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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第一章  白鱚と乙女

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第十九話  風穴

 まぶしい。

 鎧戸(よろいど)の隙間から差しこむ光が真っ白な大広間の床や天井に乱れ散っている。惨劇の跡のような血だまりはもうない。左手を光にかざす。すっかり癒えて刺し貫かれた痕跡は残っていなかった。確かに装束は血で汚れ、針で切り裂かれぼろぼろになっている。でも。


――何もなかったみたい。


 光にかざす手が取られた。浅黒い肌。大きな手。


「おはようございます」

「すまなかった。ほんとうに」

「いいの。いいんです」

「きれいに治ってよかった」

「そう?」


 傷が残っていたほうがよかった。痛いのはいやだけれど、痕が残ったらきっと思い出すよすがになる。本当に気持ちを確かめ合ったのだと。これでは昨夜何もなかったみたいだ。


「証がほしいのか」


 影が差す。ケイさんが上に覆いかぶさっている。


「消えない跡を残したいなら、俺の中に」


 ことばが出ない。無言でいやいや、と首を振る。


「何が起こっても決して離れない、ずっといっしょにいる、その気持ちはほんとうだ。でも昨日ああして抑えが利かなくなったようにまた」


 声が、身体が震える。


「……ああしてきみを傷つけたくない。あのとき、心の中で震える何かが俺を止めた。あれをもっと奥に埋めてほしい」


 できない。したくない。自分の力は人の精神に作用する。目に見える傷が残らないだけで暴力と同じだ。きっとケイさんの心をめちゃくちゃにしてしまう。いやいや、と首を振る。


「詩織、きみが俺の心に触れて震えるあれを置いたとき」


 ケイさんが私の右手を取る。そして掌に軽く口づける。影が動き、伸びすぎて整っているといえない前髪の隙間から伏せた目がのぞく。そして、握った私の手を彼の胸に押し当てた。


「きみは見た。感じたはずだ。俺が心を開いたのを」


 確かに見た。岩のように頑丈で厳しい心の入口が誘うように開いていた。


「おいで」


 今もまた厳しい崖のような岩塊に無防備に開いた入口からふるふるとやわらかい波動が漏れている。


――あそこに入ってみたい。どうしても、入ってみたい。


 なんておぞましい欲求なんだろう。心の中に踏みこんでみたい、だなんて。しかし、私はその欲求に逆らえなかった。右掌に意識を多めに載せて紡ぐ。できあがった探索子(たんさくし)は小さいけれど、ぼろぼろの装束まで忠実に再現された私の分身だ。伸びたコードで私とつながっている。多分、自分の意識をすべてその入口に押しこむこともできるのだと思う。でも、何となくそうするのが怖かった。分身である探索子に、やわらかな波動の漏れる入口近くに埋まっているあれをそっと掘り出させ、探索子の胸もとの、(さら)しの中に押しこませる。小さなそれは胸もとでおとなしく固定された。そして右掌の上に左掌を重ね、探索子をぐぐーっと開いてるケイさんの心の入口に押しこんだ。初めて入る人の、しかも大好きな人の心の入口は心地よかった。分身の探索子に意識をすべて持って行かれそうなくらい心地よかった。


「素敵……」


 そこは温かで穏やかな空気に満ちた風穴だった。

 風穴が実際にこのように穏やかな空気に満ちたところなのかどうかは分からない。岩でできた壁には草や灌木(かんぼく)が生えていて、ところどころなぜか本棚や食器棚などが壁に埋まっている。意外に広い風穴をもっとゆっくり見てみたいけれど、私のほんとうに知りたい、ケイさんの心はもっと深いところにあるような気がした。

 はるか下のほうに丸く開いた青い泉のようなものが見える。そこはなぜか内部がきらきらと光を放っているようだけれど、泉の表面に半透明の霞がかかっていて入口から見下ろしていてもよく分からない。とにかくあそこに行ってみたくて仕方ない。

 思い切って崖になっている入口から飛びこんでみる。

 探索子が風穴へダイブする。両手を脇に付けて伸ばし、頭から明るい風穴内部を自由落下する。ぐんぐんスピードが上がる。下の青い泉に叩きつけられたら、いくら実体ではないといってもこれだけの意識を載せていれば痛いでは済まない気がする。それでもそのスピードに乗って、穏やかな空気を貫き進むのが心地よくて止められない。


「は……ふ……」


 ケイさんが少し苦しそうにしはじめた。風穴の内部に風が起こる。下から吹きつける強い風に体勢が崩れた。


「――詩織、大丈夫か」

「どうしてそう思うの?」


 ケイさんは顔をわずかにしかめ、私の手を軽く握った。


「きみが困っている、気がする」

「何か見える?」

「見えない。見えないんだけど、中で何かが荒れてきみが煽られているような気がする」


 何とかなる。ちょっとびっくりしただけ。


「大丈夫、平気」


 ケイさんの胸もとに頬をすりよせ、再びダイブに集中する。探索子の体を丸め、くるりくるりと回転しながら勢いと速度をだんだんと緩めた。やはりイメージだからだろうか。現実にはありえないようなゆるゆるとした速度で風穴の底に辿り着いた。着地、というよりふわふわと空を漂っているような感じで、これはこれでかなり心地よい。眼下には半透明の膜のようなものが広がっている。薄い布が複数層になっているような、不思議な透け感で、奥に深く青い泉があるのが分かる。何かがそこで輝いているらしく、不規則な明滅が膜越しにうかがえる。しかし、やはりここまで近づいても奥で何が輝いているのか分からなかった。


「その隙間は、……これ以上自分で開けられない。すまない、こじ開けてくれ」


 いちばん外側の壁が堅固そうなわりに、目の前の膜はそう固そうに見えない。そしてその膜に頼りなく細い隙間があいていた。こんな狭いところを本当にこじ開けて通ってよいものだろうか。ふるふると震えるその隙間にそっと触れてみる。


「……う、うう」


 なんだかものすごく苦しそうに見えるんだけれども。


「ケイさん、大丈夫?」

「構わない、早く」


 ほんとに? と思いながら探索子の指先を細く長く伸ばし隙間に差し入れてみた。すると、ケイさんが体を丸め苦しみ始めた。髪が伸び、束となり、その束の先が針のように尖り始め、元に戻る。爪が伸び始め、私の手の甲に食いこむ。私の手が傷つくのは構わない。すぐに治るから。でも私の掌は彼の胸に接している。ケイさんが自分の爪で自分の胸を(えぐ)りでもしたら、と私はその恐怖に震えた。


「や、やめましょう」


 外そうとする右手を強く掴んでさらに押しつけ、ケイさんが呻きながらかぶりを振る。


「は、早くあれを中に」


 それは無理だ。

 触れただけでこんなに苦しむその隙間に、あんなものを押しこむわけにいかない。本人が希望するのでしかたなく、胸もとから取り出したそれをその膜の、隙間の近くにそっと置いた。隙間の温かさとやわらかさをいつまでも撫でていたい気もする。しかし私の右手を掴んだままケイさんがぶるぶる震え獣化に耐えて脂汗を滲ませているのを見ると、とてもではないが長居はできない。すうっと、上昇する激しい気流に乗り、風穴を出た。傷つかないようそっと、そして素早く出たつもりなんだけれど探索子がそこから出た途端、大きくもがいてケイさんは倒れた。うろたえる私が頬をぺたぺた触り呼びかけるとすぐに目を覚ましてくれたけれど、ケイさんはぐったりしていた。顔色が悪い。


「……こちらから頼んでおいて、すまない」

「もう絶対にあんなこと、しません」

「それは困る。でも、あれが奥に入ったな」

「でも、あんなもののためにこんなことしなくても」


 ケイさんは目をぱちくりさせた。


「あんなもの? きみは隙間の近くまで来たね。そして近くに震えるあれ、を置いた」

「ええ」

「あれ、何?」

「え? 分かってたんじゃないんですか? 振動ボムです」

「ぼむ?」

「はい。名前はさっき適当につけたばかりですが、接近と接触を禁止する爆弾」

「えっ?」


 やっぱりまずかったか。そう思ったのだが大笑いされた。子どもの戦いごっこに出てくる技の名前のようだ、と。


「とりだしましょう」


 と再度入りこもうとすると、


「いや、それはやめてほしい」


 と止められた。


「きみに初めてもらったものだから、といいたいしそういう気持ちはあるんだけれど正直なところ、またもう一回あれはしんどい」

「でも、爆弾ですし」

「うーん、きみが梅の木の前であれだけ怒ったときも爆発しなかったし、大丈夫なんじゃないか? 俺はあれが目覚まし時計とか、電話の着信音のようなものなのかと思っていた。ぷるぷると震えて、高くて澄んだ音を立てるような、そんな気がして」


 それより、どうだった? と訊かれた。振動ボムの位置を確認されたし、同じ感覚を共有していると思ったのだけれど、そうでもないらしい。


「とても驚いた。おそらくきみはもっとはっきりと見たり感じたりしているんだろうけれど、それでもあんなに心というものの感触があるだなんて。触られているから俺の心だと分かるんだが、自分のことでないような不思議な感覚だ。それにその、なんといえばいいんだろう。きみが心地よさそうにしているのを見ていて、嬉しかった」

「苦しいのに?」

「そう、苦しいのに」

「私は、ケイさんが苦しいのは嫌です」


 ケイさんは床の上に起き上がり、いった。


「俺が苦しいのは構わない」

「でも、人の心に入るのは初めてでしたし、うまくいかなくて」

「そうか、初めてか」


 嬉しそうに笑い、大きい人は私を抱きしめた。その初めてってのはそんなに嬉しいもんかね。ま、いいや。


「さっきもいったように、俺が苦しいのは構わない。それより、どうだった? 俺の心の中は」

「とても美しくて気持ちよかった。でもまだ奥があって……」

「今回は俺がふがいなくてすべてを見せられなかった。すまない。でも、俺で慣れてほしい。人の心に入ることに」

「どうして?」

「誤解しないで聞いてくれ。きみは俺を傷つけないよう細心の注意を払ってくれたと分かっている。ほんとだ。でも、あれはものすごく苦しい。だからこそ攻撃手段にするんだ。そのために俺で慣れてほしい」


 いやだ。ものすごく嫌だ。あの入口はものすごく心地よかったけれど、そんな目的のためだったらいやだ。いやいや、と首を振る私の背中をケイさんがさする。


「それに……もっと俺を知ってほしい、というのはわがままだろうか」

「奥へ行けば分かるの?」

「行ってもらわないと分からないな。振動ボム、だったか? あれが最初に置かれた場所が心の表面、殻の外側、という感じがする」


 確かに。うんうん、とうなずく。


「殻の外側は隠さなくてもいい感情、隠すつもりのない感情が現れる場所のような気がする。今、きみが入ってきたところは、表に出さない感情がある場所なんだと思う。たとえば。多々良が浜の駅前ではじめてきみに出会ったとき、俺は一目見てきみのことが好きになった」


 背中をさする手が止まり、強く抱き寄せられる。


「こんなふうに抱きしめたいと、今でなくていい、いつか強くという欲望を慌てて隠したのがたぶんさっききみが入ったあの場所だ。そして、心細そうにしているきみに親切にしたいという気持ちと、親切な人だと思われたいという気持ちが漏れてたのが殻の外側」


 確かにそれはそうかも。親切な人だな、と思ったもの。

 初めて会ったあのときにそんなことを考えていたなんて。そしてあの美しい穏やかな空気に満ちた風穴にそんな気持ちを隠していたなんて。まだそんなに時間がたっていないのに、昔のことのように懐かしい。



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