第十話 乙女風呂
「着替え、見繕っておくから」
みちるさんにそういわれ、ありがたく風呂を借りた。不審者から守ってもらっておいてなんだが、地面に倒れこんで泥だらけになってしまったからである。応接室に放っておいたマフラーとコートを除き、ロングスカートもセーターも帽子も泥まみれ。埃を払えばなんとか、のレベルを超えている。洗濯してくれるというのでその心遣いもありがたくちょうだいすることにした。今夜は泊めてもらおう。これだけ広いお屋敷だ。どこか横になる場所くらいあるだろう。
洟垂れ美少女の理沙嬢も湯冷めしたとかで再度風呂送りとなった。呪いどおり追加で洟じゅびじゅばになったようでびっくりだ。この際だからことば遣いを改めるといい。
白梅荘の風呂は案に相違してコンパクトだった。大正ロマン風豪邸はまるまる骨董品みたいなものだ。ゴージャスに風呂も総檜造りで温泉引いてあったりして、と期待したがそうはならなかった。そりゃそうか。豪邸とはいえ個人所有の不動産に手のかかる風呂がついていても困るだけだものな。それでも今どきなかなか見ない総タイル貼りの湯船はブルーのグラデーションをなすモザイクで、シンプル且つ時代を感じさせるデザインがたいそう美しい。
私が身体を洗う間、理沙嬢は湯船の縁から睫毛の長い印象的な目をのぞかせ湯につかっていた。さっきと打って変わっておとなしい。そしてこちらをしげしげと観察している気配がする。
――やっぱり、髪型変かな。
怪我の治療のためにがばっと剃られたあたりはやはり整えるにも限界がある。ベリーショートというと聞こえはいいが坊主頭を無精して伸ばしちゃいました、程度しか髪が残っていなくてしかも不揃い。帽子をとるのを躊躇したのは、後頭部をがつんとやられたときの傷痕がばっちり見えちゃうからなんだよな。恥ずかしいというより、よそ様に痛いのを想像させたくない、いたたまれない思いをしてほしくないというかなんというか。やっぱり気になるかな。
身体と髪を洗い終え、湯船に入る。見た目より広い感じだ。湯加減もちょうどよい。
理沙嬢がずっと黙りこくっているので、私もそれに倣う。視線はこちらに向いていなくてもばきばきに意識されているのが分かるので少々居心地が悪い。早めに上がっちまうか、と考えているところにぼそりと声がかかった。
「……さっきはありがと」
どれだ。洟かんでやったことか。それはないか。離れの前に駆けつけたことかな。
「いやあ、そう? お礼いってもらえるとその、くすぐったいね。却ってケイさんが怪我しそうになっちゃったし、私は私で泥まみれになってお風呂借りることになっちゃうし、余計なことしちゃったみたい」
隣を見ると理沙嬢が声を出さず泣いていた。え? どれ? どれがいけなくて泣かしちゃったの、私?
「ボク、女の子だってバレにくいお洋服選んでるの」
「確かにぱっと見で女の子かどうか分からなかったなあ」
「おばあちゃんは残念がるんだけどね。かわいい服が好きだから」
少し落ち着いたのか、理沙嬢はぐずぐずと鼻を鳴らしながら語りはじめた。
理沙嬢は少々つっけんどんでことば遣いになんはあるものの、表情豊かでかわいらしい。そして美しい。先ほど日の光の下で出会ったときと、湯気の揺らぎ越しに見る理沙嬢は雰囲気が違う。肌理の細かい白い肌は湯を玉のように弾き、鎖骨が美しい曲線を描く。うつむいた横顔は愁いを帯び色めいて見える。
湯気が揺らめき、私は我に返った。
見惚れていた。屋外で見たときも理沙嬢は美しかった。まるで天使のような、貴重な芸術品のような。今が違うわけじゃない。さっきとまるで同じ。当たり前だ。同じ人物なのだから。それなのにいったいどうしたんだ。
――なまめかしい。
そう思わなかったか。自分の視線の動き、意識の向かう先に気づき私はおののいた。
「最初は普通に見える人がだんだんおかしくなっていくの」
かわいい、かわいいと誉めてくれる相手が自分に夢中になっていく。
――なんと美しい。
――いつまでも変わりなく、そのままの小さく愛らしい姿で。
――自分だけのものになってほしい。
――他のやつらに目を向けないでほしい。話しかけないでほしい。
クラスメイト。クラブの先輩。担任教諭。馴染みの店の店員。近隣住民。理沙嬢からすればただ普通に挨拶や会話を交すだけなのにだんだんと相手の目の色が変わってゆく。ごく普通の親切だった人々が
――この子が誘ったんだ。
常軌を逸してしまう。
「まだほんとのおうちにいたころ、お風呂から上がって、タオルで髪拭いてたら男の人が窓開けて入ろうとしてて、ぎゃーって叫んだあと、お母さんがきてくれるまでちょっと時間があった」
声が震える。理沙嬢は硬い表情のまま語り続けた。
「ぎゃーっていったらその男の人、窓の途中で入るのをやめたんだけど、そのまま早口で話しつづけたの。すごく不気味だった。……今日は覗くだけにしてやるって。この家なんて、入るのは簡単だ、次は必ずヤるって。子どものくせに熟れていやがるって。――怖くて浴室に戻って鍵をかけたんだけど、外でまだ何かいってて、どこか隙間があってその人が入ってくるんじゃないかと思って、怖くて。でもそのときは何をいわれたのか分からなくて、あとから、あとで、意味が分かったら」
堰を切ったように理沙嬢は泣きはじめた。
うわあああああ。
ああああああ。
ああああああ。
傷口をめりめり開き内臓をさらけ出すような泣き声が浴室の壁に、天井に、床に跳ね返る。飾りをかなぐり捨てた波動がうねり、こだまし、私の耳を、肌を叩き揺さぶる。
涙が私の目からもあふれる。
悔しい。こんなかたちで心を蹂躙され続けていたなんて。せめて意味が分からないくらい幼い子であれば。――いや、たとえことばの意味が分からない幼子が相手であろうと、狡猾に未知という防御をかいくぐり這い寄る。悪意とはそういうものだ。
しかし悪意もまたこの子どもの生きる世界の一部であり、どんなに力を尽くそうとも汚穢とかち合う可能性を排除できない。私にできることはただ無防備に悪意に晒され汚穢にまみれることのないよう、強く育つよう慈しみ祈るだけだ。
なぜこんなに私は無力なんだ。何とかしたいと強く強く思っても願っても、どうして守ることができないんだろう。
うわあああああ。
ああああああ。
ああああああ。
こんなの、何もできていないのと同じじゃないか。悔しい。しかし何もことばをかけることができず、私は慟哭する少女を抱き寄せ、背中をさすった。泣きやまなくていい。好きなだけ泣いていい。私もしゃくりあげているからことばにできないけれど、せめてそれだけでも伝わるといい。なだめ泣きやませるためだけでなく、仕草はさっきのケイさんのように、ただただ少女の背中を撫でつづけた。
どのくらいそうしていたろうか。お互いの嗚咽がおさまってようやく、縋り絡めていた腕を解いた。
「あのさ、しおちゃんって呼んでいい? 詩織ちゃんだから、しおちゃん」
「しお? 調味料みたいだね。そういうあだ名は初めてだね」
「いや?」
「いやじゃないよ。理沙嬢だけだ、そう呼ぶの。特別な感じ」
「そっか、ボクだけか。なんだか嬉しい」
脱衣所でタオルをつかいながら語り合う。
「しおちゃんさ、もしかしてボクのこと小学生だと思ってた?」
「ええっとその、うん、思ってました」
「やっぱりね」
ぐいぐい、とバストを集めブラジャーのカップに押しこみながら理沙嬢は苦笑した。すまぬ。小学生だか中学生だか知らんが近頃の子どもは発育がいいのね、なんてさっきまで思ってた。
「ボク、十六歳。もう行くのやめちゃったんだけど高校生だったんだよ?」
身長がちっこいボクっ娘の理沙嬢はあと数年で大人だけど、つまるところ今のところまだ子どもってわけだ。いろいろ事情がありそうだがそれは置いておいてひとまず夕食だ。おなかが減ってぐうぐう鳴っているので。
私のために用意されていたのはつんつるてんの浴衣だった。一名を除き乙女たち全員、私よりずいぶん背が低いからなあ。足首が露わだが仕方ない。サイズの合う服はなさそうだ。
離れから土間へ戻ると、ケイさんが厨房から顔を出した。
「ずいぶん丈が短いですね。寒くありませんか?」
私の足下を見て苦笑いする。今のところはだいじょうぶと応じると、彼は私の頭に載せていたタオルを外した。後頭部の傷痕や不揃いな散切り頭が目に入らないわけがないが、それに気をとられたり動じたりする様子は見せない。エプロンのポケットから手ぬぐいを取り出し、ちょいちょいぐるぐる、たたんだり巻いたりして私の頭にかぶせてくれた。
「これで帽子の代わりになるでしょう」
これはよい。さすがに短すぎる髪が気になっていたのだけれど、これならば帽子のようにも、濡れた髪が滴を撒き散らさないための配慮のようにも見える。礼をいうと、ふんわり笑い返してくれるものの目をあらぬ方へ泳がせる。うーむ、また困らせちゃってるのかな。私もちょっと困ってるんだけどな。今日出会ったばかりの私が困らせているのか、それとも過去の何か、誰かと私の何かが重なってケイさんを困らせているのか、分からないから。
「しおちゃんいいなー。けーちゃん、ボクも、ボクも!」
「よし、理沙ちゃんにも手ぬぐいかぶせてあげよう」
エプロンのポケットからもう一枚、手ぬぐいが出てきた。きゃっきゃとはしゃぐ理沙嬢につられてケイさんが笑顔になる。私も笑みを抑えられない。
給食係みたいだね、そうだねと笑い合いながら三人で鍋やら刺身やらを載せたワゴンを押して食堂へ向かった。ケイさんに子犬のようにじゃれつく理沙嬢の姿にさっきの慟哭の名残はない。




