第三話 春愁(三)
しばらく無言で抱き合っていた。沈黙を破ったのはケイさんだった。
「俺の生まれたところは『島』と呼ばれていた。地図には載ってない。まわりの人々から祟り神の住む地だと畏れられていた。俺たちは祟り神の子孫で、祟り神の力を受け継ぐ者だといわれている。
『島』の近隣では祟り神を引き受ける祭りがあった。村々で娘に祟り神の子孫を婿としてあてがう当番のようなものが順番でまわってくるんだ。祟りという穢れを引き受ける代わりに必ずその家には何らかの形で福がまいこむ。そう伝えられている。祟りを引き受けた娘からはめったに子が生まれないが、まれに祟り神の性質を受け継ぐ子孫が生まれることもある。祟り神の子なら『島』へ返す。そういう決まりがあった。――『島』には今、もう誰も住んでいないはずだ」
ただ黙って聞こうと思っていたのだけれど、できなかった。さっきまでふわふわの獣毛に覆われていた胸にそっと口づける。ケイさんはため息をつき、私の頭にキスした。つむじと額の間。
「祟り神はこの多々良が浜で『知恵者』と呼ばれる土地神と同じ種族だ」
ケイさんは私に頬を寄せた。
「二つの土地で語り継がれる神話には、共通点がある。神々が昔やってきたこと、神々と人々が交わって神の子が生まれたこと、そして神の子の血統を守り、いつか帰ってくる神々と再び交じり合うこと。ただの神話やおとぎ話じゃないんだ。何代も、何十代、いや、さらにはるか昔から『播種計画』に則った実験を繰り返す拠点、それが『島』であり、白梅荘だ」
小さく表情に乏しい声で直接、耳に語りかける。
「祟り神――、知恵者と乙女のことを聞いただろう」
黙ったままうなずく。
知恵者の遺伝形質ハイブリッドコードをはこぶ人間はたくさんいる。その中でも異能が発現するほど知恵者遺伝形質を濃く継ぐ者をハイブリッドコードキャリアと呼ぶ。
「不規則に発現するのと不妊率の高さのせいでキャリアは少ない」
時を経てハイブリッドコードが薄まって拡散したため、キャリアと認められる場合であっても異能のレベルが低かったり、コントロールができなかったりする者がほとんどだという。
「だから播種計画拠点ではハイブリッドコードキャリアを引き取り、コントロールできるよう異能を引き出され、交配実験を行う」
成功率の低い交配実験を優先するために、結婚や出産の自由もなく、その遺体も実験記録装置に分析のために喰われる――。私は真知子さんと、臼田青年の母のことばを思い出した。
――わたくしもこうして出産や子育てを終えた後に乙女になりました。
――前例はないわけではないと聞いていますけれど、少ないそうですわ。
――出産や子育てを終えた女では勤まらない仕事もあるとかで。
――しらうめさんのところに出されると、女はおかしくなる。
――あたしのばあちゃんのおばさんはねえ、しらうめさんのところに奉公に出されてうまずめにされたのさ。
――他にも死んでも遺体を返してもらえず葬式を出せなかった者もいた。
視点を変えればすべて合致する。そういうことだったのか。なんておぞましい。なんてことだ。
「白梅荘が女性体のハイブリッドコードキャリアを殖やすことを目的にしていたのと同じように、俺の出身拠点『島』にも割り振られたミッションがあった。――長命化と、獣種との融合による身体の強化だ」
ハイブリッドコードを播種するためにつくられたインセンティブのひとつである異能。私に顕れた異能は精神干渉力や嗅覚など、そして白梅から館の主として認められたことで得たのが治癒能力だ。理沙嬢が持っていた力、魅惑と違い表面的には普通の人間と何も変わらない。
――祟り神……。
ケイさんの故郷では異能者をそう呼んでいたという。獣と融合した姿は異質だ。目の当たりにした者に大きなインパクトを与えただろう。私も驚いた。拠点に獣化異能者が何人もいたのだ、近隣の人々から畏れられたに違いない。
「獣化異能者は男性体のみに出現する」
男性体のハイブリッドコードキャリアが女性体に比べ不妊率が低いのがなぜかは不明だという。しかし攻撃性の高さとの相関性があると『島』では伝えられていた。不妊でないタイプの男性体は攻撃性を除去できず、人間社会に適合しない凶暴な個体が多く見られる。『島』が祟り神の子孫の住む場所とされるのもこの凶暴な男性体が多く生まれることに由来しているという。
変身前のいつもの姿も、半ばヤマアラシと化した姿であっても大きい人は美しい。でも骨が軋むような不穏な音を立て変身するケイさんは身のうちの獣に抗っていたのだろう。とても苦しげだった。
ケイさんの声が震えた。
「俺も……若いころ、人を傷つけた。傷つけてしまったのは、俺の妻になるはずだった女性だ」
そう。それで。あんなに何度も「怖くないか」と。
そんなの、知らなければ分からない。聞かされた今だって怖いかと聞かれれば「分からない」としか答えられない。治癒力が高いから、針毛に刺されてもすぐには死なないから怖くない、そう思うのかもしれない。
ふるふると小刻みに震えるケイさんの体を撫でる。
「そして、俺が直接手を下したのではないけれど、『島』のみんなも俺が殺したようなものだ」
ケイさんがはらはらと涙を流す。その涙は床に落ちるのと同時に
ずずずずず、ずぞぞぞぞ。
大広間の床に、白梅に吸いこまれていった。
「千草さんは、はぐれてさまよってそれでも獣化の異能を失うこともできないでいる俺を迎え入れてくれた。乙女として」
ふ、と苦笑して、ケイさんは続けた。
「だから、俺は男だけど乙女なんだ。実験記録装置として稼働を停止している『島』との被験者契約が切れているのかどうか分からない。だけど、この白梅荘での乙女契約も新たに結んだ。もしかしたら二重に契約していることになっているかもしれない」
つむじと額の間。そこをケイさんは撫でた。ぐぐ、と歯噛みする。契約錠。あんなものが大切なこの人の中に。しかもひとつでないかもしれないなんて。
「俺の生まれた『島』では『播種計画』の歴史や実験結果を文書に記録していた。一部は知恵者の言語で記録されていたと聞いている。俺が甘かったせいで、俺の婚約者とその家族は買収された。俺が弱かったせいで、つけこまれてすべて奪われた。文書も、『島』のみんなの命も」
ケイさんが離れようとする。私は無言でいやいや、と首を振った。
「詩織。俺はきみに『おぞましくてもかまわない』といった。違うんだ。きみはおぞましくなんかない。俺に比べればぜんぜんおぞましくない」
言葉を発するわけにいかない。きっと白梅に聞かれているから。だから揺らした。大きな人の心の中、風穴の底、青くきらめく泉の手前にある意識の欠片を。大きい人が目覚まし時計のようだといっていたそれを。気づいて。私の振動に気づいて。
「『播種計画』は拠点ごとにテーマが設けられ、それに沿った実験がマッピングされている。俺の生まれた『島』は長命化と、獣種との融合による身体の強化だ。そしてここ白梅荘では女性体のハイブリッドコードキャリアを殖やすこと。そして『播種計画』開始から数千年経った今も最終目標であるハイブリッドチルドレンは未だに誕生していない、俺はそう聞いている」
目の前の大きい人は目を伏せ、私の手をそっと取った。熱い息と心もとないくらいやわらかい彼の唇が指先に触れる。
――分かってる。知ってるくせに。嫌いになんてなれない。
無言で私は風穴の底の目覚まし時計を揺らし続けた。
ケイさんはしばらく私を待っていたが、床の上で座りこんだまま動かないと分かると、ひとりで大広間を出て行った。重い扉が広間の内側へ向かって開き、そして閉じる。入るときに壊されたはずなのに扉はかちり、とひとりでに施錠された。




