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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第一章  白鱚と乙女

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第二十話  家族の晩餐

 さすがの血液大好き白梅も、装束に染みこんだものまで吸い取れないらしい。袴の血が()せて変色している。上半身もひどいものだ。血染めになっているだけではない。儀式前にきつく固く巻いておいたさらしが無事なのではだけてはいないが、小袖は針に貫かれて穴がたくさん開いている。隣を歩くケイさんに至っては、上半身が露わだ。ヤマアラシ化により頭から背中にかけて針毛に覆われたため小袖がぼろぼろに破れたのである。


――お、おっさんのくせに……!


 ケイさん、腹筋が割れている。普段のほほんとしたりしょぼしょぼ肩を丸めていたりするから筋肉質だという印象はなかった。意外だ。


――そういえば。


 梅の木の前にケイさんがシャツびらびら開けたまま現れたときにもちらっと見ちゃったんだった。


「どうした?」


 ケイさんが足を止めた。怪訝(けげん)そうな目が私の視線の向かう先をたどる。慌てて目をそらしたが遅かった。腹筋ガン見がばれた。


「えっ?」

「あ……」


 私は赤面した。ふ、ふっきん。

 ふと、こちらをうかがう気配が意識の端をさすった。まだ遠いが、気配が白梅荘の住人ではない。はっとした私をケイさんは長い腕で抱えこんだ。厳しい視線を背後の廊下へ向けている。


「足音が近づいてくる。何かある場合はこのまま獣化します」

「そのときはお願いします、でもこの人……」


 廊下の角から顔を出したのは


「おやおや。こんなところで後朝(きぬぎぬ)ですか」


 理沙嬢の父、勢田(せた)氏だった。


「理沙嬢のおかげんは……?」


 上半身裸の巨漢に抱きかかえられるという問題の多い体勢であるが、格好もひどいままだし、もういいってことにする。

 だって乾いた血染めのまだら模様さらし巻きベアトップに、針でずぶずぶ刺されてワイルドにレーシーな同色グラデーション小袖を引っかけてる状態だもん。ファッションがアグレッシブすぎて人前に出られん。いつ何時針毛がにょっきり生えるか分からないけど、おっさんのわりに引き締まった背中丸出しのほうがなんぼかマシだ。美しいし。

 好奇心を隠さず両腕で抱える発泡スチロール箱の影から私たちをうかがう勢田氏が、私のことばを聞いてすぐに娘を思う父親の顔へと表情を改めた。


「白梅様、昨夜はほんとうにありがとうございました。理沙が夜のうちに意識を取り戻しまして」


 嬉しそうに語る。


「よかった……」


 儀式終了直後に蘇生したと聞き、それで危機を脱したはずだと確信したものの、実際の様子を聞くまで安心できなかったのも事実だ。足から力が抜けるのを、ケイさんが支えてくれた。


 ケイさんと交代で急いで風呂を使い、アグレッシブでない服に着替えて戻った。

 今、私は厨房で氷のつまった発泡スチロール箱の中を覗きこんでいる。――(はまぐり)笠子(かさご)目張(めばる)、そして白鱚(しろぎす)


「これは見事な」


 いったん妻(パワフルなあの美女だ)と息子(別の意味でパワフルな油性ペン小僧だ)を送りがてら帰宅した勢田氏だがとんぼ返りして白梅荘へ戻る際、港に立ち寄って買い求めたのだという。


「お好きだとうかがいまして」

「お嬢さんから?」

「はい」


 今は部屋で眠っているという理沙嬢が語る姿を思い浮かべると口もとがゆるんでしまう。生き生きと砂浜で投げ竿を振る少年のような姿。初めて会ったときの(はな)を垂らしていた顔。風呂にいっしょに入り、並んで歯を磨き、祖母の酒瓶の隠し場所に悩み、私のつくったおひたしを「味つけがてんで駄目」と全否定し、ソファで並んで本を読み……そして私の頬に両手をあてて青ざめた顔で微笑んだかつての私の乙女。ご家族のもとに帰れて、生きていてくれて


「ほんとうによかった……」


 感極まってしまった。

 ケイさんの胸もとにすがって泣く私が落ち着くのを、勢田氏は辛抱強く待っていた。ケイさんが子どもの面倒を見るように私の顔を手ぬぐいで拭き取る様子を微笑ましげに眺めているように見せて、彼の視線には若干の引っかかりが感じられる。それが非難なのか、嫌悪なのか今ひとつはっきりしないが、相手が露わにしないものを勘ぐっていても仕方ない。いずれマルカワカンパニーのトップの座を真知子さんから譲り受けると目されているだけある。勢田氏の精神には簡単に干渉できそうもない。見苦しい真似をしているのはこちらなのだし、理沙嬢の慕う父だから干渉する気もないけれど。

 顔を拭いてもらい離れようとしたのだが、ケイさんは首を振った。私を両腕に軽く閉じこめ、勢田氏に半ば背中を向けている。警戒しているらしい。仕方なくそのまま話すことにした。


「失礼しました」

「いいえ、とんでもない」


 勢田氏は微笑んだ。日本人離れした美貌に昨日から蓄積した疲れがにじむ。


「地元で生まれ育ったわたしどもは白梅の館の不思議話をよく耳にしますが、それでもときにこのお屋敷には驚かされますな」


 どういうことだろう。


「妻と息子を送り届けてこちらへひとり戻った際、なかなか母屋へ入れず往生しました」

「それは失礼しました。他のみなさんもまだお休みですものね」

「いいえ、とんでもないことです。少々不用心かと存じましたが、そもそもあらかじめ鍵を開けたまま出かけたのです」


 それはいやだが仕方ない。儀式後の対応がちゃんとできていなかったのはこちらの手落ちだ。


「先ほどこちらへ戻ったのですが、なぜか裏だけでなく母屋の出入り口すべてが開かないのです。どなたか鍵をかけられたのかと思いました。ただこうして生ものを携えておりましたので少々困りましてな、つい繰り言が口から出てしまいまして。せっかく白梅様に召し上がっていただこうと思ったのに、と。すると不思議なことに目の前の戸がかたり、と開きましたもので――それでああして腰が引けたままお邪魔したのです」


 へ、変態梅め。昨夜思う存分血液をちゅうちゅう吸ってはっちゃけたのか。母屋のセキュリティに使えるとは知らなかった。


「ふ、不思議ですね」


 ぴしり、といったん固まってしまっては「古い建物ですから、建て付けがよろしくないんですのよおほほほほ」と返すわけにもいかない。こういうのは立て板に水を流すごとくすらすらとやっつけるのがセオリーだ。

 勢田氏はそういえば、と続けた。さりげなく話題を変えたが世間話の(てい)で本題はこちらのようだ。


「実はいったん帰宅した際に東京から電話が入りました。通話の相手は例の議員先生だったのですが――ああ、いえいえ、例の件に関する苦情ではないのです。昨日は妻があのように取り乱しておりましたが白梅様が取りなしてくださって以降、あの手のお申し出もなくなりすっかり落ち着いているのです」


 勢田氏は苦笑で感情を漏らした。しかしすぐに読めない表情に戻った。


「世間話や、たとえ緊急の商談であっても非常識な時刻でしたので不思議だったのですが、どうも議員先生はこちらの様子が気になられたようでした」

「どういうことでしょう」


 できるだけ緊張を悟られないよう小首をかしげ、のんびりと応じる。


「それが……『白梅の当主は従者の大きい男とそのまま儀式の間にこもったと聞いたがほんとうか』と」


 こちらの目を見て、勢田氏は静かにいった。私の背中にまわるケイさんの腕がこわばる。


「何も……」


 なかった、とケイさんがいおうとするのを勢田氏から目を離さないまま、私は制した。


 三秒。考える時間を三秒寄こせ。

 世間話の態を装い、勢田氏はたくさんの情報をくれた。考えろ、私。

 おかしい。

 望ましくないが儀式の存在、日程などが勢田家関係者から漏れた可能性はある。しかし昨夜遅い時刻の儀式から数時間。未明のごく早い時刻に儀式後の様子が外部の人間に伝わっている。どういうことだろう。勢田氏は「東京から」といった。例の議員が東京の自宅から連絡を寄こしたということだろうか。

 落ち着け。考えろ。枝葉末節にとらわれず戦略を構築する情報だけを拾え。


 一秒。

 昨夜から現在にかけて、白梅荘は住人でない者を母屋に入れない自律的セキュリティロック状態にあった。仮にくだんの議員が多々良が浜に滞在していたとしても、白梅荘の母屋へ侵入できたとは思えない。同様に人を寄こして外から様子をうかがうことが可能だとしても詳細を知り得たとは思えない。白梅荘の内部から情報が漏れている。


――誰だ、誰なのか。


 さまざまな可能性や疑念が脳裏で渦を巻く。身体が震える。背中にまわった長い腕があたたかい。でも。


――うろたえるな。落ち着け。悪い結果を念頭に置いて動け。細かいところまで考えている暇はない。


 二秒。

 現状、選択肢、分岐の広がる樹形図。

 導かれる結果によって情報が分類され未来から現在へ、時間をさかのぼり組み立てられる戦略。結果の見えない選択肢がある。情報の伝播、行動選択により結果が異なる分岐もある。

 最善はどれだ。私の求める最善の結果は何だ。あるいは次善の結果は何なのか。再度組み立て直される樹形図。保留。詮索。逆上。あるいは破壊。


――どれだ。


 今、選べる行動はひとつ。


 三秒。

 時間切れだ。これ以上引き延ばせない。引き延ばしたとて同じことだ。今は次善の結果しか求められない。それでかまわない。意志が固まり、心が落ち着いた。


「まあ、恥ずかしい」


 勢田氏から視線を外し両手を頬にあてる。うつむいた姿勢のまま額をケイさんの胸もとにすりつけ、甘えながら恥ずかしがる仕草を見せる。背中にまわるケイさんの腕から困惑が伝わってくる。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。単なる時間稼ぎに過ぎなくとも、私はあがく。そう決めた。

 さあ、勢田の当主、よく私の姿を見ろ。そして伝えろ。やつなのか。やつら、なのか。


「困ったことです」


 私は頬を染め微笑んで見せた。その後しばらく世間話などをして、勢田氏は厨房から去った。

 しばらく動けなかった。また大きい人の腕の中に閉じこめられている。しかし顔を見られない。


「みんなも、俺も疑われているんだな。きみから」


 ケイさんは震える私の背中をゆっくりと撫でた。だいじょうぶ、だいじょうぶ。


「それが必要なことなら、俺はかまわない。……ただ他のみんなにはそれを悟らせないでほしい」


 がくがくとうなずく。それしかできなかった。嗚咽を呑みこむ。大きくあたたかい掌が首から下へ優しく背骨をたどる。だいじょうぶ、だいじょうぶ。

 窓がかたかたと鳴る。風が吹きはじめる。朝凪が終わった。



 いくら白梅の館の主スペシャルオプションで治癒能力が上がっていても限度というものがある。儀式そのものじゃなくておまけで大量出血して三途の川を渡りかけるというのもどうかと思うよ、というのはぐうぐう眠り続けてようやく目覚めた夕方の感想だ。一日無駄にした。

 だるい。

 寝起きに疲れがとれてないと苦笑するのも会社員時代以来久々の感覚だ。「あー、そういえばこんな感じだったかも……」と思うがあまりなつかしくない。あくびをしながらカーテンを開けかけて凍った。


――窓に……手形が。


 あのときの大きな掌紋と似ている。またあいつか。獣のような()えた気配を思い出す。いったい何のアピールなんだか。

 不安が募る。気配のぬらぬらとした帯。点滅するように現れる音。遠く、近く、からかうように位置を変えるにおい。ばらばらに動くわけの分からないあれの悪意がケイさんに向かったら。


――ネズミも何を考えているんだか。

――ネズミが来やがった。


 もしそんなことをしたら――。私はおまえを決して(ゆる)しはしない。こうして(くら)い視線を窓に向ける私を見ろ。震え、怯える私を見ろ。そしてその様を思う存分(たの)しむがいい。



 夜、食堂に向かうと理沙嬢を除く住人全員がそろっていた。私の入室と同時に皆がいっせいに立ち上がる。


「おやかたさま」


 なんでいきなりそんな大袈裟(おおげさ)なの?


「おやかたさまが館に、白梅に選ばれたお方だからでございます。失われた儀式を復活されたこともそうですが儀式の折、手にあれほどの怪我を負われたにもかかわらず痕も残さずきれいに治されました。ここ数代で最も強い治癒の力をお持ちです」


 そういってみちるさんが微笑んだ。笑顔だけれどかしずく者の目だ。距離を置かれたようでさびしい。

 それにしてもまた治癒の力か。勢田氏もそんなことをいっていた。てっきり変態梅にみょうきちりんになつかれている代償としてプレゼントされてるんだとばかり思っていたんだが違うのだろうか。

 こちらに知識がないということもまた情報だ。

 不用意なことばで情報をみだりに漏らすわけにもいかず、疑っていることを知られるわけにもいかない。いくら根性の悪い私だってほんとうは乙女たちを疑いたくない。隣に立つ大きい人がはらはらしている気配が伝わってくる。


「ええっと、しばらく対外的に伏せておきたいので、今までどおりというわけにいきません? ――先代の千草さんが白梅様と呼ばれる当主であったにもかかわらず『おやかたさま』と呼ばれなかった、と勢田さんからうかがいました。しかし私が『おやかたさま』である、と彼は判断したようです。真知子さん」

「はい」

「念のため、勢田さんに口止めを。彼はみだりにいいふらしたりする方でないと思われますが」

「はい。仰せのとおりに」


 私は苦笑した。


「いやだなあ。だから以前のままに、とお願いしたんですよ。対外的には法的な相続のみを表明している現状で十分ですし。しばらくそれで様子を見つつ白梅の当主としてお勉強する、それでいかがでしょう」

「しかし、おやかたさま」

「駄目ですか? 今までどおりに『詩織ちゃん』って呼んでいただくのって」


 こてん、と小首をかしげて見せた。隣の人の爪がにゅにゅにゅ、と伸び始める。まわりに悟られないようケイさんの足を蹴った。(たぎ)るなうなじ見るな。変態め。


「むはー」


 お久さんが今まで息を詰めていたかのように身体の力を抜いた。


「わし、そのほうがよい。おやかたさまより詩織ちゃんがいい」

「ちょっと、おやかたさまに対して失礼でしょ、お久」

「よろしいんじゃありませんの? わたくしも賛成ですわ。新しい白梅の主には新しいことの進め方がございましょう」

「真知子さんまで」


 ケイさんが私の定位置の椅子を引く。爪は元どおりだった。正気づいて何よりだ。


「食べながら話しませんか。さ、どうぞ、詩織さん」


 夕飯はアクアパッツァだった。

 ケイさんがホットプレートの蓋を取ると湯気が立ちのぼった。オリーブとローズマリーが香る。その香りがトマト、蛤や白身魚をひとつにまとめ、旨味を強調している。


「洋風な仕立てもよろしいですわね」


 日本酒党の真知子さんが嬉しそうに舌鼓を打つ。さすがに疲れが抜けないのか、今日は呑んでいない。

 時代小説ファンで立ち居振る舞いが老剣客風のお久さんは見た目と違いビール党でジャンクフードや揚げ物好きというメタボリックシンドローム直行便そのものの食嗜好だが、こちらも今日は呑んでない。しきりにバケットのスライスをアクアパッツァのスープにひたしては口に運んでいる。


「これはよい。パンが止まらん」

「お久、私のパン返しなさいよ」


 みちるさんは笠子の骨を抜いている間にバケットを取られたとむくれている。


「どうぞ」


 私が手もとのバケットのかごを差し出すと


「そんな、おやか……詩織ちゃん、気を遣わなくていいのよ。これが食べ過ぎなんです」

「みちるちゃん、これ呼ばわりひどい。詩織ちゃんのパンはわしがいただく」


 仲良くじゃれはじめた。

 初老の乙女ふたりがこうしていい合う姿はかしましいかと思いきやそうでもない。子どものようなふたりの姿を眺めながらサラダをつつくのも意外に悪くないものだ。

 テーブルの対角線上、斜め向かいに位置する席にちょこんと座る真知子さんも微笑んでいる。口もとに刻まれた皺が深くなったようで、それが年齢相応であったとしても痛々しい。にじむ疲労に隠しきれないさびしさが見て取れる。


――ボクの対の乙女はおばあちゃんなんだよね。

――心の中の、ボクの対の乙女が住む場所はおばあちゃんしか入れないの。


 真知子さんがうつむき、そっと胸を押さえて微笑む。さびしげな笑みを浮かべながら見せる美しい仕草が私の胸を打った。


 理沙嬢は昼過ぎ、父親に付き添われて帰宅したという。早過ぎると思ったが、傷そのものは理沙嬢が目を覚ましたときにはまるで初めからなかったかのようにふさがっていたらしい。爆睡していて見送れなかった。気を遣ってくれたのだと分かっているけれど、それでもさびしい。

 失って初めて気づいた。理沙嬢との間に確かにつながりがあったのだということに。私は理沙嬢の対の乙女ではなかった。しかし、白梅の主だ。私はここにいる全員を「自分の乙女たちである」と自然に認識している。

 おば様の遺言では白梅荘の住人との賃貸契約を継続することが相続の条件だった。最初は額面どおりそう受け取っていた。実際おば様もそのおつもりだったのかもしれない。しかしひと月経って、私の印象は変わった。単に白梅荘を維持するために偶然自分が選ばれ相続することになったとは考えにくい。


――でも何のために?


 理沙嬢が契約を解除し、残る乙女は四人。乙女たちが契約の維持を望むならばそのとおりに、契約の解除を望むならそれもまたそのとおりに。


――乙女契約解除の儀式を知っているから相続することになったんだろうか。


 幼いころ一度見たきりの記憶だ。そんなあやふやなもので抜き針の儀式を任せられるとおば様や祖父が考えていたとは思えない。


――覚えなさい。そして忘れなさい。鍵を見つけるそのときまで。


 抜き針の儀式を成功させた今、結果だけ見ればもっと達成感に充ち満ちていいような気がする。それなのに何かが引っかかる。思い出さなければならない大切な記憶が封印されているような気がしてならない。記憶を探りたどろうとするとぐんにゃりと、しかし確固として弾き返された。


――痛い。


 放火魔に殴られた後頭部の傷痕が(うず)いた。あと少しで届きそうだったのに。火傷(やけど)を恐れて熱源から反射的に手を引いてしまうのに似た――そんな感覚があった。


「どうしました」


 大きい人の低く穏やかで丸い声が聞こえて我に返った。


「顔色がよくない。食欲がありませんか」


 ケイさんは親しい人を甘やかすタイプであるらしい。お粥がいいか、果物だったら食べられるか、などと厨房に駆けこみそうで


「平気です。ほんとに平気なんです。ご心配おかけしてすみません」


 慌てて止める羽目になった。


「あらあら、まあまあ」

「仲が良いのう」


 などとエルダリーな乙女たちは半ば茶々を入れつつにこにこしていたが、真知子さんが思いついたようにいい出した。


「おやかたさまにこんなことを申し上げるのはちょっと――はばかられるのですが」


 食堂がしーんと静まり返った。いったいなにを、と全員が固唾(かたず)を呑み見つめていると真知子さんは私に笑顔を向けた。


「詩織ちゃん、ご褒美は何がよろしいかしら?」

「――ごほうび?」

「ええ。孫がああして無事に帰宅しましてわたくし、嬉しゅうございますの。ここはひとつといわず、どーんと甘えていただきたいわ」


 フリーズしていた他の乙女たちが


「それは良い考えじゃのう」

「楽しそうですね」

「わたしも一枚噛みたい」


 と身を乗り出す。大変ありがたいのだけど


「あの儀式は当主のお仕事ですし、今までにいろいろといただいていますから」


 とお断りした。実際服やら雑貨やら、たくさんいただいている。東京の旧宅を焼け出され文字通り着の身着のまま白梅荘に転がりこんだためだ。実用品だけでなく「出先でかわいいハンカチを見つけた」だの「まだ寒いから靴下はどうかと思って」だの「この鱚用仕掛け、新作なんだ」だのと小物から始まってどんどんエスカレートしていった。


――こういうのはもらう側からすると案外重いものですよ。


 ケイさんが止めてくれなければどうなっていたか分からない。プレゼント大好きな乙女たちはその後も虎視眈々と機会を狙っている節がある。またぞろプレゼント合戦が始まったら大変なことになるに違いない。


――今回はケイさんも加わる気でいるようだし。


 隣の大きい人を見上げたらにっこりといい笑顔が返ってきた。どきどきする。昨夜から今朝にかけていろいろあった――針毛で刺されたり、風穴にダイブしたり――思い出すと頬が熱くなる。うろたえてつい


「そうですね。ほしいのは――家族かな」


 ぽろりとこぼしてしまった。両親とおば様を失って間もない私だ。乙女たちの受け止め方によっては超絶ヘビーに聞こえるわけだが、危惧したとおり再び食堂がしーんと静まり返った。やばい。失敗した。取り繕わなければ。やばい。


「な、なーんてね……ふがっ」


 隣から腕が伸びがばっと抱き寄せられた。小袖のさらりとした感触が頬に快い。


「確かに血のつながりはない」


 お久さんの小さな手が幼子をなだめるようにぽんぽん、と背中をたたく。よしよし、と手が背中を上下するのを感じる。あたたかい。お久さんの胸が、見守る乙女たちの視線があたたかい。


――疑っているのに。


 儀式の件が漏れたこと、それが乙女のせいでない可能性はある。その可能性にすがりたい。その原因をすぐに明らかにしないのならば情報漏れを前提に動かなければならない。何を優先し、何を犠牲にするのか、選んでしまえば元に戻すことはかなわない。


――私は自分が嫌いだ。


 今すがっているあたたかさを何よりも優先したい。このあたたかさを守るためならほかのすべてを捨ててもいい。――しかし私はきっとそうしない。そうできない。なぜか分からないけれど、きっと。


「しかしわしらは家族じゃ。何の遠慮もいらぬよ」

「はい」


 すぐに大人に戻るから。今だけ子どもに。罪悪感が募ると分かっているのにこのあたたかさに甘えてしまう。

 白梅荘に来てまだひと月。親しみは覚えても馴染むにはまだ早い。簡単に家族だといい切れはしない。分かっている。しかし両親を失って以降続いていた寂寥(せきりょう)が遠ざかり、自分の心の奥にしつこく居座っていたこわばりが解けてきたのを感じる。まだまだ知らなければならないこと、思い出さなければならないことがあるというのに。


――今日だけ。今だけ、休ませて。


 記憶の泥濘(ぬかるみ)(すく)(さら)う手を止めてしまう。


「ちょっとケイちゃん、おやかたさまになんてこといわせてんのよ」


 ん? んん? 低く地を這いずるような不機嫌ボイスが私を現実に引き戻した。食堂の空気が凍てついている。ああ、いけない。ついお久さんに甘えてしまった。食堂を湿っぽいムードにしちゃってすまんかった――顔を上げるとどうも皆の様子がおかしい。


「お、……俺?」

「あれだけおやか……詩織ちゃんを独り占めにしといてさびしがらせるってどういうことなの?」

「そうですわよ。詩織ちゃんは乙女みんなのおやかたさまなんですから。ケイちゃんに荷が重いのでしたらわたくし――」

「いやその俺、がんばりますっ、もっとがんばりますから」


 何を。いったい何をがんばるっていうの。続くお久さんのことばで乙女の冷視線は強まった。


「ケイちゃんは詩織ちゃんの首あたりをじろじろ眺めてでれでれしてばっかりじゃった。何じゃあのエロ視線は」

「ひ、ひどい。お久さん、俺そんなつもりは……あ、詩織さん、呆れないで」

「ケイちゃん、これは懲罰ものね。食事当番全食一年間」

「はい? そもそもご飯はだいたい俺がつくっ……」

「注目」


 驚いた。炊事が当番制だったとは。しかもそれを知ったとたんに形骸化するさまをつぶさに見ることになるとは。ぱんぱん、と拍手して注意を喚起する。


「気を遣っていただいて申し訳ない。皆さんにご負担をかけますが当主の仕事を学びたいと思います。これからもどうぞよろしくお願いします」


 まだいい足りなそうな乙女もいたけれどその場は治まった。


 隣の大きい人は口をへの字にして私の皿に魚をてんこ盛りにしている。


「とっても、おいしいです」


 そういうとへの字だった口もとがほころび、美しい歯がちらりと見えた。

 おかわりを勧めたり、水をくんであげたり、「ちゃんとサラダを食べないと次のバケットはあげません」と釘を刺してみたり、自分自身もたくさん食べながら忙しなく皆の世話を焼くその人が腰を上げるたびに私の椅子の背に手をかける。そのときにあの太くあたたかい腕が背中に近づく、そう思うとくすぐったくて何となく嬉しい。

 理沙嬢のいない食卓はさびしい。でもこうして私たちはそれぞれにさびしさを胸に変化を受け容れていく。


 もうすぐ桜が咲く。乾く季節を終え、湿り気を帯びた土の奥深くでざわめく春の気配とにおいが沈む心を浮き立たせる。

 白梅荘で初めて迎える春が盛りを迎えようとしていた。


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