第一話 解封
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり 与謝蕪村
高野詩織、三十五歳。私の人生、わりとついてない。
なんとか第三志望の大学に現役合格し進学できたまではよかった。講義試験レポートサークルバイト、あれよあれよと時は経ち、人並みに頑張っていたつもりだけど所詮人並み、それでも一流とはいえずとも中堅の専門商社から内定をもらい、春からは社会人ね、初任給で何か両親にプレゼントして泣かせたれ、と思っていたら交通事故で両親が他界。私が泣かされた。
そこからとにかく忙しかった。
卒業旅行の手配がどうのと浮かれる気力も暇もなく、卒業論文やら口頭試問やらをなんとかこなし相続関連の手続きやら何やらに奔走していたら「クリスマスのプレゼントももらえなかったしデートも卒業旅行もキャンセルされた」と顔に似合わずロマンチストなイベント厨彼氏にフラれた。謝恩会で別の女といちゃいちゃしていやがった。
社会人になったらもっと忙しくなった。
げっそりやつれたまま入社、手痛い社会の洗礼に晒されやっと仕事を覚えたと思ったら根っから日系企業だったはずの会社が外資系グループに吸収合併された。大幅なシステム改変の波に揉まれくるくる煽られ、残業出張朝イチ会議何でもござれで働き通して気がつけば三十代も半ば。優秀だけど気まぐれな上司や何かと誉めないと動かない後輩、泣き虫の部下に囲まれてこれからもお局扱いされてこのまま定年まで突っ走るのかな、と思っていたら会社がなくなるという。ちょっぴり色のついた退職金をもらって御役御免となった。
婚期はそこはかとなく逃しているけれど相手がいないわけでなし、異業種交流会で知り合い長年交際してきた恋人に「リストラされちゃった。結婚しようかな、てへ」と持ちかけてみれば、もじもじしやがる。いい年こいて照れるなよう、でなく、よくよく話を聞いてみれば先頃運命の女に出会ったとかで、こちらも御役御免となった。
落ち込んでいるときは動物園に限る。
そう主張する友人に連れられて私は動物を眺めに来ている。暦の上で春が来ていても東京にはまだ冬が居座っている。天気はよいが寒い。
「リストラの上に失恋とは――さんざんだねえ」
透明のアクリル板の向こうを熱心に眺める態で友人が切り出した。
「まあね。放置プレイが過ぎちゃったかね」
ふふん。友人はこちらを見ずに笑った。
一見冷たいようだが、不快ではない。「怒っていいと思うよ!」と激昂する友人もいたのだが、熱すぎてやけどしそうだ。散々な目に遭っている現在、正直なところこの「ふふん」ぐらいの他人事扱いが私にはちょうどいい温度だ。
「ヤマアラシのジレンマって知ってる?」
アフリカタテガミヤマアラシ。アクリル板の向こうにいる動物の名前だ。背面を白黒まだらの棘に覆われた攻撃的外見のわりにこちらへ尻を向けるヤマアラシの寝姿は至ってのんびりしており警戒感はうかがえない。
「ヤマアラシってほら、棘だらけじゃない?」
身を寄せあたため合いたい。でも棘でお互いを傷つけてしまう。触れ合いたくても触れ合えない。それをヤマアラシのジレンマという。
「――どう見てもリア充だよね。ぴったりくっついてるもん、この子たち」
「そりゃそうだ。これは生態上のジレンマじゃなくて哲学上の命題ってわけ」
棘は自意識を守る鎧。外からの侵入を許さず弾き返す。でもそれでは相手に自分を知ってもらえない。同じく棘に覆われた相手の心に触れることもできない。
「詩織と似てるかも」
「そうかな」
「意固地になってひとりで抱えこんだりとか」
女性にしては背が高めだからだろうか。それとも愛嬌がないからだろうか。私は友人たちの間でクールなキャラで通っている。自分では特に感情を押し殺しているつもりはないのだが、続く不運に淡々と対処しているように見えるらしい。一日いちにち、とにかくやらなければならないことをこなすので精一杯だったんだけどな。
「頼ってくれればいいのにっていってたらしいよ、あいつ」
「そうなんだ」
自分が他人からどう見えているか、元カレがどう思っていたか、気を回す余裕などなかった。
「私は詩織からも配慮が必要だったんじゃないのと思うけど、やっぱりあいつが悪いよね。愚痴を聞いてくれた女の子とくっついちゃったんだって」
「うっわ、ありがち」
デートしてくれない、プレゼントくれない、旅行行けないなどと別れ話になったとき元カレからさんざん責められたんだが要するに次が控えていたから急いだってわけだ。
ふふん、リア充どもめ。
どこからどこまでが片方のヤマアラシの棘なんだか分からないくらいぴったりくっついてすやすや眠るリア充ならぬリア獣たちを眺めていたらどうでもよくなってきた。
すこーんと晴れた空にきんきんと冷えた空気。心の隅でわだかまっていた未練が溶ける。葉を落とした木々の枝先でふくらむ芽がほんのり色づいているのに気づいた。春の気配だ。
そうだ。いつまでもめそめそしていられない。仕事、探さなきゃ。
友人と別れ帰途につく。履歴書用の証明写真を撮り、銀行へ行って本屋さんに寄って新刊やら雑誌やらの入った袋を提げてぶらぶら歩いた。かなりガタが来て狭いけど夏になると風呂上がりに缶ビールを開けて涼むのにぴったりのちんまい縁側があるのが自慢の我が家がごうごうと炎に包まれ……って、
「なんじゃ、こりゃ」
開いた口が塞がらないというか実際は開けていると煙で咽せちゃうんだが、何がどうなってこうなった? ちょちょ、ちょっと、なんでうち、燃えてるんですか? 縁側のあたりだけでなく家の中の至るところに火柱が立っている。おろおろしていると
「死ねええええええっ」
後頭部にがすっ、と衝撃が来た。煙と煤の立ちこめる中、私は意識を失った。
* * *
散る。視界に朱が散る。
セピア色の、日焼けした古い写真のようなモノトーンの世界。そこだけが朱い。
散る。鮮やかな朱。
やめて、やめてやめて。
ああ、酔う。血のにおいが濃い。
* * *
痛々しい傷、その中央から夥しい数の触手が飛び出しのたうちまわり、その人を切り裂く。
――詩織。
いやだ、こわい。こないで。こっちにこないで。こわい。
* * *
払っても払っても、赤黒い闇がねばねばと私にまとわりつく。不快だ。それなのに闇はあたたかく私を包む。その泥濘から私は離れられない。
これは夢だ。分かっている。現実じゃない。
私は泥濘の中でもがきつづけた。
* * *
青く冴えた空。着々と春が近づく里と違い、山はまだ冬だ。ところどころ雪が残る。陽光の届かない林の奥で影がふたつ、対峙していた。
ふう、うううううううッ。
からからから、からん。
影がぶつかり、離れる。幾度も幾度も衝突を繰り返したのち、影のひとつがゆらりと姿を変え立ち上がった。
長身の男だ。痩せた身体、蒼白い肌に蚯蚓腫れが縦横に走っている。
「いつまであそこにいるつもりだ」
もうひとつの影は答えない。
からからからから。
忙しない威嚇音と唸り声が聞こえてきた。
「居心地がいいか、それとも――異能を御しきれないお前には都合がいいか」
暗がりに沈む影がしゃあああ、と大きくふくらんだ。
「は、ははは。反論したくてもその姿ではな」
ひとしきり嘲笑って、男はかたちを改めた。
「そろそろ封印が解ける」
暗がりの影がさらに大きくふくらむ。
からからからから。
しゃ、しゃああああああッ。
「なあ――早く見切りをつけろよ。また居場所を失う羽目になる」
暗がりでぎらりと一対の光が閃く。獣の目だ。
「止まっていた時が動きはじめる。あそこはもう長くない。警告したからな」
男がすう、と姿を消した。木々の向こうで落ち葉をかき分け去る乾いた音がする。姿は見えない。しかし枯れ葉を鳴らすその音は人の歩みとは異なっていた。忙しなく這うような音を立て素早く離れていく。もうひとつの影ももどかしげな唸り声を上げ姿を消した。小暗い林を冷たい風が渡る。
* * *