第九話 春驟雨
臭っ。くっさー。酒臭っ! ちょっとちょっとおおお、誰か、誰かあるー!
って誰も動かせないかこんなでっかいの。私も無理。
夜明け。ベッドで寝ていた私の膝に大きい人が突っ伏していた。
ひどいよ真知子さん、酔いつぶさないでってお願いしたのに。そしておっさんはもっとひどい。なぜ鍵を勝手に開けて入って扉を閉めて鍵を内側からかけ直し寝入った私を起こさないようにそっとベッド脇に跪いてとか何とか、複雑なプロセスを経て私の膝の上にでっかい頭載っけて酔いつぶれちゃってるのおおおおおお。
白梅荘のみんなはさ、乙女乙女いってるのに私の貞操とかそっち方面にあまりに無頓着なんじゃないかと思うわけ。この件で問題提起したらまた例の薄皮に話をシフトされちゃうの? それってどうなの? 私の他にも薄皮に問題がある乙女、いるでしょう。だって経産婦いるじゃん。出産経験どころかお孫さんまで! うぐぐぐぐ。
上半身を起こすと、膝が動いたのが気に入らないのかケイさんがいやいやをするように太く長い腕を私の腰に巻きつけた。すっかりなつかれちゃったなあ。
まあ、いいや。
酒臭いのはともかく、夢見がよくなかったからこうして側にいてもらえるのはとても嬉しい。口に出さない。出せない。でも嬉しい。
眉間に皺を寄せて寝苦しそうにしているケイさんの、おっさんのくせに幼い寝顔を眺めているとむふふ、と口もとがゆるむのを抑えられない。筋肉によろわれたみっしり重い腕をあやすように「いい子、いい子」と撫でる。ふと気づくとケイさんが薄目を開けてこちらを見ていた。「怒られる?」という気持ちがそのまま書いてあるような顔をしている。にやにやしながら撫でているのを見られちゃった。恥ずかしいけれど今更しかめっ面を装うこともできない。腕を撫でながら
「おはようございます」
と微笑んだ。ケイさんはちらりとこちらを見上げると無言のまま私の腰をきゅ、と抱きしめた。唇の端が上がりきれいな歯が見える。
大きい人に惹かれる気持ちを私はもうどうにもできない。理沙嬢に対してはブレーキがかかった欲望を大きい人にはきっと抑えられない。
まだ東雲。今日は天気が悪そうだ。カーテンの隙間から差し込む濃く重く青い光が部屋を静かに満たしている。ベッドが、カーテンが、私たちふたりが光の底で深く青く染まる。私は窒息してしまいそうに幸せだった。
このところ、お久さんが忙しい。合気道道場の主であり師範でもある叔父君が体調を崩されたのだという。
「あの馬鹿、不摂生をしおって」
お久さんはぷんすかしている。何でも本家筋にあたる叔父君はお久さんと年が近いらしく、叔父姪といっても幼馴染みのような間柄であるんだとか。
「ほんにすまぬのう」
「いいんです。あの窓の件も私が気にし過ぎなのかもしれません」
道場で稽古をつけるために出かけるというお久さんを裏口まで見送る。
「こうしたことに『気にし過ぎ』はないからのう」
「でもあれから何もありませんし」
「可能な限り早う戻るのでな、くれぐれも気をつけて」
「お気になさらず。今日は理沙嬢が真知子さんといっしょにお出かけですから胡乱な連中も来ないでしょう」
実はお久さんが不在だったり、先日の耳かきのフィールドをめぐる乙女修羅場のように他に気をとられたりするとなぜか不審者が周囲を徘徊したり紛れこんだりするのだ。しかしお久さんがびしっとしているとトラブルは起きない。お久さんは白梅荘の守護神だ。どんな仕組みなのか皆目見当がつかないがこれも乙女の異能なんだろうか。
しかし、しかしですよ。素敵マッスル集結地点且つ眼福環境たる合気道道場を守ることもまた大変重要である。いつか絶対に行く、そしてお久さんが評するところの中途半端でないマッスルをじっくりうっとり鑑賞する。私はそう心に決めた。だからこそちゃんと守ってほしい。その素敵環境を。
「でもわし、詩織ちゃんに頼りにされていると思うと滾るのじゃ」
「もちろん頼りにしています」
「うむ、行ってまいる」
ふんがー。お久さんは元気よく出かけていった。これで弟子の皆さんはびっしばっししごかれるわけだ。しごかれて素敵マッスルが増殖し、その素敵マッスルがマッスルに憧れる弟子候補を呼ぶマッスル・エコ循環環境ができあがるというわけだ。すばらしい。合気道道場に幸あれ。
「なんだか人あしらいレベルが変な方向に上がっているわね」
みちるさんが苦笑しながら裏口に現れた。
「すみません。そんなつもりはないんですが」
「いいの、いいのよ。『滾る』だっけ? お久はああいう風に盛り上がっているほうが物事をいい方向に動かせるから」
「そんなものですか」
「そんなものよ。それより、不在がちでほんとうにごめんなさいね」
みちるさんは先日の窓の掌紋と影薄青年の件をとても気にかけている。
「ああもう、だから早く引退させてくれって言ってるのに……!」
みちるさんは呪うように呻き、出勤していった。
夜明けの雨はおしめり程度ですぐに上がったけれども空がどんより重い。いつまた降り出してもおかしくない。昼前、このところ顔を見せなかった臼田青年がやってきた。今日は生け垣を破ったり勝手口の門を乗り越えたりせずちゃんとインターフォンで来意を告げる。生け垣を突破することがこの地の若人のお作法なのかと首をかしげていたのだがなんだ、やっぱり違うんだ。やればちゃんとできるじゃないか。
「臼田青年が来ています。ケイさんに用があるそうですよ」
厨房で食料のチェックをしていたケイさんは表情を改めきっぱり言った。
「俺、ちゃんとあいつにいいます」
「何というんですか?」
「つきまとうのはやめろ、迷惑だから、と」
やっとその結論に至ったか。初めから分かれよ。しかしそこはつっこまない。
「そうですね、そのとおりだと思います」
そう答えるとケイさんの表情がぱあっと明るくなった。
「じゃ、じゃああの、ちゃんと臼田を説得できたらその、ご褒美を」
「お昼ご飯は私が作りましょう」
「それはいらな……あ、いや」
ああ? 私の作る飯は食えないってか?
「ご褒美はできればうな」
「お客様がお待ちですよ。早く行って差しあげて」
「うな」
うなうなうるさい。早く行けっての!
ケイさんを厨房から追い出し、昼食の準備の算段をする。「うな」といえば――鰻。買いに行ってこようかな。うなうな言ってたし、「鰻食べたいんですね」と出したらケイさん、どんな顔をするんだろう。酔いつぶれていたケイさんのばつの悪そうな、そのくせ嬉しそうな今朝のはにかみ顔を思い出しにやけてしまう。
――ああ、鰻は駄目か。
そういえば鰻は絶滅危惧種になってしまったんだった。じゃあお昼ご飯は何にしようか、と数少ないレパートリーと食材を照らし合わせようと冷蔵庫の扉に手をかけたとき、インターフォンが鳴った。表門を示すランプが点灯している。ケイさん、何をしているんだろう。待たせていらいらさせる人でもないのに、と怪訝に思いながら受話器を取りあげると
「……臼田です」
女の声がした。
「息子がお邪魔していると思うんですが」
「ええ、いらしてますよ」
臼田青年のお母さんか。おどおどとした声の調子が気になる。何の用だろう。
「……む、息子を返してください」
へ? いただいた覚えはありませんよ? むしろもう来ないでほしいくらいなんだが。
「お話をうかがいますのでそのままそちらで、門の前でお待ちください」
そう言い置いて受話器を戻す。いつものように裏口へ向かおうとして私は踵を返した。女の様子がおかしかったのが気がかりだ。より表門に近い出入り口、表玄関へ急いだ。
いやな予感は当たるものだ。サンダルをつっかけて外へ出ると懸念どおり、門で待っているように言っておいたにもかかわらず中年女がふらふらと前庭を歩いていた。
「臼田さんですか」
声をかけると女はびくりと肩を震わせて振り向き
「あんた、誰」
と言った。
いやいやいや、さっきのインターフォンの会話があるから臼田青年の母だろうとあたりをつけましたが「あんた誰」と訊きたいのはこっちですよ。しかし面識のない相手だ。その上不穏な気配がむんむんする。ひとまず事情を聞き出さなければ対策を講じられない。
「私はこの家の――」
「息子はね」
さえぎられた。知る気がないんなら誰何すんなよ。しかしここでむっときたのを知られればどう逆上するか分からない。まだ様子が知れない以上、波風を立てないに越したことはない。
「息子はね、おとなしいけどいい子なんだよ。がんばったけど大学に受からなかった。よそでは覇気のない子だの、影が薄いのといわれるけど、あの子のがんばりを理解しないほうがおかしいのさ。一度目は仕方ない、でも次で何とかしてねって、私たち親だって理解した。でもこの一年間、あの子は何もしなかった」
女は顎を上げ海のほうへ目をやった。春の暖かな海風にぬるぬると冷気が混じる。暗雲が垂れこめてきた。
「大学受験はまた全部不合格。全部駄目。大切に育ててきたのに。それなのに」
目から涙が噴きこぼれる。眼下のくぼみでいったん淀んだ涙が上向きの頬から顎をだらだらと伝う。
「それなのにここで、この家で女に会っていたんだって言うじゃないか。近所の連中はね、ここにいる娘をうちの子が追いかけ回していたんだなんて陰口をたたく」
しまった。こんなときにケイさんが近くにいないのは心細い。――いや、むしろそれでいい。彼が臼田青年の側にいてくれるから、青年に母の悲痛な姿を見せなくてすむ。落ち着け。うろたえるな、私。
「そんなはずがあるもんか。うちの子はね、真面目なんだよ。あんなに苦労して授業料を工面した予備校をサボるだなんて、そんなわけがないんだよ。女さ。ここの、白梅の女が悪いんだよ。ここの娘が色目を使いやがった」
ここまで聞き手にまわってきたが、もう我慢ならん。
「ご近所の方がおっしゃることは事実です。あなたの息子さんのストーカー行為は目に余るものがあります」
いっちゃった。口調を抑えていようと何だろうと、内容は女の意に沿わないものに違いない。案の定、女の表情が変わった。
「何だと。うちの息子がここの娘に迷惑をかけたって言うのかい」
顎は上げたまま、眼だけがぐるりとこちらを向く。白眼が血走り、半開きの唇から涙とも涎ともつかないものが垂れている。腰を半ば落とし膝を曲げている姿勢は失意に打ちのめされているようにも、襲いかかるために準備しているようにも見える。
女が一歩、こちらへ踏み出した。
海風が重く、冷たくなってきた。私の背後には白梅の老木がある。枝が脆くそして尖っている。うろたえて動き方を誤ると青年の母も私も、白梅の木も傷つく。
落ち着くのを待つか。精神的にあるいは物理的に相手を叩くか。どの段階で踏ん切りをつけるべきか。いずれにせよ私はもう穏便にことを運ばない方向へ舵を切ってしまった。優先順位。対応によるチャートの分岐点。樹状に広がる選択肢。どうやってけりをつけるか。
「あなたの息子さんと先日話をしました。ストーカー行為について反省してくれました。私どもではいずれ謝罪をいただけるものと――」
「あんた、ここに来たばかりか。何も知らないんだね」
女はまたさえぎった。不思議なことに少し様子が落ち着いている。穏便に帰ってもらうことができるかもしれない。そう思ったら私の心もまた少し落ち着いた。
「土地神様の守人だからこのあたりの連中ははっきりと言わないがね。白梅さんはもともと直系に子どもが生まれない、呪われた家だ。神様から子どもを奪われる家なのさ。だから広く縁組みをして親戚関係を結ぶ。そして分家からうっすら血のつながった子どもを世継ぎに迎える。その世継ぎを大切に守るのが白梅さんの女だ。白梅さんの係累ではない、でも土地神様に守ってもらいたい家では娘を献上するのさ。白梅さんが選ぶのは若くてきれいで優れた娘ばかり」
白梅さんとはこの屋敷を指すんだろうか。あるいは屋敷の当主なのか。そして白梅さんの女とは乙女のことだろうか。
「白梅さんのところに出されると、娘はおかしくなる。あたしのばあちゃんのおばさんはねえ、もともとおかしなところのある娘だったが白梅さんの女になってますますおかしくなったってさ。しかもこの白梅さんに奉公に出されてうまずめにされたのさ。他にも死んでも遺体を返してもらえず葬式を出せなかったものもいたんだと。確かにもうここ何十年もそんな話は聞いてない。昔の話さ。もう白梅さんに一族のきれいで優れた娘を差し出さなくてよくなった。みんな安堵したのさ。でも先代の白梅さんからまたおかしくなった」
先代。祖父のことか。あるいはおば様のことか。
「先代の白梅さんはね、ちゃんとした白梅さんじゃないんだよ。昔の白梅さんの女で、しかもそのまま白梅さんに嫁に行ったのさ」
嫁。先代。おば様のことを言っているらしい。
「そして嫁のくせに当主へ、白梅さんへ直ったんだ。そこからだよ。白梅さんがおかしくなったのは。子どもを産める若い女を取り上げなくなった代わりに白梅さんは金持ちから人質を取るようになったのさ。金持ち土地持ちの当主の母親や姉妹を取り上げて言うことを聞かせたんだ。挙げ句の果てに男まで迎え入れて。そして白梅さんはおかしくなって、土地神様のご利益もなくなった。なのにまたきれいな娘をここに入れて昔に返ろうって言うのかい」
女はがっくりと肩を落としてうつむき、上半身を震わせて笑った。むむむむむ。こもった笑い声だ。
「白梅さんは勝手におかしくなればいい。あたしらはね、土地神様に頼らずやっていく。でもね、息子を取られちゃ黙っていられないんだよ」
女の声は小さくこもっているのに妙にはっきりと耳に届く。さらに声がかすかになった。
「返せ。息子を返せ」
そのときぞぞぞと背筋を逆撫でするように悪寒が上ってきた。しまった。まずい。目の前の事態に夢中になって注意を怠った。獣のような饐えた気配がする。離れの前にたたずんでいた黒ずくめの男、あるいは窓にべったりとついた掌紋の主。――こんなときに。
どこだ。目はうつむく女に据えたまま気配を探る。蝸牛の通り道のようにねばねばと気配の帯を残している。時間の経過とともに薄れるその帯は建物を迂回している。きっと建物の中にはいない。でもまずい。すぐ近くにいる。
風が強くなってきた。周囲の空気が攪拌される。情報をいったんクリアしてにおいをたどりなおさなければ。ああ、目の前の女をこのままに捨て置けない。どうしよう。どうすればいい。惑乱が私を襲う。落ち着け。優先順位を整理しろ。何を達成し、何を捨てるか。選べ。
空が暗くなってきた。雨が近い。
「臼田さん、立ち話をするのも何ですから中に入りませんか。お茶もお出しせず失礼を――」
「息子を、息子を返せえええええ」
鈍く光る何かを反射的に左手で押さえた。
――熱い。
痛みより先に、熱が私の掌をえぐる。女が握っているのは持ち手が黄色い工作用のカッターナイフだ。鈍い刃が私の掌を裂く。血が滴った。
「臼田さん、刃物から手を離してください」
うまく声が出ない。女は「返せ、返せ」とうわごとのように繰り返している。
惑乱に振りまわされそうになったそのとき、異質な気配が現れた。獣のような何者かでなく、目の前の女でもない。背後から梅の枝が伸び、私の腕を這う。
ずずず。ずずずずず。
枝が私の左手から滴る血を舐め啜っている。滴って地面を朱く染めた血もずずずず、と吸いこまれていく。何だ、何がどうなっているんだ。
ずずずずず。
枝が私の左腕にきつく巻きついている。老木のひび割れた枝の表面が私の肌に食い込む。目の前の女がぶるぶる震え目を瞠った。
「ひいいいいい、梅の木が、白梅があああ」
何から手をつければいい。この女か、刃物か、饐えた気配の主か、それともわけの分からない梅の木か。どうすればいい。
「臼田さん、刃物から手を離して」
ぶるぶるがたがた震える女に私の声は届いていない。
「手を離せ!」
怒鳴りつけてやっと、女の手から力が抜ける。カッターナイフがぽとり、と地面に落ちた。刃物が抜けて開いた傷口の鮮やかな朱に枝が殺到する。
「ひいいいい、あああああ、白梅様あああ」
梅の枝に巻きつかれて埋まりかけている私の左腕を見て悲鳴を上げた女はくったりと力を失い、地面に倒れた。するとこちらにも梅の枝がずるずると集まる。梅の根もとに近い頭部に殺到した枝がずずず、と髪の毛を呑みこみはじめた。
「白梅、やめなさい。やめて」
私の力ない制止など届かないのか。
「白梅ッ、やめろ!」
枝の動きが止まった。不承不承、のったりと女の頭から退却していく。
――この人間は違う。
そう言いたげにぺっ、と女の白髪交じりの髪を吐き出し枝が元に戻っていく。
「白梅、私を放せ」
今度は素直に従った。ずずず、と私の腕に絡みつき血を舐め啜っていた枝が普通の梅の木へ戻っていく。
辺りが静まり返った。生ぬるい雨が降りはじめる。獣じみた気配が近づいてきた。
――そこか。
植え込みの影。ぎりりと睨みつけると笑みを含んだ男の声がした。
「ほう、位置まで特定できるのか。白梅の新しい当主は洒落たことをするじゃないか」
「出てきなさい!」
「面白いものを見せてもらった。また来る」
生臭い気配をずるずると引きずり、姿を見せずにそれは消えた。
「雨が降りはじめちゃったっスね」
「しばらくやまないな。――もうここには来るなよ」
「……はい」
物干し場の庇の下でケイさんと臼田青年が雨宿りをしている。
建物の中を雨水と血で汚したくないのでそのまま前庭から裏手へまわった。左手をシャツの袖で隠して顔を出す。
「お話中すみません。臼田さん、お母様がお見えです」
「げ。お袋が?」
「気を失ってしまわれました」
「えっ」
臼田青年の顔色が変わる。
「前庭の梅の前で倒れられたんですが、私の力ではどうしようもなくて。すみません」
「すぐ行きます」
臼田青年が駆け去った。
「ケイさん、車を呼んで――それから彼を手伝ってあげてください」
「詩織さん、手が」
「いいから、早く!」
ケイさんも裏口へ向かって大股で歩いていった。もういやだ。疲れた。物干し場の隅で私は膝を抱えて座りこんだ。




