第二十一話 春
数日後の三月下旬、桜が咲き始めた。
浜のすぐ近くにある中学校の校庭など、立派な枝ぶりの桜があって、なかなかに見ごたえがある。だから、花を愛でながら、ということで浜へ向かうルートは中学校経由が近頃の定番だ。
その桜の下を、理沙嬢と歩いている。
理沙嬢とは会えなくなるのかと思いこんでいた。乙女たちもはっきり口にしなくてもそう思っていたようで、屋敷全体がどんより沈んだ雰囲気だった。そんな中、理沙嬢がひょっこり現れた。
「制服、作り直しちゃった」
入学後すぐ行かなくなった高校に復学することにしたのだそうな。一年でちょっぴり大きくなったとかで、作り直した制服を見せにやってきたのだという。孫の制服姿を目にした真知子さんの喜びようは相当にほほえましかった。
「まあ、かわいらしいこと!」
「ほんと?」
などとはしゃぐ声が階上の居室から漏れてくる。厨房出口、階段近くの柱にもたれその方向を見上げた。
「どうしました」
後ろから日向のにおいが近づいてくる。
「なんだか楽しそうです」
「そうですね」
なんだかんだで初めて会ったときの関係に戻ったような、そうでないような、ケイさんとはちょっと不思議な感じになっている。二人でいるのは当たり前になっているのだけれど、それでどきどきするのは何となくはばかられる。ほぼ零距離レベルの接近具合だけれどうっすらと、しかし越えられない壁がある、そんな感じだ。お互いに無言でしばらく階上のにぎわいに耳を傾けた。
「詩織さん、さびしいですか」
「それはもう、もちろん」
私は苦笑した。
「失ってみて初めて知りましたが、乙女が欠けるというのは苦しいものなのですね。おそらくは白梅がそうさせているのでしょうが、欠けたところを埋めたくなる、そんな渇きを感じます」
本当は渇きどころではない。
喪失は、ひりひりと焼けるような痛みを私の心にもたらす。早く次の乙女を探さなければ、ふと油断すればそんな気持ちが生じるほどの焦りを覚える。それでも理沙嬢は知らないまま契約を解除できて本当によかった。
「もうあの二人は対の乙女ではないのですね」
「そうです。でも、家族だ。あのとききみが儀式をやり遂げてくれてほんとうによかった」
背後の大きい人が私をあたたかく包む。
なんだかんだで「春休み中だし」と理沙嬢は結構な頻度でやってくる。乙女契約は解除したが、白梅荘の賃貸契約はそのままだ。部屋もまた以前のままである。時に夕飯を共にし、泊っていくことすらある。こんなに入り浸って大丈夫なのか、と内心はらはらするんであるが、
「学校も自宅よりこちらのほうが近いようで、こういうことがもっと増えそうなんですけれど、しばらくこのままでよろしいかしら」
などと真知子さんがいいにくそうにするのでつい
「いっこうにかまいません」
といい切ってしまった。
あんなにドラマチックに家族のもとに帰ってもまあ、急に元どおりというわけにもいかないんだろうなあ。あのパワフルな母親を思い出した。変化に対応するのが苦手な感じだったし。白梅荘も理沙嬢が来てくれたほうが明るく過ごせてよい。大歓迎だ。それでも以前は
「お帰り」「ただいま」
だったのがごく自然に
「よくきましたね、いらっしゃい」「お邪魔するよー」
に変化した。
変化はそれだけでなかった。
晴れていてもどこか抜けた感じのしない、うっすらと膜の張ったような春独特の空の下、今、中学校の校庭で立派な枝を広げる桜から、風に載ってたくさんの花びらが風に吹かれ舞っている。
春の最も美しいひととき。眼前で展開されているのにあっという間にこぼれ落ち遠く過去になっていく風景。白く淡く夥しい花びらがかたどる風の中で釣り竿を担ぎ少年のような格好をした少女が振り向き、笑う。
大人になる直前のあどけなさと危うさ、成長途中の者の放つ微かな生っぽさが同居する、この年ごろ独特のアンバランスな魅力が美しさとしてこの少女に発露している。
もう乙女だったころの、見る者の魂を惹きつけてやまない妖しく艶やかな美しさはなくなっている。理沙嬢の乙女としての能力は魅惑だった。乙女であった間、未熟だからこそ無自覚に発揮されるその能力に、どれだけの人間が焦がれつづけてきただろう。心の奥底まで灼くような妖しく激しい彼女の輝きに惹きつけられた、私もそのひとりだ。無自覚なだけに理沙嬢が自分自身の魅惑の異能にどれだけ困惑し混乱したであろうか、そう考えるとつらい。
――ああ、でももったいない。
このことは、私の視界から色彩を奪うほどの切実な渇きをもたらすけれど、同時に安堵もする。
――あのとききみが儀式をやり遂げてくれてほんとうによかった。
本当は私がやり遂げたんじゃなくただ導かれただけだけれど。でもよかった、それは本当だ。
バイパスの橋脚をくぐり、浜へ出た。ざくざくと砂を踏み、並んで歩く。こんなところにまで風に乗ってどこからか桜の花びらが飛んできている。まずめ時を外れた浜は空いていた。
仕掛けの準備を終え、竿を軽く構える。目の前の広々としてゆるゆるとうねる海を前にしばし静止する。鳥山の有無。潮目。潮の色。風向き。風の強さ。戦略と戦術とが事の成否を分ける。キャップの深いつばで半ば隠れる理沙嬢の視線は鋭い。やがて傍で見ている者には分からないところで条件が整い、時が満ちる。その小さな体のどこから、というくらいの勢いとパワーで長い竿を振り、仕掛けとおもりを遠くまで飛ばす。
一色二色、三色、……四色。
はるか彼方、目でとらえられないくらい向こうでおもりが着水、沈むのを投擲後の体勢のまましばし待つ。表情は先ほどより若干緩むが、おもり着水ポイントから目を離さず、緊張を解かない。
呼吸二つ、三つほど、ほんの少しの間。この緊張感の弾けそうに膨らむ静止がたまらなくいい。やはり、そう思う。
投げたままさびかずに白くきらめく長い竿を刺股のような形のホルダーにもたせかけ、理沙嬢が私の隣にやってきて腰かけた。どうやら今回はそのまま置き竿にするらしい。
「釣れないねー」
「釣れませんねえ」
いっていることはネガティブだが、口調はのんびり。並んで春の案外強い日差しを浴びている。とろんとぼやけた青空だからつい油断してしまうが日焼けとか皺とか、今はもういいや。お肌の曲がり角を突き進んだ先の隘路で開き直ることにした。こうして年が離れていても仲よくしてくれるボクっ娘と気持ちよくのんびりしてられるんだったら、今はそれでいいや。
「しおちゃん、あのさー」
「なんでしょーかー」
ふがあああ、と後ろに手をつきあくびしながら話す。
「ボク、これからも白梅荘に遊びに来てもいいかな」
「ああ、かまいませんよ」
「そうなの?」
「だってわりとまめに来てるじゃないですか、今も」
「いや……迷惑かなって」
「全然これっぽっちも毛ほどもてんで、一切迷惑じゃないです」
力いっぱいいい切った。半分寝ころんでいるような体勢なので今ひとつパンチが足りないわけだが。
「しおちゃん、ボクね、がんばってみる」
「そう」
「いやなことあるかも、だけど。でも一度は逃げないで踏ん張る、っていうのを試す」
「そう」
いっていることは力が入っているが、口調に力みはなく、表情も晴れ晴れとしている。
よいしょ、と体を起こし、抱えた膝に顎を載せた理沙嬢の頭を撫でる。いい子、いい子。ほんとうに、何もなかったみたいにあの契約錠の空隙も傷も塞がっている。安心した。
「理沙嬢はかわいくなりましたね」
「そう? 最近よくいわれるんだ。お父さんの会社の人とかからも」
「変な人がいたら、私がぶっ飛ばしに行きますから、いってくださいね」
「だいじょぶだいじょぶ。最近ないない。それに、お父さんの会社の人のいってることってなんだかヨイショ臭い」
「ヨイショ臭い?」
「お世辞っぽいってこと」
「なるほど」
いい子、いい子。
嬉しそうに目を細める様が猫の仔のようだ。
「理沙嬢はかわいい。前からかわいかったけれど、今はもっとかわいくなった」
「しおちゃんがいうとなんだか、ほんとうみたいに聞こえる」
「だって、ほんとうだもの」
ふふふ、と笑いあったそのときかしゃ、とシャッター音がした。
――しまった。
目の前の少女を励ますのに夢中になり過ぎたか。気を抜いたと後悔しそうになったが、警戒する相手ではなかった。大きい人がカメラを構えて立っていた。
「いいですね、とてもかわいいです」
などとにこにこしながらシャッターを切っている。
「ボクは?」
「かわいく撮れたよ、ほら」
わ、重! と驚きながら黒いカメラを受け取った理沙嬢が「わあ、いいかもー」と嬉しそうにしているのでどれどれ、と私も見せてもらった。
砂浜や波がぼやけ、白く明るい画面の中央に大きく理沙嬢と私が写っている。二人とも上着が白いのでことさらに肌が明るく映える。薔薇色に染まる頬。淡く輝きふわふわと頬を縁取る髪。眩しそうに面映ゆげに私を見上げ微笑む理沙嬢はほんとうに愛らしい。この子は本当にかわいい。私は傍らで理沙嬢の額に手をやって撫でる直前のストップモーションなのだが、「かわいいなあ」と思っているのが丸分かりのでれでれと緩みきった顔をしている。
こうしてさっきの「ふふふ」の瞬間を切り取られ目の前にすると改めて思う。私が乙女を失った渇きを抱えようが、それが何だというのだ。これでよかった、理沙嬢の乙女契約を解除できてほんとうによかったんだ、と。
「いい写真ですね」
と隣に腰を下ろしたケイさんにいうとその人はへらり、と照れた。
「写真撮影が趣味とは知りませんでした」
「ゆっくり撮影する機会がありませんでしたから。白梅荘は庭がよいので撮影するのが楽しいです。それに多々良が浜は野鳥の種類が案外多いんです。鳥を見に出かけることもあります」
「それは楽しそうですね」
「今度、いかがですか」
おおお、この鳥きれいだ、すっごーいと興奮していた理沙嬢が
「ボクも! ボクも行きたい」
「理沙嬢も一緒だとますます楽しそうです」
「そうしましょうか」
反対側の隣で理沙嬢がカメラのメモリーを見るのに夢中になっているのをいいことに大きい人の手をこっそり、きゅ、と握った。あたたかく大きな手がきゅ、と握り返してくれる。顔は海に向けたまま、視線を交わさないまま微笑みあう。
「おおお、えっちい」
慌てて手を離した。何? 高校生的には大人が手握ってるのもダメだったりするの? どうも違う。理沙嬢の指す「えっちい」はカメラの中にあるらしい。「おおお!」とふんがふんが鼻息荒くカメラにかじりついている。
――なんだ。何が写っているんだ。鳥の交尾写真か。まさかエロ写真か。
ぎりりっ、と力いっぱい「子どもに何見せてやがるか」という念を載せケイさんを睨みつけた。
「いや、俺、きれいだと思って、その」
「あー、確かにきれいだねー。けーちゃんが撮りたくなるのも分かるかなー」
ほら、と隣の理沙嬢が差しだしたカメラのモニターには私の首がびよーんとアップで映っていた。こんなのいつ撮ったんだ。
「そうだろう、きれいだろう」
「うん、まあ、ほんとにきれいなんだけどさ」
理沙嬢からむしりとったでかくてごついいかにも高性能な感じのカメラの矢印キーをぎゅぎゅぎゅ、と押してメモリーを確認する。首だ。明るさ角度光の色合いさまざまであるが首だ。びよーんとしていたり、だらーんとしていたり、がっくりしていたり、要するに首だ。首ばっかり。モニターには日付時刻も表示されている。ここんとこほとんど毎朝じゃねーか。何してやがるんだこの変態うなじフェチめ。
「けーちゃん、まずくない? しおちゃんもしかしてこれ撮られてるって知らないの?」
「当たり前だ。詩織さんが知らないからこそ自然なショットが狙える」
「うっわ、駄目だ。ボク知らない」
私は、カメラを掴んだままがばーっ、と立ちあがった。
「あれ、詩織さん?」
「盗撮は犯罪です。ケイさん、あなたにはがっかりしました。こんなもの、捨ててやる!」
「あ、いや、その、待って」
だだだだ、と海に向かって突進した私は左手で掴んだごつい塊を力いっぱい波打ち際に叩きつけた。どーん、と期待した以上の水柱が上がる。そして叫んだ。
「ケイさんのばかー!」
波打ち際にしゃがみこむ。ケイさんが
「あああああ!」
と叫んで海に駆けこんだ。あれ、どこ? とおろおろするケイさんにんべ、と舌を出してやった。
「なーんてねー、お約束でしょう」
右手で抱きこみ胸もとに隠しておいたカメラを取り出す。投げたのは石だよ、石。庶民の私がこんな高そうなもの、わざと壊せるわけがない。恐ろしい。そしてファインダーを覗き適当にかしゃ、とシャッターを切った。
ちょっとぶれてるけど、海の水が飛び散りまだらに濡れた青いセーターをつまみ困った顔で半笑いする大きい人が写っている。白髪交じりの伸びた髪がもっさりと額や首にかかり、肩も背も内向きに丸めたケイさんの姿はきびきびした印象とは程遠い。浅黒い肌に彫りの深い顔立ちからくる男臭い厳しさを柔和な目と深い笑い皺が打ち消している。ただの写真のはずなのにあたたかな日向のにおいが立ちのぼる、そんな気がする。
――悪くないんじゃない? 初めてにしては。
にやにやしているとケイさんが海から上がってきた。ハンカチを差し出す。
「こら」
「うふふ。いい感じに撮れました」
「困った人だなあ」
少し離れたところで理沙嬢が腹を抱えて笑っている。
「あはははははは! 大人なのに変! ……およ? あ、引いてる引いてる! かかってる、のってる!」
びくびくと震える竿が理沙嬢の肘を叩く。
「大きいよー! よし、よーし、バレるなよー! ……来た、連で来たよー!」
「すごい、すごーい! ケイさん、見てください、すごーい!」
海から上がってきたのは真珠色の輝きを放つぷりぷりと肥えた白鱚三尾だ。大きな人が持つと小さく見えるカメラのシャッター音と、歓声が砂浜に響いた。




