第二話 春愁(二)
白梅荘のオーナー兼大家として、そして白梅の館の主として何をすべきか。
かなり気合いの入ったレクチャーが行われると踏んでいたのだが案に相違してみちるさんが投げやりだ。
「ケイちゃん、とりあえずあなたの知ってる範囲で異能について、よろしく」
朝食の席でケイさんと顔を見合わせた。私は教えてもらう側だからそれが嫌だとかそういうことはないんだけれども。てっきりみちるさんからロッテンマイヤー女史的びしばしレクチャーがあるものと思いこんでいた。ケイさんも同様に感じていたようで、
「俺、ここにきてまだ間がないので白梅について詳しくないですよ」
こちらはこちらで気になることをいう。頭の隅に引っ掛かりを覚えたが、ふうっとすぐに意識の端から滑り落ちていった。
「かまわないといっているの。お願い」
「分かりました」
「詩織ちゃんもそれでいいかしら?」
「ええ、もちろん」
それでレクチャーが始まることになったんだがいきなり怒らせちゃった。
「怒ってない」
むうっとしている。目の前の、ずいぶん高いところにある顔がつーん、とあらぬ方を向いちゃってるし、口はへの字だし。どうしたもんかなあ。そもそもどのあたりからレクチャーを始めるかという話になったとき、つるっと口を滑らせてしまったのがいけなかった。
「え? そんな風に思ってたのか?」
「だって、乙女っていうし。見た目は男の人だけど心は違ったりするのかな? って」
初日のオネエなのかどうか問題である。
「みちるさんに訊いてみたら『個人的な問題なので本人に』っていってたし……」
そのあとはどんよりむっすりで取り付く島がない。こういうとき即座に「じゃあお詫びにあなたの好物のうなじをどうぞ」みたいにできりゃあよかったのかもしれないが、そういうことができればそもそも……やめておこう。
そういうわけで梅の木の前である。母屋の中にはいづらく、自室にこもってもいいわけだがそうやって拗ねて見せるのも申し訳なかったので庭の梅の木の前にいる。草むしりでも、と思ったのであるが、そもそも梅の木のまわりに草が生えてなかった。白梅が枝を触手のように自在に使いむしゃむしゃ雑草を食べているイメージがふっと湧いてきて震えた。怖。
――やっぱりケイさんに甘え過ぎてるな。反省しなければ。
白梅荘内部から外への情報漏れについては常に頭にある。ケイさんだって例外ではない。
「自分は違うけれど、疑われても構わない」
そういい切る彼に甘えてしまう。
根拠なく「彼は違う」と考え、除外した分岐のみを活かして戦略を構築してしまいそうになる。世話焼きで甘やかすのが好きな彼のストレートなふるまいはこの場合の信頼の根拠にならない。分かっている。警戒を怠るな、と彼自身がいっているのにそれでも。それなのに、心にあんなに美しい洞窟を持つ大きい人に対して、私は――。
険しく厳しい岩塊に開いた心の入口。私を誘う優しい波動。穏やかな光と空気に満たされた風穴。膜で隔てられた泉。大きい人のあたたかな心の景色。あの儀式の後、私は自分の精神干渉力がどんなものなのか、改めて知った。
儀式翌朝にあんなことがあって、一日中いっしょに過ごして、すわ妊娠か騒ぎがあって、心も体もいちばん近くにあってそれが嬉しく楽しく心地よく、こんなに幸せなものなのかと、目がくらんでいた。私に課された義務が決定的に私たちを隔てていることから目をそらして浮かれていた。
だからこんなことになってしまったんだと思う。
絶賛放置中のパブリックエリアをうろうろしたり、自室にこもったりするのも「あんたのせいで仲直りできないんだからね!」みたいな拗ねているアピールのようでなんだかなあ、と思ってここに来たんであるが、失敗だったか。風呂のタイルでも磨いてりゃよかった。拗ねていても生産的だ。
梅の木の前でがっくりしゃがみこんでいると、饐えた気配が近づいてきた。こんなときに面倒な。そういえばここはこのばっちい気配のわけ分からんやつとの遭遇ポイントでもあった。白梅荘こんなに広いのに、しかも私オーナーなのに意外に居場所ないな。
「アンタさ、ネズミとなんかあったわけ?」
「お前に関係ない」
「でもよ」
完全に戦意喪失しているのがつまらなかったらしく、饐えた気配の主はそれでも気配、音、においそれぞれちらちら移動しながら話しかけてきた。
実は内心驚いている。とにかく臭くて得体が知れなくて気持ち悪いやつなので思いもよらなかったが、たかだかこれだけのものであっても会話が成立するとは。私にとってこの獣じみた気配の主は生き物のかたちをしている悪意であって、やつが人間なのかどうか考えたことすらなかった。ここ白梅荘にはじめてきたあの日、離れの前で出くわした黒ずくめの男がこの穢れた気配の主だと、同じ声をしていると分かっているがそれでも人や獣に取り憑く悪意の化生なのだとなんとなく思いこんでいた。まさか話しかけて答えが返ってくる日が来ようとは。それにしても会話の糸口としてこれを掴んでいいものかどうか迷う。
「それは心配されていると解釈していいのですかね」
正体はさておき、今後も私の周りにふらふら現れるのならばひとまず可能性を広げておくとしよう。
「バッ……そんなわけないだろ、あ、ネズミがきやがった。またな」
気配が移動し、消えた。
――いつもと違う?
何か違和感がある。
もしかして移動に決まったパターンがあるんじゃなかろうか。今までやつが現れるととにかく位置を確認することで精いっぱいになってしまっていた。精神的にかき乱されているのはこちらだったか。悔しさに歯噛みする。
そう気づいたのは、今回が移動が茂みを点々とするいつものコースではなかったからだ。いつもどこから現われてどこに消えるんだったか。偽装されているにしろ、されていないにしろ、闇雲にあたっても仕方ないことに変わりはない。情報を収集し、消去し、選択肢を狭める。どれだけ迂遠でも地道にこなすしかない。考えこんでいて気づかなかった。気を許し過ぎて警戒しない気配だったからでもある。
すぐそばに、昏い表情をしたケイさんが立っていた。
「痛……」
腕を強く掴まれた。ケイさんの目が一瞬たじろいだように見えたが、そのまま無言で表玄関へ連れて行かれた。そこで室内履きに履き替えず裸足でずんずんと普段使わないパブリックエリアを奥へ進む。そして大広間の前まで私を引きずるようにつれてくると、そこで
「鍵がなくてもここ、開けられますよね」
ようやく口を開いた。
「試したことがないから分かりません」
事実そのままを答えると、ケイさんは拒否されたと考えたらしく、そのまま腕でぐぐぐ、と大広間の扉を押した。ばき、と嫌な音がして扉が開く。扉にかまわず私を広間の中央まで引き立てていく。
「壊しちゃった……」
「問題ありますか」
「ありますよ。資産価値が下がります」
「売り払うのか」
「いずれ、その可能性もないとはいえません」
言葉が足りないと分かっていても思っていることを正直に話す。私の腕をつかむケイさんの手に力が入った。痛い。今度はそう思っても声に出さない。無言で下から見上げる。ケイさんはそのまま私の腕をひねり上げると、押し倒した。
衝撃を覚悟したけれど、そうならなかった。
腕をひねり上げていた彼の左手はいつの間にか私の後頭部を支え、右手は腰に巻きついている。そっと、高価な陶器を扱うような慎重な手つきで横たえられる。いったん体を離し、彼は服を脱ぎ始めた。いったん横たえられた私も立ち上がる。彼がはっと身構えるが、手で制した。
「逃げません」
シャツのボタンをむしるように外し、私も一気に服を脱いだ。下着も取り去って全裸になる。そして脱いだ服と下着を丸めると、大広間の端、できるだけ遠くへ放り投げた。そしてケイさんの前に立つ。この場所に連れてきたということは、そういうことなんだろう。
「血が流れるんですよね。どうぞ」
白梅に与えられた治癒能力のおかげで傷ひとつかげりひとつない肌になったが、もとから私の体は痩せて貧相だ。恥ずかしくないわけがないが、敢えて隠さず、両手を軽く骨盤に置き、まっすぐに立った。見たきゃ見ろ。生意気に見えようがかわいげがなかろうがかまわない。力をこめて睨みあげる。
ケイさんの裸体は美しかった。筋肉のみなぎりや肌の張りは若いころより衰えているのかもしれない。それでもやはり力強く美しかった。並はずれた身長の高さと釣り合いのとれて大きい頭部を支えるのに十分な首は太く、肩や胸板は広く大きく、施錠されていた大広間の分厚く重い扉を破ってみせた腕はその膂力に見合ったたくましさだった。がっしりと力強い脚、腰、すみずみまで目をそらさず見た。
ぐ、ぐぐぐぐ。
体内から骨の軋む音が聞こえる。前回の儀式後より速い。
から、からんからん。
頭を軽く振ると、一気に獣化が進んだ。より厚く、存在感が濃くなったように見える。頭部から腰にかけて背面が一気に黒白まだらの針毛に、他の部分は黒い獣毛に覆われた。首もとに三日月形のふさふさと白い毛の帯がある。前頭部から白黒まだらの長い鬣が後ろに向かい弧を描き伸びる。前回よりさらに美しく力強いヤマアラシの人がそこにいた。黒い獣毛に覆われていること、若干前後に伸び長頭気味になっていることを除けば顔はほぼ人のままだ。ただ、目つきが鋭い。鋭い目なのに、迷いに揺れている。敢えて心には触れない。しかし感情の揺れは伝わってくる。
「俺が、怖いか」
ケイさんが声を発した。
「正直なところ」
私が睨みつけたまま答えると、びくり、と肩を震わせた。
「聞き飽きました」
「え?」
「元カノかなんかなんですか? その『怖い』っていったのって」
「え? いや、その……まあ、そんな感じ」
「あーそーですか元カノですか。そんな引きずるくらいいい女だったんなら、ちゃんとつかまえとけばよかったんじゃないですか? まあね、確かに私はまだケイさんと出会ってから間がないですから、元カノ引きずってても仕方ないかもしれませんけど、『怖いか』ってのは聞き飽きましたし、元カノ話は不愉快なんですよ、ふ・ゆ・か・い」
「ふゆかい……」
「で、今のお姿なんですが」
「……」
「前回よりすっごくいいじゃないですか」
「え?」
「出し惜しみはいかんですよ、出し惜しみは。これでマキシマムなんですか? もっとヤマアラシに近くなるんですか?」
「えっと、いや、これ以上は」
「どっちかよく分かんないですね。これでマックスということでいいですよ、このさい。前回は針毛プラスアルファだったじゃないですか。ネイティブ・アメリカンの頭飾りみたいであれもかっこよかったですけど、今回はもっときれい。力強くて、美しいです」
私は一歩前に、肌が彼の獣毛に接する間際まで踏みこんだ。目の前に獣毛に覆われた胸板がある。首もとの三日月形の白い毛のあたりから胸にかけ掌でぱふぱふしてみる。
「このあたりは柔らかいんですね」
たまらず、顔をそこに埋める。
「ふわふわです」
どん引きか。ケイさんがフリーズしているのをいいことに顔埋めたい放題だ。こりゃいいや。やわらかくて気持ちいい。
「ん?」
違和感がある。毛が固まって毛玉があるとか、そういう肌触りの違和感ではない。一度顔を上げる。ケイさんと目が合った。びくり、と肩を震わせて後ずさろうとするので目の前の胸毛を掴んで止める。
「痛! 痛いですそこ掴まれると痛いです詩織さんちょっと」
「やかましい。ちょっと毛が攣れるくらいで大袈裟な。あたしゃさっき腕掴まれて引っ張られたり針毛で引っかかれたりしたんだから、このくらい我慢なさい」
「う……すみません」
再度胸毛に顔を埋めてすんすんと鼻で空気を吸いこむ。
「えっと、詩織さん?」
「ケイさん、人の姿のときとにおいが違いますね」
「えっ? 俺、におう?」
ずざざ、と後ずさろうとするので再度目の前の毛を鷲掴みにした。
「お待ちなさい」
「痛い痛い痛い」
「におい覚えちゃいたいんで、そこにあおむけになって」
「はい?」
さあさあ早く早く、とせきたてる。首をかしげながら素直に従うケイさんはごつい大男のくせにちょっとかわいい。
「今は私の血のにおいと混ざらない状態を知りたいので、じっとしていてくださいね」
仰向けになったケイさんの横に座りこみ、胸毛のあたりから腕、首、耳とにおいを確かめていく。
獣臭。おおまかに分類するとそうなる。
人の姿のときと同じにおいももちろんする。その日向のにおいの要素のうち獣っぽい感じ、さらにその中のかすかに甘く粉っぽいにおいが強まっている。体の部位によって種類や強弱も異なる。この大きい人固有のにおいがどんなものなのかをきっちり覚えた。最後、失礼しておっさんのわりに引き締まった腹の上に乗っかって耳の裏あたり、針毛の根もとをそっとかき分けてにおいを確認していたんだが、どうもケイさんの様子がおかしい。涙目になっている。
「あ、すみません。もしかして、私、重いですか?」
「違う。重くない」
また拗ねちゃったんだろうか。
「もうおしまいなんで、すぐどきますね?」
「それが……その」
腹を上にした屈辱的体勢でマウントポジションを取られたのが悔しくて嫌なんだけど、嫌なはずなのにその状態ですりすりなでなでされるのが心地よかった、とケイさんはうるうるした目を背け語った。
「針毛で怪我すると自分の血のにおいで分かんなくなりそうでつい」
「いいんだ、それはきみが怪我しないほうがいいに決まっている。ただ、新しい世界の扉が開いたみたいでなんだか」
口がへの字で愛嬌がある。耳もと、少しやわらかい毛の生えた首、がっしりしたあご、ごわごわした獣毛に覆われた頬、唇や頬がひりひりするけれどかまわず、ちゅ、ちゅ、と口づけた。
「んー、ごめんなさい、とても力強くてかっこいいヤマアラシ姿なんだけど、それだけにうるうるされるとギャップが激しくて。すっごくいいなあ」
「え?」
「ケイさん、かわいい」
最後、目を合わせて微笑み、そして唇に口づけた。あたたかく、心もとないくらいやわらかい。
「もう一回」
「ん」
一度といわず何度も、何度も、口づけた。
針毛や肩や腕の硬く鋭い獣毛で擦り傷やひっかき傷はできたけれど、私は深く満たされた。満たされはしたけれど、きっとお互いに求めているのはこんなもどかしい状態ではないのだと思う。肉体が強く固く結びつかなくてもかまわない。それだけが愛を伝える手段でないと分かっている。でも口にしない。お互いに。
やがてケイさんが獣化を解いた。もぞもぞとそれぞれに服を着る。大広間の中央、床の上で並んで横たわった。
「ところで、なぜあんなに怒ってたんですか?」
「梅の木のところできみが誰かと話していて、俺にはきみだけなのに、きみしかいないのに、と思った」
「私にとってのあなたも同様なのですが」
「すまなかった」
眩しい。
鎧戸の隙間から差しこむ光が真っ白な大広間の床や天井に乱れ散っている。その光が高いところから差しこんできていて、時刻が昼あたりに差し掛かったと気づいた。
今回は惨劇の跡のような血だまりはない。
ケイさんが背後から私をやわらかく抱きしめる。人に戻っているからもう切れたり擦れたり裂けたりしないのだけれど、なじんだ日向のにおいに包まれても気持ちは複雑だった。ケイさんは姿が変わっても美しい。私はすぐ治るんだから針毛で怪我をしてもかまわない。そう思うけれど、昂ぶれば相手を傷つける姿になってしまうこの大きい人にとって、心の赴くままに愛せないのは辛いことに違いない。相手にかまわずそういうことができない。優しい人だから。私も、思いを遂げることさえできれば死んでもかまわないなどといえない立場にいる。
「すまなかった。ほんとうに」
「いいんです」
「きれいに治って、よかった」
「そうね」
ケイさんは、私の頬、肩や腕、擦り傷やひっかき傷があったあたりを辛そうにそっと撫でた。
交わす言葉は儀式の翌朝と似ていても、あのときとは違う。刺激しちゃいけない。そう思うけれど、縋ってしまう。遠慮がちに、しかし固く私たちは抱き合った。




