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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第一章  白鱚と乙女

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第十八話  変化

 きん……!

 高く澄んだ音を立てて契約錠が割れ、砕け散った。きらきらと輝く契約錠の破片は、

 ずずずずず、ずぞぞぞぞ。

 大広間の床に、白梅に吸いこまれていった。


「抜き針の儀、終了ですね」


 返り血を避けもせず、ずっと見守ってくれていたみちるさんがぽつり、と口にした。


「理沙嬢――、理沙嬢は!」


 背後のケイさんに支えてもらわなければ座っていることすらできそうにない。でも今は自分どころではない。


「大丈夫、息を吹き返した、もうだいじょうぶじゃ!」


 お久さんが駆けこんできた。

 みんな血まみれだ。疲れた。ほんとうにくたくただ。もうこのつるつるの床で眠ってしまいたい。ケイさんがみちるさんとお久さんにいった。


「しばらく詩織さんとふたりきりにしていただきたい」


 みちるさんが姿勢を正した。


「それはどのくらいの間」

「小一時間ほど」


 みちるさんはつかつかとケイさんのもとへ歩み寄るとすさまじい怒気を発し、ケイさんの血まみれの胸ぐらを掴んだ。


「そなたまさか、わたしのおやかたさまに」

「みちるさん、俺が詩織さんにそんなことするわけないでしょう」


 何? 何の話? 疲労困憊してぼんやりする私を前にすす、と怒気をおさめたみちるさんは


「あ、失礼。勘違いだったみたい?」


 首をかしげくるりと向きを変えすたすたと歩きはじめた。


「ケイちゃん、詩織ちゃん、ごゆっくり。先にお風呂、使っちゃうわよ。――でも」


 大広間の出口で振り返る。ぐぐぐ、と重い扉を閉じながらみちるさんは意地悪そうな目をぎらり、と光らせ


「わたしのおやかたさまにむりをさせたらゆるさない」


 そういい残し、扉を閉じた。


「今のみちるさんはホラーテイストだった、かな。いつも怖いけどね、だけど今のはちょっと行き過ぎだよね?」


 ケイさんが私を抱きしめ、そして押し倒した。私の両腕を伸ばし、十字架のように床に縫いとめる。そしてケイさんはそのまま覆いかぶさった。

 なんていえばいいの? 今このタイミングで(さか)るなよ、ってつっこんでいいものなの?

 まあね、女三十五歳独身、養う家族がいるわけでもなし、せっかく相続した不動産は学齢前の幼児に「はげ」って大量に落書きされちゃって売却時に査定に来る不動産屋さんが髪の毛に問題抱えてたらどうしてくれるんだよ、印象最悪、資産価値も駄々下がり、ええ、白梅荘に来る前と変わらず今の私も失うものは大してないといえよう。でもさ、今日はさすがに無理。ほんとに疲れたんで。いろいろいいたいことはあるけれど、端的にいうならばこれだ。


「変態……」

「違う。いや、違わないかもしれないけどこれは違う」


 違わないのかよ。で、違うのか違わないのか結局どっちなんだよ。つっこむのも質問するのも億劫(おっくう)だ。疲れたから。だから端的にいい直すならばこれだ。


「変態、きら――」


 いいかけたとき、ケイさんが私に頬ずりして


「嫌いっていわないで」


 耳もとで囁いた。

 うぐぐぐ、ご存じないかもしれませんがそのあたりは弱点なんですよ。卑怯だぞ変態低音エロボイス。低く太く穏やかで、つややかな声。大好きだった祖父と少しだけ似ていて、そしてまったく違う人。でもくすぐったくて、今このときくらい義務とか当主の立場とかどうでもよくないか、そう思ったら笑いがこみあげてきた。


「くくくくくぷぷぷぷぷ、あはははははは!」


 しばらくふたりで涙を流して笑った。初めてだなあ、ケイさんと大笑いだなんて。


――ああ、そうか。「これは違う」、変態じゃないってそういうことね。


 ここは大広間の中央。屋敷内、いや、敷地内で最も白梅の力が集まる場所。契約錠が深くえぐった両掌に傷はもうない。それに。

 ずずずずず。ずずずずず。


――血だ、血だ。血がたくさん。


 意思の疎通ができるわけではない。だが背中の下、奥深いどこかで白梅が喜んでいる、そんな気配を感じる。理沙嬢の血がどんどん私の背中の下へ吸いこまれていく。


「詩織。きみは自分自身を『おぞましい』といった」


 頬と頬を接したまま、ケイさんは静かに口を開いた。


「俺はきみに『おぞましくなんかない』、そう伝えたかった」


 ケイさん、違うよ。私はおぞましい。大広間の床下、奥深いところで血を()(すす)って喜んでいる白梅、あれは確実に私の一部だ。そして私もあれの一部だ。そういいたい。いいたいのだけれどいえない。私にはいえないことが多すぎる。

 ケイさんは少し顔を離し、私の血まみれの額に口づけた。


「でもきみと触れ合えない間に考えて、分かった。ほんとうに伝えたいのはそういうことじゃなかった」


 まだ生えそろわない、女らしくない髪に口づけた。


「きみは確かにおぞましいかもしれない」


 そのとおりだ。私の閉じた目から涙があふれる。ケイさんは目もとにも口づけた。


「でもそれでいい。詩織、俺はきみがいくらおぞましくてもかまわない」


 嬉しい。そう思ってもらえるなんて。


「ケイさん、あり……あ、あ」


 いえない。ありがとうといえない。この人は私の、白梅の乙女だから。こんなに白梅に近い場所でうかつに抜き針の儀式につながるかもしれないことばは口にできない。大切な、大好きなこの大きい人の頭の中であれが、あんな尖って危険なものが育っているとしたら。


――散る。鮮やかな朱。

――色を失った世界、光と熱を失った大きい人の、その部分だけが朱い。

「あ、あ、……いや、いや!」


 がくがくと震える私を大きな身体で抑えこみ、ケイさんは静かにいった。低く穏やかな声が私の心を慰める。


「いい。無理にそんなこといわなくていい。いわなくても分かるから」

「ケイさん、私……あなたが好き」


 いってしまった。


「知ってる」

「そっか、ばれてたんだ」

「詩織、俺もきみが好きだ」

「ええ、何となくだけど、知ってる。――でもごめんなさい。嬉しいんだけど、応えられない」


 ケイさんが動きを止める。


「生まれたころから決まっていた、やらなければならないことが私にはある。それが何なのか、話せない。まだ思い出していないことがたくさんあるから。記憶に鍵がかかっていてまだ思い出せないことがある。思い出してもきっとあなたにそれをいえない。それでもあなたが好き。好きだからすべてが終わるまで――」


 待っていてほしい。そういえなかった。


「分かった。それでいい。何もいわなくていいから」


 その静かな口調と裏腹に、ケイさんは何度も口づけた。唇を除いて、顔中に。私はじれて左手をケイさんの首へ回し、力任せに引き寄せた。唇が触れそうになったとき、ケイさんが阻んだ。


「待って、詩織、待って」


 ケイさん、苦しそうにしてるところになんだけどいってもいい? むっときたよ、あたしゃ。

 ぶっちゃけちゃってよかろうか。ムードがどうこう以前にちょっとじらしが過ぎませんかね。確かに血まみれだけどそういうお仕事の後だ、風呂入ってさっぱりする前に盛ったのはそっちじゃないか。


「手を、手を離して、詩織、早く」


 あれ、様子がおかしい。かなりおかしい。


「詩織、手を離せ……!」

「やだ、離さない」


 いうとおりにしてはいけない気がした。ほんとうはちょっぴり、いうことを聞いたほうがいいような気もしたけれど、聞かない。


「『何が起こっても決して離れない』っていったくせに。『大丈夫』っていったくせに」

「詩織、駄目だ……ごめん!」


 目の前の人の顔が苦しげに歪む。

 ぐ、ぐぐぐぐ。

 ケイさんの身体の中から骨の軋むような音がする。私は息を呑んだ。

 ぐ、ぐぐぐぐ。

 痛むのか、悲しんでいるのか、怯えているのか。ぽたぽたと上から水が降ってくる。

 ぐ、ぐぐぐぐ。

 頬が接するくらい近くにいても、彼の涙が私の流すそれと混じり合ってもそれでも、彼の気持ちが私には分からない。最初の日、そう思った。でも今は少し違う。また彼の流す涙は私の流すそれと混じり合う。私はケイさんの首の後ろに回した左手を鋭い針で貫かれる痛みを忘れた。びちびちと新しく血が流れる。

 から、からん。

 つるつるとした大広間の床に、矢のような針が一本、さらに二本、落ちて転がる。

 それは磨かれた牙のような材質で、矢のようでありながら矢羽も(やじり)もついていなかった。鋭く尖った長い針はつるつるとしていて、煙るような溶けるような不思議な黒と白の(しま)模様がとてもきれいだ。


――ああ、そうだったのか。


 悲しげな目をした、大きく美しい山嵐がそこにいた。



 ケイさんは私に覆いかぶさったまま、山嵐になった。

 山嵐って、あれ。齧歯類(げっしるい)のヤマアラシ。つまり()えた気配の主が馬鹿にするみたいに「ネズミ」っていってたのはケイさんのことだったわけだ。馬鹿にした物いいだったわりに毎回毎回、ケイさんの気配に敏感に反応していたあれはネズミアレルギー、じゃなくてきっとこの針のような毛が怖かったんだな。

 現時点で変態率三十パーセント弱、というところか。上半身がヤマアラシ化しているけれど、下半身は人間のままという感じ。なんで分かるかというと、今のところ足は針に刺されていないからです。


「詩織さん。俺が怖い、ですか」

「正直にいっていいですか?」

「……はい」

「まず、なんで今更『さん』づけ? さっきまでさんざん呼び捨てしてましたよね」

「気になるのってそこ? いやその、それはそうなんだけどそのあの」

「怖いかどうかについては以前いったとおり、相変わらず分かりません。そして今いちばん気になるのは怖いかどうかじゃなくて、痛いってことだから」


 ケイさんの首根っこを掴んだ左手が大変なことになっている。ぐっさり、針毛が貫通している。背中の下の白梅が大喜びしながら血液吸引の上、治癒能力をフルスロットル支援してくれるので今すぐどうこうならなそうなんだけど、それだけに気絶できず、痛みで手を退けることもできず、二進(にっち)三進(さっち)もいかないってこのことだと身を以て知った。知りたくなかった。


「俺、離してっていったのに」


 そういって矢のような針ごとしょんぼりする半ヤマアラシは、口がへの字でたいそう愛嬌があった。


 過去にこの人を「ケイさん」と呼ぶ大切な人がいて、この姿で傷つけてしまったことがあるんだろう。敢えて訊かない。代わりになれないし、なる気もないから。それでもケイさんなりに自分のことを知ってほしいと思ってここを選んだのだと分かった。白梅の力を借りやすいこの場所であれば、私は傷ついても()える。


「怖いかどうかは今もよく分からないんですけど、かわいい、かなあ」


 そう口をすべらせたらさらに大変なことになった。(たぎ)っちゃって。心のありようが針の角度に如実に表れるらしく、「痛い痛いいたたた」で新たに出血どばばば、白梅も「うまうま」って感じで滾るし、いつまでも悪循環していられると思うな、いくら治癒能力高めといっても限界あるんだから死んじゃうってば


「いいかげんにせんかこら、『ステイ』!」


 とケイさんの心に沈めたままの意識の欠片(かけら)を揺さぶったら何とか正気づいた。この人、犬じゃなくてヤマアラシだからおおざっぱに丸めればネズミであるわけなんだけど、どうなの? ネズミって「ステイ」(しつけ)けられるの?

 その後しばらく


「怖がられないの、初めて」(判断保留しているだけ)

「かわいいっていわれたの、初めて」(これはうかつだった)

「刺し心地がやわらかくて……その」(これはマジで怖い)


 いっちいちでれでれして滾るので「ステイ」だけで足りず


「抜け毛が気になる季節ですね」


 を発動するほかなかった。これは男性、特に壮年期以降の対象者に(こと)(ほか)効果の認められる言説であると特記しておくべき。つまるところ、干渉波抜きでダメージを与えられる、と。何か身に覚えがあるんでしょう。あたしゃ知らん。



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