第五話 白梅(四)
「わたしの依頼人の遺産を相続するかどうか、決めましたか」
紅茶でひと息入れたのち、城下弁護士が切り出した。
病院で受けた説明によると確か遺産は白梅荘とプラスアルファで、故人が長年ともに暮らした白梅荘の住人との賃貸契約を継続することが相続の条件だったはず。条件があるものの相続後に不動産を売却しようが、賃貸契約を破棄しようが、揉める可能性はあっても結局相続人の意思そのものは尊重されるような話であったと思う。
よくよく考えればその話のどこにも老女がつましく身を寄せ合ってきゃっきゃうふふの素朴な古アパートなんぞひとことも出てきていないんだが、庶民育ち故の想像力不足による私の勘違いだったようだ。それにしてもこれだけの豪邸、相続できても維持するのは難しい。金銭的に。相続税とか。固定資産税とかなんとか。その他維持費とか。
「生前おば様、じゃなくて梅田さんとの行き来はなかったのですが、それでもただひとりの親戚でしたしできれば故人の意志を尊重したいです。事情があってあまり親しくできませんでしたが、お慕いしていましたし。でもとてもわたしが個人手相続して維持できるレベルの遺産じゃないと思うんです」
城下弁護士は眉根を寄せて厳しい顔をしている。わたしの発言に「はっきりしないな」といらいらしているんだろうか。案の定
「それで?」
片眉をぐいっと上げ腕を組んだ。
「わたしがうかがいたいのは高野さんご自身が相続する意思をお持ちなのかどうかです」
何をいっても「はっきりしろよ」と怒られそうだがとりあえず言うだけ言ってみる。
「気持ちの上ではもちろん、相続したいです。おば様が亡くなった後もこれだけ大切にされているお屋敷ですし」
「かしこまりました。では相続されるということで」
「いやだから、城下先生? 気持ちはそうなんですが先立つものが私には」
城下弁護士は向かいのソファから身を乗り出し、ずずいとわたしの顔の前に掌をかざした。待て、とな?
「相続だけでなく故人の遺志どおりに維持したいと思われるんですよね?」
「ええ、まあ」
「維持したい、と」
「ええ、そのとおりです」
わたしが答えると城下弁護士はにやりと笑い、書類を広げた。
「はい、ここ署名捺印。あとこちらとこちらも。ご面倒でも目を通してからにしていただきたいんですが、何でしたら後で読んでいただいてもわたしは一向にかまいません」
「いやいやいや、私はかまいます。大いにかまいますよ。これ何ですか?」
「手続きに必要なんで、ね?」
「ちょちょちょっと、先生? こういっちゃなんですけど私、詐欺に遭ってる気分なんですが?」
「何てこというんですか、人聞きの悪い」
城下弁護士はソファに深く腰かけなおし、足を組んだ。ふんぞり返った偉そうなその態度、悪女めいた美貌と実によくマッチしている。
「あなたと依頼人の関係はうかがっています。依頼人は事業関連の売却等、清算も生前にすませています。贅沢はできずともあなた自身に大きな借金がない限り、白梅荘を維持できる程度に利益を生むものを選んで遺してあります」
これとか、これとか、と書類を指差す。
「よっぽどの経済情勢の変化がない限り維持するのに十分であると見ています。さ、署名捺印を。書類はまだまだありますよ」
ぽかん、と口を開ける私を見て城下弁護士はにやりとした。悪い笑顔だなあ。
うらうらと晴れた早春の昼下がり、私はがつがつと書類にサインしている。はい次、はいこちら、とわんこそばみたく書類が渡されるので、目を通す余裕などなくいわれるままだ。正直なところこの中に詐欺目的の書類が紛れこんでいても分からないままサインしてしまうと思う。怖! よい子は真似しちゃ駄目だ。
「先日のお話では今後の身の振り方を決めていらっしゃらないとのことでしたが、こちらにお住まいになってはいかがですか」
「このお屋敷に?」
「ええ。あ、手を止めてはいけません。書類、まだまだありますよ。――先立つものが心配ならばここに住んでしまえばいいんですよ。東京より物価も安いし、オーナーはあなたなんですから家賃も不要。あれだけの目に遭ったばかりなんですから、就職先を探すよりまずこちらで静養されてはいかがでしょう。――次はこちらです。署名捺印を」
「そうですねえ。のんびりしていいところみたいですね、このあたり」
「ええ、静かですし。次はこちらに割印を」
「そうしちゃおうかなあ。いや、割印はちゃんとしますってば、睨まないでくださいよ、転居の話です」
「強くお勧めします。是非そうなさい。大事な依頼人のたったひとりのお身内が災難に遭った上に大都会で無職独り暮らしだなんて、心配で仕方ありません」
そ、そこまで? 見直した。意地悪そうな見た目のわりに城下弁護士は親切だ。詐欺なんぞ疑ってすまんかった。
「ここはね、乙女の館なんですよ。多々良が浜は田舎ですがその分治安が良いので乙女ばかり集まって暮らしていても安心なのです」
「へえ、乙女の館」
「普段多忙なので寝に帰るだけですが、わたしもここで暮らしていますし」
「え? 城下先生もここで?」
「さっきあなた署名捺印したでしょう、これはわたしの賃貸契約ですよ」
「あ、ほんとだ」
「ボランティアで庭の手入れするわけないでしょう。たまにしか休みないんですよ? ――それはともかく、まだわたしとの面識もほとんどないようなものですが、それでも顔見知りがいるとなれば高野さんも心細さが減るでしょう」
「確かに」
城下弁護士はす、と手を差し出した。
「じゃあ、決まりですね。白梅荘へようこそ」
「よろしくお願いいたします」
手を握り返す。かさかさと乾いていて、それでいてあたたかい手だった。
それからしばらく書類の説明を受けたりサインをしたりしていたのだが、ふと書類のひとつが気になった。
「先ほどこの白梅荘が乙女の館だと」
「ええ、申しました」
「そうすると白梅荘の住人はすべて乙女なんですね?」
「ええ、そのとおりです」
城下弁護士はきっぱり言い切った。
「いやしかしですね、おひとり乙女じゃない方がいらっしゃるような」
「高野さんのことですか?」
「わ、私?」
城下弁護士と私の間に気まずい空気が満ちた。
「つい先日までリア充ポジションにあって乙女らしからぬふるまいもあったでしょうが、百歩二百歩、いや三千歩ほど譲ってそんな高野さんを乙女ということにしてもよろしいんではないでしょうか? 薄皮一枚の問題ですし」
「う、うすっ、薄皮? 乙女の判定基準ってそういう物理的なものなんですか?」
「乙女をそう定義する文化もあると聞きます」
「そういうことをうかがっているんじゃありませんよ」
賃貸契約書のひとつを私はびしっ、と指差した。そこに書かれているのは「五木圭一」、乙女らしからぬ名前である。
「この方、男性ですよね?」
「彼は乙女ですよ」
いやいやいや、彼っていっちゃってるし。そもそも薄皮がどうこうで定義するなら乙女であり得ないだろうよ、この人男性なんだし。そして察するにこの「五木圭一」なる人物はさっき城下弁護士に「ケイちゃん」と呼ばれていたあのでかいおっさんのことなんだろうよ。乙女にはとても見えなかったが。
「乙女です」
「いやしかしそもそも女性ですらなくだんせ」
「乙女です。お、と、め、ですよ、高野さん」
「乙女なんですか乙女なんですね、はい、分かりました。城下先生がそうおっしゃるならそうなんでしょう」
天国のお父さんお母さん、私、負けました。弁護士先生に口でかないません。
「もうその契約書にサインもしましたし、はんこも押しましたし、今さら乙女問題がどうこうで契約を反故にしたりしません。ただその彼……いや彼女?」
「彼でけっこうです」
「そうなんですね彼なんですね、その彼はそのあの、いわゆるオネエとかそういう嗜好というかアイデンティティというか」
「その点は個人的な問題ですので、ここに住まわれてから彼自身にお尋ねになっては?」
訊けない。きっと訊けない。オネエじゃなかったような気がするんだが、私から訊いちゃいけない気がする。
「ちなみにくだんの薄皮が乙女の条件というわけではありません」
城下弁護士は身を乗り出し、私の手を取った。
「乙女というのは依頼人が、千草さんがそう決めた方のことなんですよ。あなたといっしょに暮らしてみたかった、と」
「おば様が?」
「ええ。千草さんと同じようにわたしのことは名前で呼んでくださる?」
「みちるさん、でよろしいですか?」
「あなたのことも千草さんがよくおっしゃっていたように詩織ちゃんと呼んでもいいかしら?」
みちるさんの笑顔はたいそう愛らしかった。弁護士で頭がよくて意地悪でおばさんで策士なくせに、その上かわいくてここぞというところで優しいなんてああ、ずるいなもう。ええ、とうなずき返して不覚にもぐっときた。借りたままの大きいおっさん乙女のハンカチで目尻を拭っていると、視界に違和感が。んんん?
前庭に面した窓の外、張り出した梅の枝へ目をやると、釣り竿をかついだ子どもが顔をのぞかせているのが見えた。