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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
第一章  白鱚と乙女

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第一話  春濤(一)

 すっかり春だ。暖かい。白梅荘前庭の梅の花は散ったけれど、桜の開花にはまだ早い。

 私は白梅荘に引っ越した。大家のお仕事といっても今のところ特にすることはないのだが、そういうわけにもいかないような気がして落ち着かない。かといって何をすればいいのか分からないし、思いつかない。新しい環境にフィットするまで何となくそわそわ、今のところその程度の馴染み具合である。

 自宅放火事件の際に一週間昏睡し続けて以降、健康に問題はないものの調子が戻らず何かと疲れやすい。痩せた。すごいな。後頭部打撃昏倒ダイエットの効果。しかし削れるのは主に乳付近。下っ腹や二の腕、太もものふんわり部分でないあたり不本意だ。バストのあたりはもともとゴージャスでないのでこれ以上サイズダウンするとほんとにヤバい。

 何がヤバいって見た目がね……。

 髪はまだ生えそろわずベリーショートのまま。疲労が蓄積して肌はかさかさで化粧ののりが悪いため、すっぴん。この状態だと恐ろしいことに私って死んだじいさんにそっくりなのだ。目が大きくてぱっちり、と褒められたのはぴちぴちしていた適齢期前半までなのである。可愛げの失せた現在、気の強さが表れた眉の下にぎょろぎょろと大きな目、男気あふれる祖父そっくりな目もとができあがったというわけだ。別に私自身に男気なんてないし。家事炊事が苦手でちょっぴり干物めいているだけだし。

 ちっとばかしやつれたがまあいいでしょ、楽なのがいちばんと安直にジーパンにカットソーやらせいぜいセーター程度で過ごしていたらばやられた、ガキンチョに。ややや、先に断っておく。やつに悪気はないの、微塵もないわけよ。却って「お行儀いいでしょ? でしょ?」「ほめてほめて」といわんばかりの濁りなき純粋そのもののドヤ顔なわけ。

 聞いておくれよ。

 先日、門のあたりを竹箒で掃いていたらば風で飛ばされた帽子が転がってきたので拾ったのさ。そしたらば持ち主の七、八歳くらいの男の子がとことこ走ってきたのさ。帽子の埃を払い、にっこり笑って「はい」って手渡したのさ。


「ありがとう、おじさん」


 っていわれた……。ショックで凍ってて「違うでしょ、おばさんでしょ」すらつっこめずそのまま中腰で見送った。年齢と呼称に関わるセンシティブな問題について傷を広げずにすんだのかどうか解釈が分かれるところだ。

 いやいやいや、待ってくれ、少年。おじさんじゃない、おばさんでもない、おねえさんだ。私は三十五歳、誰が何といおうが人生の春まだ浅い若人なのだ。ぜひ修正させてほしい。カムバック、少年!


 そんなこんなで健康になりましょうフェア開催中なんである。静養と称して寝ているとどんどん肉が落ちていくのでひっくり返らない範囲で動くことにしたのだ。ちょっと痩せたくらいなので、そしてサイズが減ったのが乳だけなのであまり見た目も変わらず、白梅荘の乙女たちには気づかれていないと思う。早く髪伸びないかなあ。痩せるのはいいとして、おじさん呼ばわりはちょっとね。心が削られる。



 いい天気だ。ここ数日暖かいだけでなく晴れも続いていて朝早い時刻でも寒さが厳しいという感じがしない。こうして日が昇りきった「おはよう」と「こんにちは」のあわいの頃合いになるとのんびりうららか、いよいよ春到来だ。

 理沙嬢が砂浜で投げ釣りをするというのでおともをしている。散歩にもなるし、まだ多々良が浜の地理に不案内な私にはちょうどいい。本当はこれでもボディガードをしているつもりなんである。きっと役に立たないけど。

 白梅荘からゆっくり歩いて十五分ほど、東西に長く広がる砂浜へやってきた。

 目の前は紺色の海。ゆったりと引き、重たげに波が浜に寄る。波が引いたときに露出する浜と、寄せたときに波に洗われ隠れる部分を波足と呼ぶのだそうだ。左を眺めても、右を眺めても波足の長い浜が続く。陸から眺めているとなだらかに続く砂浜なんだが海の中はそうでもないんだそうで、波足の先、駆け上がりという沖に続く際のあたりに変化に富んだ地形があり釣り人の心を鷲掴みにするらしい。


 ボン・キュッ・ボン、略してBQB。たった今、その手合いの形容に縁のないままアラフォーに突入した私が思いついた。

 理沙嬢は身長百四十五センチ。ちっこい。それなのに同性の私ですら見惚れるBQBボディだ。しかしカーゴパンツに防寒仕様のウィンドブレーカー、エアジャケットなどの投げ釣りファッションに身を包むとまるっとそのBQBが隠れてしまう。キャップをかぶってゆるふわウェーブのショートボブヘアを抑えてしまうと顔の整った釣り好き小学生男子に見える。BQB的にはもったいないのだが影薄青年みたいな余計な虫が寄ってくることを考えると、投げ釣りをする上で合理的なファッションを理沙嬢が好むのは保安面でも望ましい。

 今までアウトドアに縁のない生活をしてきたので知らなかった。意外なことに釣りは見ているだけでもおもしろい。知識と技術、経験によって同じフィールドで竿を振っていても結果が違ってくるところなんて、スポーツそのものだ。


 釣りをするときの理沙嬢は真剣でかっこいい。

 仕掛けの準備を終えた竿を軽く構える。目の前のゆるゆるとうねる広い海を前にしばし静止する。キャップの深いつばで半ば隠れる視線は鋭い。その小さな身体のどこから、と驚くほどの勢いとパワーで竿をふり、仕掛けとおもりを遠くまで飛ばす。

 そしてはるか彼方、目でとらえるのが難しいくらい向こうでおもりが着水、沈むのを投擲(とうてき)後の体勢のまましばし待つ。表情は先ほどより少し緩むが、おもり着水ポイントから目を離さず、緊張を解かない。呼吸二つ三つほど、ほんの少しの間、厳しさを緩めたかに見えて実際は違う。この緊張感の弾けそうに膨らむ静止がたまらなくいい。投擲時のフォーム。身体のねじり具合とインパクトのタイミング。おもりが飛行する距離とコース。角度。リールの回転。竿の穂先から送り出される糸の調子。海の色。波の質感。風の向き、強さ。それらを全身で感じ取り計算し、過去のデータと比較する。そしてちゃくちゃくとデータとして現在の状況を吸収する。

 そうと見えないさりげなさで厳しく現状を分析する姿ははるか昔に遠くの的を射て敵味方双方から賞賛されたという若武者のようだ。凜々しい。小生意気で口の悪いボクっ娘のくせに。


 理沙嬢は美しい。愛らしい。それ以上でもなければそれ以下でもない。それなのに相対するこちらの気持ちひとつでその姿が清らかにも、なまめかしくも見える。


――目の前の美しい子どもを私だけのものにしたい。


 誘蛾灯に吸い寄せられる虫になった気分だ。ほの暗い欲求を封じなければならない。ともすれば大きくふくらみ私の心を埋め尽くす独占欲を抑えなければならない。


――これは違う。愛じゃない。


 その欲求に苛まれるとき、理沙嬢が何を望み、何を考えているかを知りたいと思う気持ちを私は忘れている。ただただ美しく愛らしいものを独占するにはどうすればいいか、それだけに腐心する。そのことに気づいて自分自身のおぞましさに震えた。私は自分を強く戒めなければならない。目の前の傷ついた少女の信頼に応えるために。


「なに? ボクに惚れた?」


 リールやラインやらの調子を整えたあとに理沙嬢が私の隣にやってきて腰かけた。おもりと仕掛けを海中でずるずると動かし、竿先やラインに伝わる感触の変化で地形や魚の気配を探ったりすることが多いのだが、どうやら今回はそのまま置き竿にするらしい。


「うん、惚れた」


 そう返すと、理沙嬢は驚きそしてほろ苦く笑んだ。どきりと心が痛む。どきりと心が痛む。ときどき理沙嬢はこんな風に固くて不味いものを無理矢理飲みこんでいるような顔をすることがある。



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