第一話 梅雨寒(一)
よく降る。ゴールデンウィークの頃の夏を先取りしたような陽気が嘘のようだ。屋外がどんよりと昼から暗いので、蛍光灯の光がことさらしらじらとして見える。
小応接室の近くに図書室と呼んでいた部屋がある。ここが日が当たり過ぎずいい感じに日中の作業に向いていそうだというので、片づけて事務部屋にした。白梅に
「じ、じむべや……せめて『執務室』といっていただきとうございます」
と嫌がられたが。まあ、私が使う部屋じゃないから好きに呼んでくれてかまわないけど。
盆を片手で支え、執務室のドアをノックする。
「どうぞ」
ドアを開けると、ケイさんが外の天気に負けないくらいどんよりしていた。重厚な机にバインダーやら何やらを積み上げてその谷間にノートパソコンを置いて呻吟している。あれか。事務作業苦手なタイプか。
「お茶にしましょう」
「……うん」
机でなくローテーブルに茶器を並べた。
「ケイさん、お茶にしましょう」
「……うん」
顔を上げず生返事を寄こすところを見るに作業中の机にお茶を持ってきてもらえると思っているらしい。
「こちらにいらして」
「え?」
「お茶置けないくらい散らかってますし、何より一度気分を切り替えないと効率よくないですよ」
どんよりしたままのっそりとソファに腰掛けるケイさんにお茶とお茶請けを給仕した。それにしてもこりゃ重症だな。意気ごみはあってもどこから手をつけていいか分からない状態か。ぼんやり視線をさまよわせているケイさんの手から湯呑みを取り上げた。
「……あれ?」
「ケイさん、後でお手伝いしますから、ちょっと書類から気持ちを離して」
「ああ、すまない」
はい、あーん、と指でつまんだお茶請けをケイさんの口に押しこむ。
「――甘い。辛い?」
お茶を飲ませる。
「すうすうする?」
「おいしくないですか? やっぱり駄目?」
「――けっこういける。生姜の砂糖漬けか。きみが作ったの?」
「はい」
「上手になったなあ」
すみませんね、メシマズで! ほめられたのに何だが複雑だ。ケイさんをソファに残し、ぷんすかしながらデスクの書類とパソコンのデータを軽くチェックする。なるほど。作業中のファイルをいったん保存し、私は別ファイルを立ち上げてリストを作り始めた。
先日、ケイさんと私は婚約した。
婚約したからといって特別に何かするわけではない。お互いに実家もないことだし、同じ家に住んでいるわけだし、何が変わるわけでもない。ケイさんからは指輪をもらった。中央の丸いオパールをダイアモンドでこしらえた小さな花びらが囲んだそれは、古ぼけているものの愛らしく精緻なデザインだった。乳白色の石に炎のように緑や青、橙色の光がちらちらときらめく。残念なことにサイズが合わず、私の指を通すとくるくるまわってしまう。
「こんな古いものですまない。母の遺品なんだけれど」
「とてもきれい。いいんでしょうか。いただいても」
「もちろん」
「うれしい」
直しに出すとアンティークなデザインも変わってしまいそうでなんだかもったいない。だから緩いままにしてある。その代わり鳩尾に届きそうな長さのプラチナのネックレスを作った。普段はその飾りのない鎖に指輪を通して首に掛け、服の中に入れている。最初はごろんとしたものが胸もとにあるのが気になったが、すぐに慣れた。家族のない私たちの数少ない思い出の品が肌に接する場所にあることがくすぐったいような、頼もしいような、オパールの指輪はそんな気持ちにしてくれる。
婚約したからといって何かイベントがあるわけではないが、ケイさんはものすごく忙しくなった。みちるさんの再生に向けて、白梅荘の渉外担当の引き継ぎをしているのである。みちるさんも
「ほんとに申し訳ないわ。仕事を辞めたらこっちに専念するから」
と退職に向け以前にも増して忙しい。
白梅はほとんど休眠状態らしいのだが、離れていると居心地が悪いようないたたまれない感じになるらしく、毎晩遅くなってもみちるさんは必ず帰宅する。体調が心配になるがおば様が亡くなる前からそんな感じだったらしく、
「慣れてるから平気」
とみちるさんは精力的に働いている。真知子さんも引退に向けて動き始めた。
「あと少し、あと少しで毎日日曜日ですわ……」
と呪文を唱えるように休日返上でこちらも働いている。毎朝決まった時刻につやつやした立派な車が迎えに来るんだが、「あと少し……」と呻きながら乗りこむ真知子さんがドナドナされているように見えなくもない。マルカワのみんな、会長をいたわってあげてえええ。
私はというと料理の特訓を受けてる。お久さんから。
「うむむむ……」
「あ、あの……」
お久さんは私の作った煮物の味を見て「まずいのう」と唸った。そして
「む、見切った」
というと、料理の本を差し出し
「ここに書いてある通り、作りなされ」
といった。
「詩織ちゃんの場合はの、料理が下手というわけじゃないんじゃよ。基本の技術は身についとる」
「そ、そうなんですか」
二十代の頃から一人暮らししていて一切自炊しなかったわけでなし、得意といえないだけでできないわけではないのだ。どちらかというと家計をセーブするためにまめに料理していたクチである。
「ただのう。あれじゃ、味つけと脱線が大胆なだけじゃ」
「だいたん?」
「うむ」
いったん私に手渡した『これでばっちり! 基本のお惣菜』とかいう料理本を再度手に取り、お久さんはぱらぱらとページを繰った。
「詩織ちゃんが作った煮物、途中まではほれ、これと同じじゃろう」
「そうですね」
「途中で『ふつうすぎてつまんない』と思わなんだか?」
うっ……。なぜ分かるんだ。
「うむ、やはりな」
目を泳がせる私を見てお久さんは深くうなずいた。
「基本的な技術を習得しているにもかかわらず作る飯がまずいということは、味つけやらアレンジに問題があるということでのう。あと、厄介なのは面倒くさがりなのに好奇心だけが強いケース、実は息子の嫁がこのパターンでのう」
あれはひどいアレンジャーじゃった、お久さんは遠い目をした。
お久さんが白梅荘にくるいちばんのきっかけは異能が発動するようになったからだと聞いているけれど、どうも嫁姑問題も少なからず絡んでいたのかもしれない。
「そういうわけで詩織ちゃん、本格的なメシマズと化す前にアレンジ禁止」
「わ、分かりました」
「レシピ通り、忠実に」
「はい」
「材料、調味料の計量は厳密に」
「はいいいい」
しばらくお久さん監視のもと
「調味料は正しく計量おおおッ」
「はいッ」
「アレンジ不可あああッ」
「はいッ」
びしばし料理に対する基本姿勢を矯正されていたのだが、『これでばっちり! 基本のお惣菜』をひととおりこなした後、
「これで詩織ちゃんもようやく料理の初心にかえったわけじゃ」
「はい」
「アレンジ不可。手を加えるくらいならばもう一品作れ。忘れるでないぞ」
「はいッ」
お久さんに教わってお茶請けに生姜の砂糖漬けを作ってみた。大胆に砂糖を使うのがポイントというくらいでコツがいらないのがよかったのかもしれない。評価が高い。
「今日は少し冷えますから、こういうお菓子がよかろうとお久さんが勧めてくれました」
「確かに、生姜はよいね」
リストを作成し、書類に付箋を貼って分類する私の後ろにケイさんがやってきた。
「手際がいいな」
「料理よりこちらのほうが得意ですから」
リストを確認してもらい、手直しをした。
「先にファイリングしてしまったほうが分かりやすいですよ」
「そんなもんか」
「そんなもんです。私にお手伝いできるのは書類を整理して情報を見やすくすることくらいです」
「助かる」
二人で手分けしてファイリングしてキャビネットに並べる。リストにデッドラインと優先順位を加えて並べ替えた。
「情報が整理されていれば重複して作業しても混乱しませんよ」
「すばらしい」
えっへん。伊達に十年以上事務やってません。スペシャリストでもゼネラリストでもないけど、広く浅くまんべんなく、書類のコピー、お茶汲みからお局まで会社内のパイプ役的ないろんなことやってましたよ。白梅荘では役に立たないと思っていたけど。
したことは手伝い程度だが、私個人としてはここ数年の記録やなにやらの所在と中身が知れたのが収穫だ。今度ケイさんの執務室のファイルの並びと私の脳内のメインライブラリをリンクさせて整理しよう。
「こら。また何か企んでいるな」
キャビネットを眺めながら考えていると、後ろからケイさんの腕に閉じこめられた。
「ええ、まあ。企むというほどのことでもありませんし、ずいぶん先の話になると思いますが」
「教えてくれないのか?」
「教えてあげません」
まだ屋敷内の盗聴状況がはっきりしないのでケイさんも追及してこない。いずれにせよ、うなじに頬ずりしている変態には聞かせてやらん。ケイさんが機嫌よく書類仕事に戻るというので私も厨房に戻った。




