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白梅荘顛末記  作者: まふおかもづる
序章  皮剥鍋と乙女

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第十一話  皮剥鍋


 食堂は小ぢんまりとした部屋だった。テーブルと椅子、古風な水屋、ツードアの白い冷蔵庫がみっしり配置されている。どの調度も古い。アイボリーを基調とした低い天井と壁、カーテンが電灯の光を反射させて暖かく明るく感じられる。

 真知子さんがふりふりレースだらけのガウンに包まれたお尻をこちらへ向けて冷蔵庫を物色している。みちるさんが水屋の前でカットの美しいグラスを灯りにかざし思案顔をしている。隣に立つお久さんが陶器のビアタンブラーを手にしている。理沙嬢は皮剥(かわはぎ)の刺身の盛られた皿を手に鼻高々だ。ケイさんが両手にミトンをはめ、卓上コンロの上に大きな土鍋を置く。

 私は片口に入った柚子ぽん酢や薬味の皿を配りながらそれを眺めていた。


 お久さんが隣の椅子をぽんぽん、と軽くたたき私を招く。細身のビアタンブラーを手渡される。向かいの席のみちるさんがしゅぽ、とビールの栓を抜く。ぽぽぽぽとくとくとく、と手の中のタンブラーに勢いよくビールが注がれる。泡が溢れそうになり、慌てて口を寄せちゅるり、とビールを口に含む。顔を上げると、お久さんの向こうから理沙嬢が顔をのぞかせ、げたげたと笑い転げている。真知子さんが一升瓶の中身をカラフェに注いでいる。お久さんがハンカチで私の唇を拭ってくれる。髭のような泡が載っていたらしい。


「いただきます」


 夕飯は皮剥鍋だ。

 白い皮剥の身。白菜、水菜、葱、白滝、豆腐、きのこ。愛らしく梅の花の形に抜かれた人参や大根。昆布と皮剥のあらから旨味を引き出した出汁のやわらかな香り。最後に加えられ、ふっくらと蒸された肝がつややかに輝く。紅葉おろしに柚子ぽん酢。

 理沙嬢がライバルのおじいさんに競り勝って竿頭になったと胸を張り、はっと気づいたように「おばあちゃん、呑んでばっかじゃ駄目じゃん」と椀の中の野菜を勧め、真知子さんは「おほほほほ」と片手を口もとにかざしながらカラフェをぐい呑みの上で傾ける。お久さんが影薄青年を次回いかにとっちめるかを熱く語り、みちるさんがそれがいかに無益な戦いであるか、理屈っぽく混ぜっ返す。「しかしあの腐れ小僧、からたちの生け垣に穴を開けおって」「滅してよし」とすぐ意気投合しなおす。


 なんだろう。似た雰囲気を経験したことがあったかもしれない。

 たとえば元の職場の最後の飲み会。飲み放題のメニューをめくり、残り時間を計算しながら追加注文、「こんなのももう最後かねえ」などと涙ぐむ上司をなだめながら、二次会の手配が必要なのか不要なのか、はたまた強制帰宅させるべくタクシーの手配をするかどうかメンバーの顔色を……うーん、違うな。


 もっとほのぼのしたのはなかったか。

 人数合わせにと請われて参加した合コンで好みと正反対の男に懐かれたり、多忙なはずの恋人がなぜか居合わせて目を三角にしていたり、「わたし卵料理は食べられないのお、だって赤ちゃんがかわいそおおお」などと太陽系外から飛んできた文脈と意図の読めないアピールのために注文変更を余儀なくされたり、カップル成立したから途中でこっそり抜けるなどとごねる輩から会費を確実に取り立てるだけの簡単なお仕事を押しつけられたり……うむううう、これも違うな。


 そういえば、この天井の低さや水屋の感じはあのときに似ているかもしれない。祖父母が立て続けになくなる少し前、物心ついたばかりのころ。

 月に二回、会いに来る祖父のためにここづくしの膳を用意していた祖母と両親が台所に立ってごちそうをこしらえ、酒器などの支度に大わらわしていた。当時私のお気に入りは枝豆で、家の中でいちばん美しい、鯛の絵が描かれた大皿にきれいに並べて「どーぞ」したんだった。祖父はひと粒ずつ口に運び甘えて離れない私の頭をごつごつした大きな手で撫で――。

 いちばん近いのはこれだな。

 人のざわめきと鍋の湯気であたためられた空気を吸い込み、目を閉じる。私の家族。父と母、祖父と祖母がそろったあの日に似て光も音も香りもあたたかく優しい。



「詩織ちゃん詩織ちゃん、隣の大きいのがのう、さっきからめそめそしてのう」


 お久さんにつんつん、突かれてはっと我に返った。

 い、いかん。このところ在職時の野生のコーディネートスキルを捨てちゃってないか、私。部内の、可能ならば関係エリアすべての変化に気を配り、資料作成電話来客応対、備品什器稟議スケジュールに進行管理、他部署応援にドタキャン横やりクレーム対応どんと来い、こっちは私に任せてあなたたちはプレゼンでどっかーん、と新規案件という勝利をもぎとっちゃって! だったのに落ちぶれた。嘆かわしい。


「す、すみません。なななな、なんでしたっけ」

「そんなにしゃっちょこばらなくてよいよい。よいんじゃが、その大きいのがめそめ」

「お久さん、俺、めそめそしてません」

「じゃあ、うじうじ」

「してませんってば」


 促されて隣へ目をやると、確かに大きい人の様子がおかしい。


「いやその、詩織さん箸が止まってるからお口に合わないのかと」


 うわあああああ、盛大にうじうじしてる。


「いやいやいや、すっごくおいしいですよ。皮剥のお鍋、初めてです。淡泊なのに出汁がしっかりして身がふんわりしてて、肝がぷりぷりでぽん酢と相性ばっちりで、皮剥がこんなにおいしいなんて知りませんでした」


 ほんとほんと、と請け合ってやっとのことでケイさんの表情が晴れた。皮剥の身ももちろんなのだけど、それだけじゃなく出汁を吸った豆腐や白菜、半ばとろけた長葱も何もかもおいしくて頬が緩む。

 理沙嬢は


「しおちゃん、皮剥は刺身もいけるんだぞ。肝和え食べてよ、ボクたくさん釣ったんだから」


 と鼻息が荒い。苦玉を取り分け、流水にさらしたり酒を振ったり、お湯にくぐらせたり包丁で叩いたりと、ケイさんが手間をかけた肝が灯りを反射してねっとりきらきら輝く。

 その肝に山葵(わさび)をちょん、と載せ醤油をちびりと垂らす。

 ほんのりと薄紅を帯びた皮剥の刺身は半ば透きとおっている。薄造りというには心もち厚めに切り分け、青磁の皿に扇形に盛ってある。それを箸でつまみ、肝醤油につけて口へ運ぶ。(はかな)い見た目のわりにねっちりと弾力のある刺身が、濃厚な肝と口の中で一体となる。山葵の尖った辛みが肝の濃い脂に抑えられ、高い香りが前面に出る。控えめに垂らした醤油がそれらをまとめ上げ、あっという間に舌の上を滑り喉の奥へ落ちてゆく。あっさりと胃の腑へ消えたそれらを惜しみ、目の前に差し出されたぐい呑みの酒を口に含む。ぴしりと冷えた生酒が口中を洗う。生酒特有の貴い花のような香気が、皮剥の肝和えの後味とともに鼻を抜けてゆく。


「ふわあああああ、お刺身もお酒も、おいしいいいいい」


 幸せだ。あまりに美味で力が抜ける。


「だろ? んまいよな! コイツ分かってるじゃん」

「こら理沙嬢、コイツいうな!」

「そうですわよほんとにうちの孫ったらもう、わたくしに似てこんなにかわいいのにことば遣いが悪くっておばあちゃん、心配」

「ええええ、今さらこのタイミングでお説教? おばあちゃん、勘弁してよ」


 まあまあまあまあ、と残る全員で取りなし、ふたたび夕餉(ゆうげ)に戻る。

 さあじゃんじゃん食べて食べて呑んで呑んで、と皮剥づくしの宴は盛り上がり、締めの葱を散らした卵雑炊まで全員できれいに平らげ、つやつやぽかぽかにできあがったところでお開きになった。



 最後の片づけを終えて食堂の灯りを落とし、ワゴンを押す。厨房ではケイさんが洗い終えた食器を布巾で拭いていた。運んだ皿や鉢、グラスを軽くゆすぐ。まだ食器洗い機が動いていることを確かめ、新しい布巾を手に私も食器拭きに加勢する。

 海へ向けて吹く風が強くなっている。風切り音が不穏な音律を奏で、窓ががたがた鳴る。


「古い建物ですが、このくらいの風は平気ですよ」


 私が屋外へ向ける視線にケイさんが気づいた。食器洗い機が止まる。さっきゆすいだ食器をセットし、洗い終えたものの片づけに取りかかる。そこへみちるさんが


「真知子さんのところが呑み部屋になってるわよ」


 と二階から降りてきて教えてくれた。


「みちるさんは?」

「明日早いからわたしは自粛」

「あちらの部屋にお茶を持っていきましょうか」

「いいのいいの。必要なら自分でやるんだし。平気でしょ。お茶のペットボトル抱えてたわよ、理沙ちゃんが」

「わたしも今夜はお酒、やめておきます」

「そう? ――詩織ちゃんのお部屋なんだけど」


 みちるさんがケイさんに目を向ける。


「準備できています。今夜から使えます」


 ケイさんのことばにうなずき返し、みちるさんは


「あとよろしくね。詩織ちゃん、ケイちゃん、おやすみ」


 あくびをしながら階上へ去った。

 見送ったのち、外でびゅうびゅう吹きすさぶ風の音と食器洗いの単調な動作音にぼんやりとふたりで聞き入る。ふと、後頭部に違和感を覚えた。慌てて手で押さえるのと同時に手ぬぐいの結び目が解ける。


「すみません。巻きかたが緩かったですね」


 ケイさんが気づき、私の前に立つ。そして長い腕を首の後ろにまわし、手ぬぐいを巻き直そうとした。目の前に胸板がある。日向のにおいがする。今日一日だけで覚えたこの人のにおいが夕餉であたためられて立ちのぼる。そのことに気づいてしまっていたたまれなくなり、私は顔を背けた。


「駄目ですよ、頭を動かしちゃ」


 ケイさんは両手を軽く私の耳の下に添えた。いたたまれない。だけど頑なに顔を背けたり手で隠したりもしづらい。耳が熱い。


「どうしました。具合が悪いですか」


 そっと首を横に振る。風切り音がまた強まり窓ががたがた揺れる。その大きな音にびくりと肩が震えた。


「風が怖いですか」


 少し強く首を振る。ケイさんの片手が耳から外れ、背中をゆっくり下へたどる。浴衣の薄い生地の外側を伝う、大きな掌の熱さに身体がわななく。


「心細いですか」


 少し時間をかけて考え、三たび首を振った。私の感じる心細さとケイさんのいうそれが同じなのか分からなかったから。

 私の背骨を下へたどる熱い掌はウェストのあたりに至るといったん離れ、また首の後ろから下へゆっくり動きはじめた。だいじょうぶ、だいじょうぶ。なだめられているのだ。

 恥ずかしい。自分が恥ずかしい。しゃくりあげるようにわななき、目をきつく閉じる。涙がまぶたにおさまりきらずつつ、と頬を伝う。


「……俺が、怖いですか」


 どうしてこの人はそんなことを私に訊くのだろう。優しそうなこの人の、過去に何があったのだろう。まぶたを開け、ケイさんと目を合わせた。


「分かりません」


 だいじょうぶ、だいじょうぶとわななきをなだめる掌が止まった。


「まだ怖いケイさんに会ったことがないから。だから怖いと思うときがくるのか、私には分かりません」


 分からないから、これからこの白梅荘で知っていく。今日初めて出会ったばかりなのに、こんなに近くにいる人。

 浅黒い肌にくっきりと刻まれた笑い皺。厚い唇に太く猛々しい鼻筋。硬そうな髪がかかる垂れ気味の眉。切れ長の目に宿る光が揺れる。

 本当は怖い。こんなことは初めてで怖い。

 目の前の大きい人が怖いのではない。まだ何も知らないのに距離を詰め近づくのを許し、鎧を簡単に脱ぎ捨てる自分が怖い。太く長くあたたかな腕の中に安易に逃げこんでしまいそうで怖い。この人の過去の何か、あるいは誰かのことを知るのが怖い。(たが)が外れてしまった自分がどうなってしまうのか分からなくて怖い。



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