第十話 穴を出づ(一)
あんなに体調が悪かったのに梅の木の前で起きた事件以降、私はとても元気になった。気は塞ぐけれど明らかに顔色よく疲れにくくなった。白梅荘の乙女たちは喜んでくれた。
「きっと厄を落とせたんですわ」
真知子さんがたいそう喜んで懇ろ且つキュートにねちっこく祝い酒なるものに誘ってくれたのだが固辞した。真知子さん、私の厄年もう過ぎちゃってます。
「今さら仕方のないことだけど、今回の件は内々に処理するわけにいかなくなったの」
みちるさんは浮かない顔をしている。
「近日中に来客があるわ。私が応対してもかまわないけど、どうする?」
説明を聞くとなおさら、会わないわけにいかない。私の播いた種なのだ。みちるさんは同席するといってくれた。
数日後、客が来た。
多々良が浜が地盤の国会議員だとかいう人物で、立派な太鼓腹で日焼けして肌がぎらぎらと照り黄ばんだ目をしている男だった。臭い。ほんとうは人柄がよいのかもしれない。でもねっとりと身にまとうにおいが瘴気のようでその人となりにたどり着くことを心が拒絶してしまう。眉尻を下げて豪快に笑う口から飛び出ることばをうまく聞き取ることができない。ただ時々じっとりと瘴気の向こうからこちらを油断なくうかがう気配が感じられた。
「――まあ、そういうわけでしてな、例の家族は多々良が浜には住めなくなると」
何がおかしいのか、がががが、と男は耳障りな声を立てて笑った。
臼田青年とその家族は多々良が浜にいられなくなった。みちるさんからあらかじめ聞いていたけれどやはりつらい。青年の所行はとっくの昔に近所中に知れ渡っていた。さらに母親が乗りこんで事態を悪化させた挙げ句、白梅様の祟りに遭ったらしいと囁かれた。
――聞いたかい。祟りだと。
――もう何年も、何十年も、白梅様はお怒りにならなかったというのに。
――臼田のせがれは、女房はやり過ぎたよ。
青年の母親が「あそこの梅の木はおかしい。化け物だ、妖怪だ」と触れまわったことも事態をこじらせた。そんな話が回りまわって、地元選出だが代々東京に住んで選挙のときにしか戻ってこない政治家が裏で手を引き、臼田家を追い出したのだという。
「白梅様に心安らかにお過ごしいただくのも我々の務めですからな」
がががが。がががが。
みちるさんが私の袖をそっと引く。ほめてもらいたくてくるのだ。礼のことばを聞かせてやってほしい、そういわれていたのを思い出した。
「ええ。皆様には感謝しています」
「それは嬉しいおことばだ。ところで新しい白梅のご当主はお若いですな。ほっそりと儚げでお美しい」
いかがですかな、今度東京で、などと言い募る。
臭い。帰れ。もう来るな。口から飛び出そうになったがこらえた。手で首筋をするりと撫で、私は微笑んだ。
「先生にもそう見えますか。実はしばしばこの姿を美しいとほめられるのです」
謙遜のリアクションを受けて次の台詞が出るようプログラムされていたのだろう。男はことばに詰まった。その躓きをとらえてみちるさんが面会を終わりへと導いた。
前庭に出る。
あの事件の後、白梅の木のまわりにちぎれた女の髪は残っていたが私の手から流れた血の跡はきれいになくなっていた。左手に巻いた包帯を眺める。あんなに深くえぐられたのにもう包帯の下の傷は完全に塞がり癒えている。
この地に来た当初よりずっと健康に、そして仕事にプライベートにと忙しくとも活動的に過ごしていた二十代のころより私の外見は艶やかに充実している。こんなに憔悴し疲れているというのに。心を裏切り身体はすぐ癒える。
白梅に血を啜られることの代償に、私は何を得たのか。
ぞぞぞぞ。悪寒とともに饐えて不穏な臭いに包まれる。例の気配がすぐ近くにやってきていた。
植え込みの影を睨みつける。黒い人影が身を潜めていた。ふ、と今度はもっと近く、しかし一足飛びに移動できないはずの場所で饐えた気配を発している。しかしそこに姿はない。
「議員先生が細い女を好むとはな」
また気配が動いた。薔薇の茂みから声がする。
「オレも好きだぜ、ほっそりと儚げできれいな女」
またすぐ背後から声がした。ぐぐ、と歯噛みする。
「あのとき女のいうことなんぞおとなしく聞いてやる必要はなかった。白梅の当主に求められるのは上っ面公平に見えるご立派な態度じゃない。圧倒的な神性だ。そのためにあの女はもっとずたずたにされて口もきけないくらい恐ろしい目に遭うべきだった。そうすればああして一家全員、老人まで追い出されなくても済む。十分な罰があの場で与えられればまわりも納得したのに、アンタは手を抜いた。だからあんな脂ぎって醜い男につけこまれることになる」
がががが。汚らしい気配の主はさっきの男の笑い声を真似した。躑躅の茂みから聞こえる。
「オレだったらアンタをあんないやらしい男の目に触れさせないけどな。ネズミ、――ここの連中も何を考えているんだか」
ふふふ。含み笑いがすぐ背後から聞こえる。いやだ。こんな気配に包まれるのはいやだ。再び薔薇の茂みからすぐ側へやってきた気配の主は
「また来るぜ、白梅の当主」
耳もとで囁き、消えた。
あんなことをしたくせに、同化しそうなほど絡み合ったのに、白梅の老木は守ってくれない。私が白梅に助けを求めないからだろうか。
風呂でいくらごしごしこすっても、何度洗い流しても、脂ぎった臭いと饐えた気配が取り除けないような気がする。触れられていないのにそれでも穢れてしまう。いっそ肌がすべて剥けるまでこすってしまおうか。血がいくら流れてもかまわない。そうなったら。
――白梅が食べてくれるだろうか。そうなれば楽になれるだろうか。
すべてを終えるのはまだ先だ。私には思い出さなければならないことがある。




