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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第二章  新茶と乙女

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第二十話  雨あがり、浜で


 深夜に降った雨はお湿り程度だったようだ。それでも雲は厚く、風は重く生ぬるく、やっと普通のショートヘア程度に生えそろった髪を湿らせる。

 夜明け。私は浜にやってきた。

 砂が乾きかけていたので、尻が湿ってもいいや、と膝を抱えて座りこむ。しばらくすると釣り人がやってきた。もうすぐ日が昇る、その方角からやってきたため顔はよく見えない。坊主頭に夜明けの光がてらてらと反射している。頭部だけでなく全体的に角ばっていて表情がうかがえずとも頑固で厳しそうな雰囲気がある。

 釣り人の間には場所を譲り合う気風があるとか理沙嬢から聞いたことがあったが、膝を抱えて座っている様子が場所取りに見えたのだろうか。


「こちら、お邪魔してもよろしいかな?」


 朗々と響く声でうかがいを立てられた。


「どうぞ! 散歩に来ただけですので」


 海風にかき消されないよう、声を張って答えた。

 坊主頭の男は老人だった。

 糸のような細い目、えらの張った大きな四角い顎に胡麻塩の無精ひげ、てらりと輝く坊主頭で、いくつだか分からないが老人であることは間違いなさそうなのに矍鑠(かくしゃく)というか溌溂(はつらつ)というか、とにかくエネルギッシュなお人に見えた。

 準備を終えた老人が黒い竿を構える。


――おや?


 投げるのかな、と思ったら地面と水平に、竿を撫でるように滑らせる。回転と勢いをかけながら最後、高い位置で竿を止める。砂浜をぞろりと重たげに這っていたはずのおもりと仕掛けが風を切り飛んで行った。理沙嬢と投げ方が違う。

 一色二色三色……七色か、八色か。

 飛距離の長さに驚いた。無造作にさびいているが、びく、びくびくと竿が老人の肘を叩いている。魚が掛かっているのだ。やがて上がってきた仕掛けには三匹の白鱚(しろぎす)がついていた。

 邪魔にならないよう後ろでわくわくしながら眺めていたのだが、老人に気づかれていたらしい。


「釣りを、されるのかな?」

「いいえ、私は不調法でして。見るだけ、食べるだけ、です」

「ほう、魚がお好きか」


 多々良が浜は海辺の街なので、「魚が好き」というと地元の人は大層喜ぶ。


「もともと魚好きだったんですが、春にこちらに越してきて以前よりもっと好きになりました」

「それはよい」


 てらてらとした坊主頭を振り立て、老人が目を細めて笑った。微笑んだんだと思うよ、多分。目が細くなったのはともかく、口はへの字だったけど。

 老人は素晴らしい投擲(とうてき)でおもりと仕掛けを遠くへ飛ばし、そのたびに連で白鱚を釣り上げた。ガン見しているのがばれているので、思いっきりぱちぱちと拍手する。


「やや、そんなに喜ばれるとは。照れますな」

「お見事です。投げるときのフォームに無駄がなく美しいです」


 今度はさびかずに置き竿で様子を見るらしい。私の隣にやってきてどす、と座った。


「ちょうどまずめ時なのでな、ひらひらばたばたする鱚に平目や(こち)が食いつけば重畳(ちょうじょう)

「大物狙いですね」

「棚ボタ狙い、ですな」


 朗々とした声でだっははは、と笑う。大笑いしているのは間違いないんだが顔が厳めしい。しかし、この老人の笑い声は気分を浮き立たせる。

 持参したリュックサックから老人は水筒を取り出した。


「ちょうどようござった」


 と、マグカップを取り出し、私に持たせる。


「このところ孫が、茶に凝り出しましてな」


 ステンレスの水筒からカップに茶が注がれた。湯気とともに馥郁(ふくいく)とした茶の甘い香りが漂う。朝の光にきらめくのったりと濃い水色が美しい。

 思わず、苦笑が漏れる。

 あのどたばたの中でケイさんがとっさに土産に持たせたのか。東方美人の香りだ。


「石部くんのおじい様でしたか。失礼いたしました」

「先日のマルカワのご令嬢の件以来、孫が白梅のご当主に教えていただいたお茶に夢中でしてな。おもしろくてかっこいい、と」

「まあ」

「孫は外見が外見なので、家の外では子ども扱いされることがまずありませんでな。かといってそうそう甘やかしてばかりもいられないのが不憫(ふびん)で。もうそろそろ思春期に入りますのでな、その前にきちんと子ども扱いしていただき、かたじけない」

「そんな、大袈裟なことは何も」

「ウチのばあさんが、『しらうめさまのご不興を買うようなことが』と心配しましてな」

「いいえ、そんなことは一切ありません。お孫さんは礼儀正しくしてくださいました。いいお子さんです」


 並んで茶を飲み海を眺めた。風が強まる。波が白く砕け、砂浜を広く洗う。海のうねりが高まっている。

 あの礼儀正しく見た目どおり大人っぽくしっかりしていて、でもきっちり年相応でもある少年が自宅で家族に茶をふるまう様子を想像するとほほえましい。あの好ましい少年との接点は今後はないわけだが。


「ご心配をおかけして本当に申し訳ありません。今後大事なお孫さんに軽々しく接するようなことは」

「白梅様は大吾さまにそっくりですなあ」


 老人は私の言葉をさえぎった。

 多々良が浜ネイティブにはさ、私の話を最後まで聞かないという暗黙のルールでもあるのかね。まあ、こちらは大人しく相手の話を聞くけどもさ。


「わしも子どもの頃、大吾さまにかわいがっていただいたことがござってな」

「祖父が。さようでしたか」

「やはりあるとき『もう来てはなりませんよ』といわれまいた」


 代々ご近所に迷惑をかけているようで肩身が狭い。でも祖父は少年に懐かれて嬉しかったに違いない。もしかしたら少年だったこの人にハイブリッドコードの気配を感じたのかもしれない。これだけ懐いてくれるならと誘惑にかられ、しかし子どもに乙女契約を強いるのはためらわれ、祖父は苦しんだのかもしれない。


「周りの大人にも『白梅荘に子どもが行くものではない』と怒られましてなあ」


 だっははは、と老人が笑った。裏のない笑い声に聞こえた。そう思いたいだけかもしれないが。


「昨今景気が悪いのでな、いかに白梅様が神の守人といえど、よそから剥ぎ取ってまでこの多々良が浜に福をもたらせるとはわしも思うておりませんよ。白梅様のお力が弱いからだと考える輩はここぞと忌まわしいうわさ話などを聞えよがしにいい立てたりもしましょうがな」


 気になさるな、と老人は唇をへの字にして微笑んだ。


「何事にも影はあろうて」

「石部くんは、お孫さんは傷ついていませんか」

「時が解決しましょう。わしのときのように」


 目の前の暗い錆鼠(さびねず)色の波がぐぐぐっと低く沈み、そして不気味に盛り上がり、砕ける。


「ありがとうございます」


 祖父が乙女契約から遠ざけたこの人ならば安心して礼をいえる。


「ほんとうに大吾さまにそっくりですなあ。ウチのばあさんが今でも『凛々しくて素敵でした』などというくらいで大吾さまはこのあたりの娘どもに大人気の、今風の言葉で表すところのイケメンでござった。白梅の御曹司で東京で事業を成功させていらしたからの、ただのイケメンではござらん。スーパーイケメンでありまいた」


 祖父の切れ者ぶりはよく聞かされた。大好きだった祖父が英雄譚の主人公のようで、聞いていて楽しかった。でも私の知る祖父は物語のその人とは少し違う。


「しかしわしの知る大吾さまは少し違った」


 老人は細い目をますます細めた。暗く重い雲の向こうに輝く一粒の貴石を見出しているかのようだ。


「まめに地元に戻ってこられて事業の利益を還元される、評判の御曹司であったが、さびしがりやさんで気が弱くてのう」


 ほう、それは初耳。


「今はどぶみたいにばっちくなったがまだ清らかだったあの小川のあたりで膝を抱えて座りこんでめそめそしておられた。わしは大の男が、しかもスーパーイケメン御曹司がめそめそするのが不思議でならなくてな、ついつい声をかけてしもうての。当時肌身離さず持っていたいちばんの宝物を差し上げた」

「宝物?」

「ほれ、そこらへんにも落ちておろう、ガラスの欠片であるよ。波に磨かれて角が取れた円いすべらかな欠片での。すこし緑がかって透明での。珍しくもないものを大切にしておる、と親兄弟から不思議がられたものじゃ」


 空はどんよりと雲に覆われて太陽は見えない。しかし隣で振り立てられるてらてらした坊主頭が鈍い朝日を反射しているからか、いかめしい老人の朗らかな口調のせいか、さして暗い感じもしない。


「大吾さまがどんより暗く沈んで座りこんでおいでだったのでな、通りすがりのわしは気になっての、ポケットに入れておいた宝物をつい差し出してしまった」


 当時を思い出す老人の身振りは「差し上げる」「差し出す」とはほど遠いぶっきらぼうな仕草に見えたが、それが照れ隠しをしたがる年頃の少年を思わせてほほえましい。


「大吾さまは不思議そうに顔を上げられて、こう、再びずずい、と差し出すわしの手からガラスの欠片を受け取られての。指でつまんでかざしておられたが、しばし後に」

――これは特別に美しい

「そうおっしゃられての。顔をくしゃくしゃにして笑まれたのよ」


 私は知っている。まだ生まれてもいないこのときの記憶を祖父に封印されていた。

 その場にいたわけでもないのに、蘇る。

 ちょろちょろと流れる小川。寄せては返す、波。厳しい日差し。足下の砂利交じりの砂。目の前に立ち太陽を背負う少年の子どもらしくないいかめしい顔。がっちりと(えら)の張った顎に支えられた口はへの字に曲げられ、日焼けした腕を伸ばし


「ん!」


 無言でガラスの欠片を突き出す。その緑がかって歪なガラス片越しの世界は明るく光に満ち、輪郭がとろりと溶けて絵画の中にいるかのようだった。


――これは特別に美しい


 ああ、私はその場面を知っている。記憶している。


「大吾さまはたいそうお喜びになっての、以来、こちらへお帰りになる際は時間を作って会ってくださるようになった。しかしあるとき『もう来てはなりませんよ』といわれた。そしてガラスの欠片を返してくださった」


 がっくりしょんぼりと当時のことを思い出しているかと様子をうかがってみると、違った。老人は微笑んでいた。


「そのガラスの欠片は間違いなくわしがあの日大吾さまに差し上げたものであったが、どこがどうというわけでなく少し様子が違っていての。もう来るなといわれて帰るさ、梅の木の前を通ったときに手の中でびしり、と割れての。掌の上で瞬く間に粉のように細かくなってしもうた。そして風もないのに梅の木の根元に吸いこまれていった」


 厚い雲越しの鈍く力ない日の光であっても、あたりはすっかり明るい。朝だ。


「以来、往来で行き合えば会釈と軽く言葉を交わすのみの間柄での、特に行き来もないままあの方は亡くなってしまわれた」

「あ、あの、祖父は」


 あなたとの思い出をとても大切にしていました、などといってしまっていいのだろうか。異能で拡張された記憶野に圧縮された情報を蓄えているから、まるで今目の前で見たかのように、祖父の記憶を蘇らせることができるなどといってしまっていいのだろうか。いい淀む私のことばをどうとらえたか、老人は続けた。


「うむ、白梅の乙女というのは祭りの御輿に載せられる辻つじの小町娘のような美人コンテストめいたものではない。家に福をもたらす代わりに乙女本人が負う業が深いということも後に知った。大吾さまはおそらくわしに白梅の乙女の資質を見出したのでありましょう」


 いったん表情を引き締めたが、老人は再度破顔した。


「ありがたいことだ。白梅の新しいご当主、あなたは孫が白梅の乙女候補にならないよう、遠ざけてくださったのですな。大吾さまと全く同じことをなさるのでの、確信しまいた」

「……本当に、すみません。ちゃんと説明できなくて」

「よいのです。よいよい。孫はばあさんに似て聡いタチでしてな、(はた)からやいやいいい聞かせずともじきに自然と腑に落ちましょう」


 だっははは。老人は弾けるように笑った。そして口をへの字にひん曲げた厳めしい顔で微笑み、今少しよろしいかな、といった。


「大吾さまは確かに多々良が浜へ福を呼びこんだ。かなり無理があったようでしてのう。多々良が浜に呼びこまれた福は本来他の街が手に入れるべきものだったやもしれませぬ。それでも大吾さまには無理を通してでもやり遂げたいことがあったのでしょう」


 若いころの祖父を思い出しているのか、老人は独特の笑みを浮かべたまま視線を砂浜に落とした。


「白梅のご当主、大吾さまから引き継がれたものをあなたがどのようにされようと、大吾さまはお怒りにならない。今のご当主はあなたなのだから思うようにされるがよい。そして、何より肝要なのは他人を恃むこと」

「たのむ?」

「さよう。一人で抱えこまず、周りのものと手を携えることが肝要ですぞ。そのためにご当主ご自身がしっかりと見極めなければならぬ」

「……」

「ご当主は大吾さまよりしなやかでいらっしゃる。ここでない土地で育ち、この地のきまりに縛られず成長された。ご当主は福をもたらす富や人脈をお持ちでないかもしれないが、この地に新しい風を呼びこまれましょう」


 老人はどっこいしょ、と掛け声のわりに身軽く立ち上がり、竿を掴んだ。


「肝要なのは見極めること、そして他人を恃むことですぞ、白梅様」


 そしてバイパスの橋脚へ視線を投げた。


「孫を送ってくださった大きい方はご夫君ですかな。あちら、迎えに見えたようですぞ」

「お言葉、肝に銘じます。お茶、ごちそうさまでした」


 ざくざくと砂を踏み、大きい人のもとへ歩く。ケイさんは老人と会釈を交わし、私の背中にあたたかい掌をあてた。


「帰ろう。身体が冷えている」

「はい」


 港近くの住宅街を抜け、街道沿いを白梅荘に向かって歩く。早朝の街道はまだあまり混雑していない。駅のある丘から下ったところにある交差点で信号待ちしていて、ふと気付いた。隣の大きい人の口がへの字になっている。先ほどの老人は口をへの字にして笑ったが、こちらの大きい人がそうしているときはだいたい()ねていたりむくれていたりする。


「ケイさん、どうかしました?」

()けた」

「へ?」

「俺より若い男としゃべってたから」

「若い……?」


 そういえば百歳。さっきの老人のほうが実年齢は若いのか。


「いやいやいや、世の男性のあらかたが実年齢でいえばあなたより若いですよ? いちいちそのあたりに引っかかってもらうと困るんですが」

「だって」

「……はああ。もふもふの余韻にひたることすらできないなんて」

「俺、リクエストされたらいつでもヤマアラシになるぞ」

「今はいいです。屋外で全裸は問題ありますから。着替えもありませんし、勢いに任せて獣化すると大変なことになっちゃうでしょう?」

「う……」


 盛大にうじうじしてる。


「次のもふもふが楽しみです。もふもふさせてくれる人は他にいませんし」


 針毛で刺されるハードなプレイが漏れなくついてくるけどな。しかしこうでもいってこの場を収めないことには、空模様と同様にどんよりした大きい人を伴って歩く羽目になる。白梅荘まであと少しではあるが。実際にケイさんの機嫌は少し上向いたようだ。なぜ分かるかというと、背中に当てられた手の爪が伸びて食いこんでるから。獣化やめれ。


 当主としての義務。まだ解けていない記憶の封印。乙女たちの行く末。白梅との間にある溝。問題ばかりが増えていく。先行きはこの空模様のように重く暗い。


――今のご当主はあなたなのだから思うようにされるがよい。


 いかめしい老人の朗らかな声が、大きい人のあたたかい手が、乙女たちが私の背中を押す。残り時間をただカウントダウンして過ごすよりいい。きっと、ずっといい。強まった海風が私の髪をかき乱す。


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