第三話 白梅(二)
白梅荘は多々良が浜という海辺の街にある。
首都圏の外れにあるそこは東京への通勤圏だと聞いたが、ここから都心へ毎日通うサラリーマンは超人か何かなのか。ちょっと足をのばせば、金持ちのプロポーズに目が眩んだ恋人を足蹴にするネトラレ男子像のある有名な温泉地。新幹線や特急はあれどばんばん通過するだけで緩行線列車しか停まらないここから都心に通勤するのは難しいと思う。
電車を乗り継いで二時間近く。小高い丘の中腹に位置する多々良が浜駅で電車を降り、ひとつしかない改札を出た。東京はまだ冬。モヘアのニット帽にマフラー、ウールのコートという完全防寒装備で違和感がなかった。なのにちょっと離れただけでずいぶん違う。上々の天気に恵まれたこともあってこちらは太陽の光が燦々と降り注ぎ、暖かい。汗ばむほどではないものの自分の格好が重苦しいような気がする。しかし他の人と比較するわけにもいかない。なぜなら多々良が浜駅で電車を降りたのは私ひとり。駅員さんもさっさと引っこんでしまった。あたりに人影はなく閑散としている。
駅前といえばコンビニエンスストアだのスーパーだのカラオケ屋だのパチンコ屋だのが軒を連ねるものだと思っていたがここは違うらしい。交番すらない。こぢんまりした広場にはバス停がひとつ。そしてカーテンが閉め切られ人の気配のない観光案内所。
この観光案内所の向かいが目的地だ。大げさなくらい大きな門、ここだなと近寄ってみれば「勝手口」と書いてある。呼び鈴なし。固く扉が閉ざされがっちりと大きな鎖が巻きついていて開きそうにない。覗きこんでも鬱蒼と茂る木々に阻まれ建物が見えない。これが私の相続する不動産(の「勝手口」)だというから驚く。
ありゃ? 白梅荘という名前だからアパートなのかと思っていたのだけれど、それにしてはずいぶん立派な門だ。資産家のおば様の終の棲家がアパートというのも変か。でもでも賃貸契約している人が住んでいるわけだし、敷地がとても広いアパートってことなの? 城下弁護士に出迎え不要と言い切った昨日の自分に小一時間ほど説教したい。
「駅のど真ん前、そんな便利な場所ならば迷いようがありませんから」
と無根拠に自信満々だった自分に腹が立つ。万が一迷子になったら人に尋ねればよいと考えていたわけだが、まさか駅前に人っ子ひとりいないとは。東京生まれ東京育ちの私には馴染みのない環境だ。ごみごみごちゃごちゃしてはいるがちょっと歩けば誰かしら声をかけられるような密度に慣れ親しんできたからそれが当たり前になってしまっていた。
――これからは生まれ育った街を離れることになるわけだし、しっかりしなきゃ。
家族も家も仕事もない。生まれて初めて何のバックグラウンドもない根無し草になった。遺産相続の手続きが終わればひとまず落ち着く。今はウィークリーマンション住まいだけどこれからどうしようかなあ。仕事も住まいもすべて自分で一から選べる、何のしがらみもない状態というのは生まれて初めてで、自由といえば聞こえはいいけれど何ともいえず心もとない。人ひとりの身分の証を立てるのは仕事や家族や家、そういったもろもろのしがらみなんである。
ロックアウトされた門扉をいつまでも眺めていても仕方ない。見ないようにしていた不安が一気に噴き出してきて、自分というものの輪郭が溶け出してしまいそうで、そんなはずはないのにこうして門の前で鮮やかな陽光にじりじりとなぶられうつむいているのは確かなのに――私は白梅荘の住所の書かれたメモを握ったまま立ち尽くした。
どのくらいそうしていたろうか。そう長い間もなかったと思う。頭上に影がさした。
ごつごつした素足にサンダル。褪せたジーンズをはいた足はがっちりと長く、思いのほか高いところに腰がある。のろのろと顔を上げてみると、とてつもなく大きい男がそばに立っていた。私の位置から見上げるとちょうど太陽と重なってしまい、濃い影にかき消されて顔が見えない。男は私の手のメモを見ているようだ。
「それ、ここですね」
低く、ゆったりした声が高いところから降ってきた。
見上げている自分は太陽に視界を止まれてよく分からないのだけれど目が合ったらしい。相手がわずかにたじろいだ。私の態度に不審があったろうか。そんな疑問を解消する間もなくふたたび
「ご案内しましょう」
低い汽笛のような声が降ってきた。お願いします、と応じると男はうなずいたようだ。
広い背中を追いかけながら改めてあたりを眺めた。
かすかに潮が香る。多々良が浜は街道沿いの宿場街で戦前は避暑地だった。その名残で夏になると海水浴客で賑わうと聞く。早春の今はとても静かで、オンシーズンの喧噪が想像できない。木立の向こうに濃紺の海がちらりと見えた。木漏れ日が心なしか濃い。
いいところだな。こういうところでアーリーリタイアというのも悪くないかも。まだ三十歳代だけど。好きでリタイアするんじゃないけど。なりゆきだけど。
そんなもの思いに耽っていたものだから、足が止まっていたらしい。少し離れたところ、坂が下り勾配にさしかかったあたりで男が待っていた。
「歩くのが速すぎましたか」
「いいえ、そんなことは」
もごもご返すと、今度はしっかりと目が合った。
がっちりとしているが見栄えがよいとはいえない。白髪交じりの伸びた髪がもっさりと額や首に掛かり、肩も背も内向きに丸めた男の姿はきびきびとした印象とはほど遠い。浅黒い肌に彫りの深い顔立ちからくる男くさい厳しさを柔和な目と深い笑い皺が打ち消している。
髪を整えれば、背筋をしゃっきり伸ばせば、びしっとした服に替えれば、などいろいろ条件はつくものの若いころはさぞかしもてたろうにもったいない。そう思わせるくたびれっぷりだ。
「あの……」
どうも相手を困らせてしまうほどじろじろ見続けていたらしい。いかん、元の職場ではナチュラルボーンお局として野生のコーディネータースキルをいかんなく発揮していたというのについ気を抜いてもったいない精神から失礼なことを。
「すみません……。ゆっくり歩きます」
どうも大きいおっさんの心の中で私が配慮の必要なトロい人になってしまっているような気がしないでもないが特に否定しないでおこう。相手があまりに大きくて足の長さ、歩幅の差がはなはだしいのだし。再度
「お願いします」
と返す。
ゆるゆると坂を下る間、塀に切れ目がない。建物の名前が古アパート風なのに敷地が広すぎはしないか、とはらはらしはじめたころにやっと坂を下りきる。車が切れ目亡く行き交う街道が見えてきた。交差点手前で路地に入る。松並木が続く閑静な道を進むとそれはどーん、と現れた。
「白梅荘です」
確かに門柱に表札がかかっている。間違いなくここがおば様の終の棲家なんだろうけど、ちょっと何これ。白梅荘って行ったら小ぢんまりした古びた木造アパートでしょうよ。ペンキの剥げた下見板張りの外壁に蔦の這い痕が残っていたり、錆びた窓枠にサボテンの鉢なんぞが危なっかしく載っていたりする、住民の愛着がそこかしこに染みついた庶民的で親しみやすい感じのアパートでしょうよ、白梅荘っていったら。
古い。古いのは合っているけど、なんだこの大正ロマン的豪邸。馬車がエントランスに到着するとフットマンが現れてコーチのドアを恭しく開け中からばっさばさドレスの裾をさばき髪を夜会巻きにしてそびえ立たせたお嬢さんがつーんと出てきたりする感じのここはプチ鹿鳴館か。話が違う。敷地の広さもお屋敷も私のキャパシティをオーバーしちゃってるんだけど!
いくら首都圏の外れとはいえ、この規模の不動産の相続税と固定資産税を払って維持できる気がしない。おば様、無理。私には無理だ。