楽だ。味つけに悩まなくてすむ。あとは『これでばっちり! 基本のお惣菜』をセオリー通りにこなす。
「結婚していたらお久さんみたいなお姑さんに料理を教わったんですかね」
「びっしびし、ばっしばし、とのう」
「お久さんみたいなあまり厳しくない方だったらなんとか」
「いや、わしは鬼姑らしくての」
え? やだ私、勇者やっちゃってる? 地雷踏んだの?
「味つけやら献立の組み立てやら、これこれこういうところを直してみよ、と指摘したら嫌われてのう」
「メシマズって自覚ないもんですしね、私も問題ない気がしてましたもの」
「そんなもんかのう。きっかけは料理だったんじゃが、もともと合わなかったんじゃろうな。時代劇好きも武道好きも普通でないから嫌だ、と泣かれてのう」
「うわあ」
「わし、合気道だけでなく剣道も好きなのでな、素振りだの型の稽古だの一人でできることを家でやっとったんだが、そういうのから何から、嫁はダメだったみたいでのう。気持ち悪いといわれた」
「合わない人だと気になるんですかね。それにしてもひどいな」
「結局わしのな、力がわしの家庭を駄目にした」
お久さんの異能は「要塞」なんだそうだ。
この「要塞」というのはバリアを張る能力なのだという。同じ能力を持つ人や、探知能力の優れた人でないと認識できない透明なバリアで、入ろうとしても簡単には入れないというから驚く。
要塞化の有効範囲は体積で把握する。有効範囲は単に面積でなく、高さも含めた立体的なものであるらしい。
「たとえば、わしの力の上限があの梅の木をすっぽり覆う立体程度だと仮定して」
梅の木をまるごと囲んで要塞化してしまえば、殴ることも切ることも、火をかけることも、触れることすらかなわないという。しかし梅の木の隣に有効範囲からはみ出て横たわる人がいる場合、その人も含めて守ろうとすると要塞の底面積が広がる。そうすると要塞が低くなって、梅の木のてっぺんが要塞化の範囲から外れる。
「今のわしの要塞化有効範囲はもっと広いんじゃが、大雑把に説明するとこんな感じかのう」
「なるほど」
「分かりにくいじゃろう?」
「はい、確かに」
本人によると「力そのものはさして強くない」らしいのだが、加齢とともに徐々に異能が強くなってきたのだとか。外見に現れない、イメージしづらい能力だからか、家族もお久さん自身も違和感を抱かなかったらしい。息子夫婦との同居、嫁姑問題の勃発でストレスがたまったのが引き金となった。
「わし、嫁だけを家に入れないような要塞を作ってしもうたんじゃ。しかも無意識にやってしまってのう」
それはものすごくまずいような気がする。
「最初のうちは気のせいだろう、神経質すぎるのでは、などと嫁の話を息子も、夫もわしも聞き流していたんじゃ。能力が弱いから作る要塞もふにゃふにゃで、嫁も家に入れたり入れなかったりとムラがあったしのう。しかしそのうちどうもおかしい、と」
息子が親戚、中でも道場主である本家の叔父に相談してやっと異能が顕現していると判明したという。それまで「変なことをいう嫁だ、そんなにこの家がいやなんだろうか」などと軽く考えていたお久さんだったが、まさか自分が嫁をはじき出していたとは思いもしなかった。当時の心境について触れなかったが、相当に辛かっただろう。
「そういうわけで離婚して実家、というより本家の道場預かりとなってな。元の家族、特に嫁には悪いことをしたと思っておる」
ほろ苦くお久さんは笑った。
「幼馴染のように育って気の置けない叔父じゃったので道場での暮らしは気楽での、稽古がはかどってなあ。そうして暮らしていたある日、道場に千草殿とみちるちゃんがやってきた」
――こちらに力の顕れた方がおいでになると聞きまして。
本人に自覚のない力を揮い離婚し、実家にも居づらく、本家で肩身狭く稽古に明け暮れていたお久さんが出会った二人の乙女の美しさは、娘盛りをとうの昔に過ぎた中年女性ながら、辺りを払うものだったのだそうな。
「千草殿とみちるちゃんは堂々として綺麗でのう。わしは自然と跪き頭を垂れ従った」
どこから噂を聞きつけたか、おば様のオファーは乙女としてお久さんを白梅荘に迎えたいというものだった。
「実家としては厄介払いができるというので諸手を挙げて歓迎したんじゃが、千草殿は乙女として送り出してほしいと支度金までくださってのう。実家はその金で事業を軌道に載せることができたし、わしは出戻りの厄介払いでなく望まれて白梅の乙女になるという体裁が整ったし、あのとき本当に助かったんじゃ」
お久さんは窓の外を見やって微笑んだ。
「そういう外向けの体裁もそうなんじゃが、この白梅荘に来てからは毎日が楽しくてのう。叔父のもとで稽古に励む日々も気楽だと思っておったのじゃが、――なんというか、心の奥底のこわばりを緩め溶かすような」
「肩に重くのしかかっていた荷物が溶けてなくなった、ゆるされ、望まれている、そんな気持ちでしょうか」
お久さんは口をはさんだ私を一瞥し、驚きにわずかに瞠った目を再び細めた。
「そう。そうなんじゃ。わしのしたことは決して嫁や元の家族に赦してもらえるものではない。でもここで暮らしていると、いつまでもほじくり返して生傷を晒さず、それを過去のものとしてよいような気持ちになるのじゃ」
再び窓の外、降り続く雨を眺めた。私もお久さんに倣う。頬に笑みを刻むお久さんを斜め後ろから視界におさめながら。
この人は万人が認める美形ではない。しかしいつも思う。お久さんの笑顔は特別に心にしみる。半分寝ぼけた朝の挨拶も、いたずらを思いついたようなやんちゃ顔も、宥め慰める慈しみ深い顔も、窘めるときの苦笑もすべて。
「わしは人生の半ば過ぎてみちるちゃんと出会った」
お久さんが俯き、そっと胸を押さえて笑みを深めた。
「みちるちゃんと出会えた」
梅雨空の光が淡くお久さんを照らす。仕草も笑みも清らかで美しかった。
ふ、と雰囲気が変わった。お久さんに動きはないが表情に緊張が見える。
「来客じゃ。今日は予定があったかの」
「いいえ」
「午後遅く、アポイントメントもなし。みちるちゃんの不在を狙っておるかの」
お久さんは顔を上げた。表情に緊張の影は既にない。淡々と口もとに微笑みをたたえている。
「五分で準備できるかの」
「はい」
「応対は」
「私とケイさんで」
「うむ。ケイちゃんが一緒であればボディーガードは不要じゃな」
「はい。お久さんには先ほどうかがった要塞化を、敷地全体に最大限でお願いいたします」
「承知した」
「客を迎え入れた後、完全な遮蔽を三十分ほど。難しいでしょうか」
「なんの。力不足とはいえ一時間は可能じゃろうて。それでは案内と称して足止め五分、その後一時間遮蔽しましょうぞ」
「お願いします」
ケイさんにインターフォンで来客対応を依頼した。急いで準備をしなければ。




