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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第一章  白鱚と乙女

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第五話  木の芽(三)

 前庭に出た。梅の木の前に立ち自室の窓を見上げる。そして建物を背に庭を見渡す。しばらくぐるぐる歩きまわり、考える。白梅の老木の前に戻り苔生(こけむ)した幹に掌をあてる。乾きひび割れた木の肌は日光で温められていた。ただそこにあるだけの木のはずなのに、挑発するような振動を放っているような気がする。

 予想していた、梯子をかけたりあり得ないことであるが跳躍したりといった痕跡はなかった。しかし違うものがあった。獣の気配。野犬や猫ではない。異質で濃い。汚物のにおいを()き散らしているわけでもない。臭気はほとんどなく、薄い。ただ不穏な気配が確固としてある。これはあの掌紋の主のものなんだろうか。予断は許されない。でも窓にべったりと残された掌紋が、初日に遭遇した黒ずくめの男と重なる。

 なりゆきでおば様の遺産を相続し白梅荘のオーナーになり、住人といっしょに暮らすことになった。ここへ来てまだ十日も経っていない。ゆっくり慣れていけばいいと思っていたが、そうもいっていられない。

 ほんのしばらくであっても同じ屋根の下で寝起きし、風呂やトイレの順番を譲り合い、食事をともにすれば少なからず近しい結びつきが育まれる。そう確信を抱くくらいに好意を寄せ合っている。

 焦りがふくらむ。あの人たちを危険にさらしたくない。

 私はいったいどうしたいんだろう。それを決めるために何をすればいいんだろう。

 判断する材料は不足し、流動的な状況のデータばかりが増えてゆく。何から着手するか、優先順位すら決められない。でもこうしてただ焦りに溺れている暇はない。いつインパクトがやってくるか分からないまま振りまわされるのはいやだ。どうすればいい、どうすれば――。

 目の前の白梅の老木に問うたところで答えが返ってくるはずもない。花の落ちた梅の木はただそこで春の光を浴び泰然とたたずんでいる。



「耳かきはロマンじゃ」


 お久さんは重々しく言い切った。

 この人の口調が時代劇の武士っぽいのでみょうちきりんに説得力があるように聞こえるがいっていることは変態おっさんと等しくないか。

 お久さんは身長百五十センチ程度、還暦過ぎの小柄なおばさんである。半分白くなった髪をきりっと後ろでひとつにまとめたヘアスタイルで、秀でた額と和装の凜としたたたずまいから生まれる厳しさを、おっとりとぼけた愛嬌のある細い目やおおらかな表情をかたちづくる口もとが和らげている。

 親戚が経営する合気道道場の師範代を務めるだけでない。加えてお久さんは時代小説や時代劇の大ファンである。好きが高じて口調も時代劇に出てくる老武士風である。似合う。よく似合ってるんだけど、そこでなぜ妖艶な花魁とか町娘とか岡っ引きの女房とか大奥総取締とかの女性キャラでなく武士なんだろう。

 さて現在地はサンルームと呼んでいる部屋。窓の大きい開放的な空間は本来サロンとして使うものらしいが、今の白梅荘では物干し場としてフル活用されている。風で洗濯物が飛んでいったりすることもないのでたいそう便利だ。そこで洗濯物を干している最中、お久さんが「手伝いましょうかの」とやってきたんである。


「耳かきはの、ツールとテクニックもさることながら提供されるフィールド、すなわち膝枕がその行為の価値を大きく左右するのじゃ」


 お久さんは洗濯物のひとつを振りまわしながら耳かきについて熱く弁舌をふるっている。お手伝いしてくださるんじゃなかったのか。

 合気道の達人で時代劇ファンのお久さんは耳かきも大好きなんだそうだ。まあ、よろしいんじゃなかろうか。耳のかきすぎに注意なさっていくらでもどうぞ? と首をかしげたんだがどうも違うらしい。耳かきをするんじゃなくてしてもらうのがいいわけね。


「それでその、詩織ちゃんは背が高くて立派な太ももをしておるのでの、膝枕で耳かきをぜひ一度」

「へ?」

「みんな小さいからのう。こう、ゆったり広々した膝というフィールドに頭を委ねる快楽が足らん。体格差がないからのう」


 体格差だったら私よりもケイさんなんじゃ。あの人は私よりもっと背が高い。二メートルくらいあるんじゃないか。


「うむ、確かにケイちゃんは大きい。体格差は十二分に確保できよう。しかしヤツはおのこじゃ。わし、道場で野郎どものを見慣れておるから中途半端なマッスルだと萌えない」


 なんて素晴らしい眼福環境なんだ。通おうか、合気道道場。


「おのこの太ももはよくないんじゃ。こう、筋張ってふんわり感に欠けて」

「……はあ」

「それに耳かきのロマンはただ膝に頭を乗せてぼりぼり耳の穴をほじくってもらうことではないんじゃ。耳かきで距離を詰めつつちょちょいとな、膝小僧に奇襲を仕掛けることによりスウィーティな時間を共有することが肝要なんじゃ。ケイちゃんの低音ボイスで『きゃ』なんてやられてもかわゆくない」


 かわゆくないんか。低音ボイスで「きゃ」も悪くないんじゃなかろうか。イメージして赤面した。が、すぐに血の気が引いた。


「その点、詩織ちゃんはばっちりじゃ」

「そうですか。詩織ちゃんの膝撫でて『きゃ』といわせたいと。私の狭小かつくたびれたフィールドとマンネリテクではご満足いただけないということですね」


 サンルームの入口に般若と化したみちるさんが立っていた。「近頃みちるちゃん耳かきしてくれぬから寂しゅうて」「もちろんみちるちゃんの梵天ほじほじテクは至高の」などとまるで浮気が発覚したオヤジそのものの言い訳を並べ立てるお久さんと、無言で仁王立ちして怒りのオーラを放つみちるさんを仲裁せずに放置し、さっさと洗濯物を干すだけ干してその場を後にした。



 天気がいいから洗濯がはかどる。

 洗濯機を見るとシーツが洗い上がっていた。籠に入れて今度は外の物干し場へ行く。サンルームが乙女の修羅場と化しているからでなく、大きなものは外に干すことになっているからである。


――なんか疲れる。


 この白梅荘、乙女の館とかなんとか聞いていたがほんとはアレじゃんじゃないの、豪邸のふりした変態ホイホイ。

 外の物干し場に着くと、先に干してあった布団に細身の男がへばりついていた。立ったままぎゅう、と抱きしめるようにピンクの花柄の布団に顔を埋めている。この人は見覚えがあんまりない感じなんだがもしかして、先日お久さんやみちるさんにどつかれていた影の薄いあの青年なんじゃないだろうか。

 しましまパンツを欲しがっていたあの青年であるならばたまたま物干し場に迷いこんで貧血を起こし布団にしがみついています、という状況ではなさそうだ。切なげにため息をついて頬ずりしているから絶対に違う。確信した。この布団が理沙嬢のものだと思ってるんだな。


「そこのおばさん、どん引きやめるっス」


 私に気づいていたらしい。影薄青年は頬ずりを継続しつつことばを発した。どん引きするなって無理な話だ。それにしてもせめておねえさんとかなんとか、不穏でないことばを選べないのか。わざわざ怒りが増幅する方向に事態を押しやらなくてもよかろうに。しかし青年にとって幸いなことに私は連続変態エンカウントにより気力を削られ「キャー」と叫ぶほど元気が残っていない。


「オレ、女の子の布団に触るの初めてっス。女の子の布団ってふかふかでたまらないっス。しかもなんか、いいにおい。俺、感動してるっス」


 感極まった様子ですりすりしている。気力は削られたがこれ以上見るに()えない光景なので思い切って声をかけた。


「あのさそれ、ふかふかなのは干して愛用の光にあてたからだと思う。で、その布団の持ち主は多分理沙嬢じゃない」


 何となくね、においが違う気がする。私、わりと鼻が()くんです。まあ、この布団が持ち主の部屋から運び出されるのを見たから知ってるんだけどさ。


「え?」


 青年の顔に影がさした。


「……俺の布団だ」


 とてもとてもいやそうな顔をしたケイさんが立っていた。



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