第一話 春愁(一)
桜が散ると、がつがつと春がやってきた。風情も減ったくれもない勢いで春って来るのね。いやあ、知らなかった。
春ってのは年度末からそのまま続く年度初めの鼻から魂が抜けそうな狂騒の合間に、公園の桜だとか、隣家のおばさんが丹精した花海棠だとか、山吹だとか小手毬だとかそういう花でちらちら「お、咲いてる」とかなんとか半分義務で確認する、そんなもんだと思っていたけどまだこのほうが風情あったかも。多々良が浜が風情のない街だといいたいのではない。違うよー、ここいいところよー。
そうじゃない。今年の春に余裕がなさすぎるのである。凄まじいスピードでにおいの種類が増え濃度が高くなっていくのがきつい。異能の副作用みたいなものかも。食欲不振に睡眠不足、治癒スピードが追いつかなくなりそうでやばい。もしかしたら今までなかった治癒能力に体が拒絶反応を示している可能性もあるんじゃなかろうか。今更だけど、あり得なくもない。ある日、とうとうトイレで嘔吐いているのをみちるさんに見られた。
「あー、すみません、不快なものを見せてしまってほんとにすみません」
口をゆすいで多少さっぱりしてから謝ると、いかにも感に堪えないといった面持ちでみちるさんはいった。
「おめでとうございます……、おやかたさま」
何ですと? この家では初めての「ウボエエエ」を祝う習慣でもあるの? あんまり、というか全然聞いたこともないけどな、子どもじゃないんだから「ウボエエエ」初めてでもないしと首をかしげていると、その日の夕食に赤飯がつくという。
「お祝い事だから炊けっていわれた。何のお祝いかまではちょっと分からない。なんでだろう俺、すごく怖い顔で睨まれた、みちるさんに」
まだ他のメンバーが集まる前、食堂でワゴンからおかずだの食器だのを出して並べるケイさんがげっそりした様子で語った。それは怖かったろう。かわいそうに。私の脳裏を儀式直後のみちるさんのホラーモードがよぎる。不機嫌メガネなんぞ目じゃないくらい怖かった。
と思ったとたん、外から押し寄せる春のむわっと蒸れた気配と食事の湯気のにおいが混じってくらりと来た。
「どうした」
ケイさんが支えてくれる。縋ると親しげな日向のにおいに包まれた。
「ちょっと、このところ気分悪くて」
「食欲ないみたいだな」
「ごめんなさい。せっかく作ってくださったのに」
「それは気にしなくていい。後で果物を切ろう」
口にできる分だけでいいから、と背中を撫でてくれる。大きい人が優しいのをいいことに甘えたい放題だ。目の前の胸板に顔を埋める。セーター越しに日向のにおいを吸いこむ。ああ、少し楽になった。あ、そうだ。このにおいがたくさんするところだったら眠れるんじゃないだろうか。何も考えずにお願いしてしまった。
「夜、お部屋行ってもいい?」
「え?」
背中を撫でる手が止まった。ケイさんがフリーズしている。ん? 何かまずいこといったかな。あ。あー、そういう……あー。お肉のぶつかり的アフェアを持ちかけたことになってるのか。どうしようかな。そういう意味じゃなかったんだが。違うっていっていいものなんだろうか。体調がよければ別に問題ないかも、という私自身の自制心が脆いところも大いに問題だったりするな。タイミングの悪さにかろうじて救われてる、みたいな。固まったままのケイさんの手の爪がにゅにゅにゅ、と伸び始めているのを背中に感じる。食いこんでるよ、爪が。
これも問題なのだ。
本人がいわないのをわざわざこちらから確認しないのではっきりしないが、ケイさんはおそらく性的に興奮すると獣化する。そして、だんだんその沸点が下がってきている。つまり、簡単に獣化してしまうと。
シーンを選べないほど箍が外れるようでは困るが、そうでないなら私は構わない。痛いのは嫌だが、だからといってケイさんのヤマアラシ姿(一度しか見てないけど)が嫌なわけではない。むしろ好ましい。針毛に刺されるのさえなければこちらは問題ない。ばんばん獣化してほしいくらい好きだ。
臆測に過ぎないことを断定調で語るのは問題があるが、今回はいいってことにしよう。この件に関する問題点がふたつある。
ひとつめは、ケイさん本人が性的興奮時の獣化を嫌がっていること。
ふたつめは、相手が私でない場合は怪我をさせること。下手をすると相手が生命の危機に瀕する。
だから、何か手立てを考えなければならない。いつかくる、彼が解放される日までに。考えこむ私を見て感じるところがあったか、ケイさんはぶるり、と振り払うようにして進みかけた獣化を解いた。
「眠れないのか」
私の頬に手をあてて視線を向けるよう促す。鼻は彼のセーターに埋めたまま、視線だけ高いところにあるケイさんの目と合わせた。
実は先日来、寝室への侵入もやめてもらっている。当然のことだと思うんだがケイさんはものすごく不満そうだった。仕方ない。不本意だが、搦め手を攻めることにした。
「では、カメラを破壊します」
「え?」
「私の精神干渉波を衝撃波として使えないかどうか、無機物にぶつけて試してみたかったのでちょうどよいです」
「え? いや、それだったらコップに水入れて試したほうがきっと分かりやす」
「お部屋にあるんですよね、カメラ。例の首写真入りのメモリーカードやパソコン、ハードディスクと一緒に」
「実験には俺がいくらでも付き合うんで、カメラや機材はちょっと」
「たぶん部屋の外からでも近くであれば十分にいけると思うんです。根拠はないんですが、自信あります。壊せるって。効果の範囲も分かって一石二鳥ですね?」
「いや、詩織さん、『ですね?』ってかわいくいわれると俺困る」
「人生って気合いで何とかなること、案外ありますよね。少し離れ過ぎているようにも思いますが、気合いでここからカメラを破壊してみるのも一興です。今なら私、できる気がします」
「分かった、分かりました、もう勝手に入りません」
脅して言質を取った。性格がよろしくないことについては子どものころから自覚がある。
「だから夜ちゃんと様子を見に行かないと駄目なんだ」
「それとこれは話が違うでしょう。それで、夜お部屋に行っていい?」
「眠れるかどうか試したいんだな。いいよ、おいで」
「あり……あ」
思わず顔を上げて「ありがとう」といいそうになって口をつぐむ。
「いいから。分かってる」
大きなあたたかい手が頬を撫でる。微笑み返そうとしてできなかった。
窓の隙間から入りこむ、土のにおい。山から風に乗って降りてくる木々のにおい。花のにおい。潮のにおい。ケイさんが作る晩ご飯のにおい。お赤飯の小豆のにおい。米の炊けるにおい。殺到するにおいとそれが負うイメージの数々で世界が歪む。
おえっぷううう。ちょ、ちょっと、トイレ行かせて。もうえずいても何も出てこないくらいしぼりだしちゃってるんだけど、ここ食堂。できたてご飯を前に嘔吐くのはまずい。それにケイさんの胸もとに嘔吐いちゃうのも駄目だ。トイレ、トイレに行かせてえええ。
――久々にきた……。
私は意識を手放した。
あたたかくてやわらかくて気持ちいい。においそのものが好きなんだけれど、なんていえばいんだろう。たぶんあたたかくてやわらかくて気持ちいいから、そういう好ましいにおいだと感じるんだと思う。
枕から、毛布から、布団からケイさんのにおいがする。重いまぶたをなんとか開けると、そこは薄暗い部屋だった。壁に据え付けられた本棚にぎっしりと本が詰まっている。サイドチェストには洗面器とタオル。ドアが開いている。居間から灯り、それから人の囁き合う声が漏れてくる。ケイさんと、お久さんだ。
「……すみません」
「いいんじゃいいんじゃ、仕方なかろうて。そもそもわしらが話をろくに聞きもせず早とちりしたのじゃ」
「すみません。みちるさんは」
「拗ねとる。気にするな。ひとり先走ったのをちょっぴり恥ずかしがっておるだけじゃ。かわゆいの」
「すみません」
「……我ら力を持つ者は子ができにくい。我らの数は減るばかりじゃからの、それだけに今回はもしかしたら、と期待したんじゃろうて。前のおやかたさまの子、今のおやかたさまのお父上もそうじゃったが、力を持つ者同士で子ができてもその子に力が発現するとは限らぬ。それでもみちるちゃんは楽しみにしとった。おぬしとおやかたさまの間に子ができるのを」
「……すみません。そもそもそんな関係じゃないんです」
「傍からはそう見えんがの」
「……俺は、その、危ないので」
「そうか。詳しくは訊かぬよ。それが我々の礼儀じゃからの。今回はおやかたさまが力に酔われた、そういうことじゃな」
「はい。慣れるまでしばらく安静を保つのがよいかと」
「うむ、承知した。 みちるちゃんと真知子さんにはわしから伝えておこう。おやかたさまを、……詩織ちゃんを頼むぞ」
「はい」
居間のドアを開けて出ていく。多分お久さんで間違いない。ふとんの中で薄まってきた、好ましい日向のにおいが居間にあるのが分かる。
それにしても、お赤飯ってそれ方面だったのか。昔のドラマならともかく、女性が嘔吐いているから即妊娠つわり、と今どきはならないと思っていたのだが、そうでもないらしい。白梅の変態的能力で勝手に体外受精などされない限りあり得ない。薄皮どころか、よりたちの悪いことに蜘蛛の巣張るんじゃないかレベルで使用してないからなあ。前って、何歳のときだっけ。
なんだか悪いことをした気になってしまう。
どうも私の貞操方面で白梅荘の住人はゆるいと思っていたが、子どもを産んでほしくて仕方ないらしい。事情はよく分からないけれど、法的な婚姻という手続きを飛ばしてもかまわないくらい切実に待ち望んでいるのか。
困ったな。
思わずついてしまったため息を聞き取ったらしいケイさんが寝室へやってきた。
「目が覚めたか。少しでも眠れたようでなによりだ」
「ケイさん、ごめんなさい」
「なぜ謝る」
「だって、ケイさん悪くないのに」
ケイさんはベッドの傍らに跪き、苦笑しながら私の頬を撫でた。ああ、いいにおい。大きくあたたかい掌にこちらから頬を寄せる。
「きみだって悪くない」
「でもさっきの話」
「事実だから」
何か口にできるようなら、と世話を焼かれた後また同じ場所で眠った。
どうも一緒に寝ると駄々をこねたらしい。目覚めると背後から大きな人に抱きこまれていた。「試されている」とかなんとかいわれたし、ケイさんに申し訳ないので自室に戻ることを提案したのだが、却下された。一週間ほどそうしてうつらうつら寝て過ごしてようやく、体調が戻った。




