始まりの終わり
「くそっ」
と、ノランは吐き捨てると、悲鳴――それも皿を落としたときに上げるようなものではなく、死を本能的に察知したときにあげるような悲鳴――というあまりにも非日常的な人の声に動揺して動けずにいる住民を無視して、駆け出した――と同時に、恐怖が伝播するように、悲鳴や怒号をあげる人の波が押し寄せた。その悲鳴や怒号の中に「盗賊」という言葉が含まれていることから、恐怖の根源は言うに及ばないことである。
本通りがその波に呑まれて、狂乱の坩堝と化すには一瞬もかからなかった。
恐怖にまともな思考ができず、ただ押し寄せる人の濁流に呑まれる人々に弓を持った男共が道を塞がれて、思うように進めないようだった。呼び掛けるようにして宥めようとしているが、到底彼等の耳にその声が入ることはないだろう。
ノランは、その様子を流し目に見ながら、彼等は間に合わないだろうと思った。
そのノランは、その二の舞を踏まず、道を塞ぐ者を突き飛ばしたり、時には殴って道を作った。殴られた者がすぐに立ち上がって怒声を上げることができていることから、手加減はしているようだった。
誰もが認めるお人好であるノランではあるが、彼の中には確固たる序列がある。すべての人を等しく愛する、もしくは優しくできるのは、聖人君子とそのような人物だけであり、ノランの場合、彼はどちらにも属さない。
この不平等なお人好は、彼が一人の女性に優しくすると、他の女性に睨まれるという特殊な環境で育ったために他ならない。
彼は序列を作り、高い者に対しては、不興を買うことになっても世話を焼き、低い者に対してはそれほど進んで世話を焼くことはない――高い者は、当然ながら、家族とミリアであり、低い者は、彼を追い回す一部の女性陣である。
そんな序列は、非常時に最も露骨になる。
彼は家族、それとミリアの安全のためならば、平気で人に暴力を振るうのである。
そういう意味では、彼は心の中に天秤を有していると言える。
更に、彼がお人好なのは、その厳密な天秤の所為であり、自分は容姿だけの取るに足らない人間であると思うが故に、天秤に掛ける価値もないと勝手に決め付けているが故に、手を煩うのが自分のみであるとき、彼は進んでどんな人の面倒事も引き受けてしまうからなのだということも言えた。
それはさておき、その天秤が功を奏し、彼は一分も掛からずに目的の場所にたどり着いた。
「リシア!」
ノランはノブを引きちぎらんとするかのような勢いで扉を開け放った。
「お兄ちゃん!」「ノランお兄ちゃん!」
ノランの声に居間の真ん中で抱き合うようにして震えていた二人、リシアとリーラが状況に似つかわしくない明るい声を返した。よほど安堵をしたのだろう。薄い板を挟んだ向こう側から絶え間無く聞こえる狂気を孕んだ悲鳴や怒号に平然としている方がおかしいと言うものである。
そして、安堵したのはノランも例外ではなく、彼はリシアに飛びつくように抱きしめた。
「大丈夫か?怪我はないな?」
ノランの問いにリシアは放心して頷くだけだった。自分から抱き着いたことは数え切れないほどあるが、ノランから抱き着かれることは初めてだったようで、リシアは茫然自失の態だっだ。
この妹思いのノランを見れば、ノランが先程家族同然の村の住人に、道を開けるがために、手加減はしたものの、容赦なく暴力を加えた者とは想像できないだろう。それほどまでに彼は、リシアが心配だったと言える。
その証に、ノランはリシアしか眼中になく、まるでリーラの存在には気づいていなかった。
「ん?リーラもいたのか」
ノランが気付くのは、リーラがリシアとは別の理由で、つまり詳しく説明すれば、綺麗に無視されたために引き起こした放心状態から回復して、控え目にノランの服の裾を引っ張ったときだった。
ノランの物言いは酷く、リーラの家であるのだから、リーラが居てもおかしくないのであり、彼の口にした疑問の言葉がおかしいのである。
それでも、リーラはめげずにノランの問いに頷いた。
「ついて来るか?」
ノランは、抱きしめていたリシアから離れ、家を見回して、彼女の両親の姿がないことを確認すると、言った。
それは、大人からすれば、もののついでに助けてやるといった風に聞こえたかもしれなかったが、六歳児にそんな穿った物の見方はしなかった。
リーラが素直に頷くと、ノランは何も言わずに、そして言わせる間もなく、リシアとリーラをそれぞれ軽々と肩に担いだ。
端から見れば、彼こそが盗賊である。
しかし、そんなことを露ほども気にしていないノランは、そのまま開け放たれたままだった扉から飛び出していった。
そして、来たときと同じ要領で、次なる目的地に突き進んだ。ただ、違っていたのは、両肩にリシアとリーラを担いでいるので両手がふさがっているために、殴らずに、手加減した横蹴りで道を作っていったことだった。
それを肩に担がれた二人は眼を丸くしながら呆然と眺めていた。
ノランは、着実に目的地との距離を縮めていたが、彼は突然足を止めると、方向を変えて走り出した。
「母さん!」
「ノラン!リシア!それにリーラ!」
その人々を掻き分けた先にいたのはリアンゼだった。
ノランの当初の目的地はリアンゼがいるであろう自宅だったが、その道の途中、彼は自分と妹を呼ぶ声を悲鳴や怒号の中で捉えて、進路を変えたのである。
考えてみれば、リアンゼが自宅にいなかったのも当然で、子を心配しない親はいないのだから、リアンゼが彼等を探し回っていることは想像に難くないのである。
「大丈夫かい?怪我はしていないだろうね?」
リアンゼは、ノランの周りを一周するようにして、怪我がないか確認しながら訊いた。訊くのならば、確認は必要のないことであるが、それでもするのが、リアンゼであり、親なのであった。
「ああ、俺もリシアもリーラもしてねえよ」
それをノランが嫌がるはずもなく、リシアとリーラを下ろして、されるがままにしている。
「そうかい」
リアンゼはノランの言葉に明らかに安堵していた。
だが、次の瞬間にはその安堵は消え失せていた。
「エドルドは……見たかい?」
三割希望と七割諦念の色を呈した目でリアンゼがノランに言った。
「見てねえし。大丈夫なのかもわからねえ」
それに対してノランは、ありのままを答えた。その時のノランの眼は、リアンゼから逸らされていた。リシアとリーラも雰囲気に釣られようにして俯いて足元を見詰めていた。
「……そうかい。まあ、あいつのことだ。生きてんだろうね」
それでもリアンゼは、顔に一瞬だけ陰りを見せただけで、次の瞬間には、明るい声で続けた。ノランはその無理のある声に胸が握り潰されるような錯覚を覚えた。
牛舎にいるエドルドが無事である可能性は限りなくないに等しかったからである。
というのも、この村が山に囲まれているのは前述の通りで、その山々を抜ける道は一つしかなく、村からその道の入口までの途中に牛舎があるからだ。
盗賊がその道を使ったならば、回り道をしないかぎり、牛舎を視界に収めるはずなのである。
しかし、それを口にする程ノランは浅慮ではないし、リシアとリーラは幼いとは言っても、口にしていいことと悪いことのおおよその分別はついていた。
ノランが苦しげに顔を歪めて、黙り込んでいると、場を持たせるためか、それとも他意などないのか、リアンゼはおもむろに口を開いた。
「これからどうするんだい」
と、問われてノランは、そんなことも考えていないことに気付き、状況確認のために見回した――そして、気付いた。
先程までの濁流の流れが止まっていたのだ。
だからこそ、彼等が道で流されずに済んでいるのだから、すぐに気付くようなことなのだが、生憎ノランは人の濁流などに微塵も意識を割いてなどいなかった。天秤に掛けるまでもなく、ノランは彼等を切り捨てていたのだ。
ノランは気付いていなかったが、彼がリーラの家を飛び出したときにちょうど濁流の進行方向から再び悲鳴が上がり、流れが反転していたのだ。そして、その流れも相殺されるようにしてやがて止まり、村の本通りの真ん中で人々が滞留しているのである。
その人々には、泣き崩れている者、泣き崩れている者を慰む者、無益な言い争いをしている者、その仲裁に入ろうとしている者、静かに啜りなく者、ただ死を待つように虚ろな眼で地面を見つめる者、そして何の根拠もなく、無責任に助かると言い張って、みんなを励そうとしている者が混在していて、ただただ混沌の様相を呈していた。
だが、それでも場が少しでも静かになったのは、他でもなく、人々を支配していた狂乱が悲壮感に取って代わっていたからだった。
狂乱は人々を飲み込み、悲壮感は人々を押し潰すのだ。
「どうしたんだ?」
ノランは誰に聞かせれるわけでもなく、ただその問いを零した。
「包囲されたんだ」
その問いに弓を持った壮年の男が答えた。その男は、先程ノランが話し掛けた男共の中の一人だ。顔は肉が削ぎ落とされたように頬骨が浮き出ていたが、不思議とやつれているようには見えず、適当に切られているようである乱れた髪は一本一本太く、白髪の一本もなく、生気に満ちていた。頭部を除いて唯一肌が露出している弓を持つ腕は浅黒く、酷使されたのか傷が目立ったが、筋肉が盛り上がっていて、贅肉は毫末もなかった。
ちなみに、他の男共の姿はない。
壮年の男は、しゃがみ込んで、そばで泣き崩れている二十歳前後の男を無言で慰めていた。その泣き崩れている男は、妻か娘と思われる女の名前を繰り返し呟いていた。
「包囲された?」
そんな男に一瞬自分の姿を重ねてしまったノランは、そこで初めて恐怖を感じていたが、それを噫にも出さず、少し声に驚きの色を滲ませて訊いた。
驚いているのは演技ではなく、事実驚いていて、話に聞く盗賊――この村で生まれ育った者は当然ながら盗賊を直接見たりはしていないが、移り住んできた者から聞き知っている――が、包囲というような回りくどいをことをするのか疑問に思ったのだ。
なぜなら、彼は、盗賊というものは略奪や破壊の限りを尽くす非道なる者の集まりだと聞いていたからだ。
それならば、すぐに村を襲撃して金目の物を奪い、家に火を放ち、邪魔な者を始末するだけでいいものを、彼等はわざわざ包囲をして誰も逃がさないようにしている。それは、まるで略奪を目的とせず、殺戮を目的にしているかのようである。
それに加えて、村人が百にも到底及ばないような零細な村と言えども、本通りを挟むように家が軒を連ねているために細長いコラナ村を包囲するには相当の数の人員が必要となるだろう。それを成し遂げているというのだから、盗賊の規模はそれなりに大きいのだろう。
だが、だとしたら遠路遥々こんな村を襲撃して、割が合うのか甚だ疑問である。山に囲まれたこの場所にはこの村しかなく、通りすがりにやってこれるような場所ではない。しかも、村への道は、山を越える険しい道だけで、山を越えるのも相当な労苦を伴うだろう。
ノランは、この村にはそれほどにも骨を折って襲撃する価値はないと思い至ると共に、拭えない不審感を抱いた。
それ故の驚きだったのだが、
「ああ。もう、逃げ道はない」
それに気付く者はおらず、壮年の男は、ただノランがその事実に驚いているだけだと思ったのだ。
「諦めが早えな」
しかし、ノランは、誤解されていると知りながらも、その誤解を解かずに、壮年の男に言った。ノランが自信の抱えている疑問を男に投げ掛けたところで、無意義なのだ。盗賊を見たことも無いかもしれないコラナ村の住人に聞いたところで答えられないかもしれないし、答えられたところで今の状況を打開できる情報を得られそうにないからだ。
「ははっ。そう言われても仕方がない。俺達にできることはない」
壮年の男は投げやりに言った。心なしか顔にも疲労と共に諦めの色が窺える。
「戦う前から諦めるのかよ?」
そんな男をノランは、怒気を孕んだ声で責めた。その声は隠然たる迫力を秘めていて、そんな声を一般人に向ければ、怯むに違いない――壮年の男は一般人ではないのか、どこ吹く風といった感じである。
そんな怒気を剥き出しにするノランをリアンゼやリシア、リーラに加え、キリエが心配そうに見詰めている。
キリエは、悲鳴が上がったとき、祖母といたのだが、濁流に呑まれてはぐれたのだった。濁流がなくなってから祖母を探していたのだが、たまたまただならぬ気配を発しているノランを視界に収めたために、リアンゼ達とは少し離れたところで立ち止まり、彼を見詰めていた。
キリエを含めた四人は、ノランが怒りを露にする場面に遭遇したことがないわけではなかった。とは言っても、怒ることは滅多にない。からかわれたりして剥くれることは多いが、怒り心頭に発することは滅多にないのだ。
滅多というのは皆無ということではないという意味であり、彼は家族や大切な人に影口や悪口を叩かれたり、怪我を負わされたとき、烈火の如く怒るのである。
彼を知らないものであれば、ノランの形相を見て、堅気の者とは思わないだろう。しかし、よく知る者から見れば、その時のノランは、他人に対してというよりかは自分に対して怒りの矛先を向けているように見えるのだ。
それは事実で、その証に、彼は加害者に怒りをぶつけたことは一度もない――滅多にではなく、皆無である。
彼は事故、もしくは事件を未然に防ぐことのできなかった自分を、理由の如何を問わず、責めるのだ。
それを知っている四人は、不安な面持ちで、ノランを見詰めていた。
「諦めてはいない」
「なら戦うのか?」
「戦わない。ただ、待っているのだよ」
「何を待ってんだよ!」
要領を得ない男の話に苛立ち、その苛立ちを隠そうとしない声で言った――その時であった。
ノランの背後から悲鳴が上がったと同時に場は水を打ったように静まり返り、悲鳴がその空隙を埋めるようにこだました。
おもむろに振り向いたノランの眼には、大通りの向こうからこちらに悠々と歩み寄るコート姿の者がいた。コートはフードまでついていて、全身を覆っている。そのために、正体はまるでわからなかった。
「これをだよ。生き残れるとしたらこれを利用するしかない」
と、言いながら、弓を持った男が立ち上がり、そのコートの者に油断なく弓に番えた矢を向けている――しかし、向けているだけで射る気配はまるでしない。
ノランは、それが自分の問いに対する答えだと気付くには半瞬必要だった。
「どういう意味だ?」
コートの者から一瞬興味が壮年の男の発言に逸れたノランの声は訝しげなものに変わっていた。
「何故包囲をしたのかは、さっぱりだが、包囲しただけで攻め込こもうとしないなだから、あちらに何かの事情があるのではないかと思ったのだよ」
「なら、あれが事情とやらを解決しに来たということか?」
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。こんなことは初めてなんだ、何とも言えない」
「……盗賊をよく知っているような口ぶりだな」
ノランは、彼と話し、観察することで、やや前の時点で彼の前職に薄々感ずいていたが、確認の意を込めて男に訊いた。
「ははっ。自慢ではないが、この村にすむ前は傭兵をやっていてね、盗賊とはよく殺し合いを演じたものだよ。あの手の者は、数と口ばかりの雑魚の集まりだった」
男はそれに対して、状況を忘れたように、懐旧の情に浸り、口数を増やしていた。
「だからこそ集まるんだろ」
「ふっ、違いない。だが、今、その数の強さを思い知らされているようだ。嫌気がさして、わざわざこんな僻地にある村に来たが、結局私は逃れられなかったのだな。ゴミくずの命とは言えど、数え切れないほど葬った私も同じ最後を迎える運命ではないかと思うのだ」
「懺悔は生き残れたときに言え。それと、お前の罪滅ぼしに俺の家族を巻き込むな!死ぬのなら勝手に一人で死んでくれ!」
ノランは他人事のような壮年の男に怒鳴った。
「『俺の家族』か。まるで自分を含んでいないような言い方だな」
「だから、どうしたんだ」
「……なんでもない」
場違いにもノランと壮年の男が口論と言っても差し支えがないやり取りをしている間もコートの者はゆっくりとした足取りでこちらに向かっていた。
「お前が盗賊の長か!」
男は、ノランとの口論を打ち切ると、空気が震えていると感じるほどの声量でコートの者を問い質した。もし、住民の中に百獣の王たる獣を知っている者がいれば、その声はまるでその獣の咆哮を彷彿とさせていただろう。
その声にはコートの者よりも村の人々の方が驚いた程で、先程まで、よく言えば冷静、悪く言えば諦念を抱いていた男の声だとは思えなかったノランは二重に驚いていた。
コートの者はその声に反応らしい反応も見せず、ただ立ち止まっただけだった。
「私は諸事情により名は語れませんが、便宜上、代理の長とでも思ってください」
そして、飄飄とコートの者は答えた。
「諸事情か」
と、言ったのはノラン。
「ならば、その諸事情を拝ませてもらおうか」
と、言ったのは壮年の男だった。
そして、それと同時に壮年の男は照準を少しずらし、矢を音もなく放っていた。
ノランを含めた誰しもが驚き、声を漏らす者がいる中、その矢は揺れる事なく、予め定められていた点を通るようにして、コートの者の僅か頭上を、別の言い方では、被っていたフードを引き剥がすように射抜いた。
射抜かれたフードは綺麗に真っ二つに引きちぎれ、隠れていた顔が露となった。
「盗賊というのはあんな小綺麗な顔をしているのか?」
ノランは、田舎の村に生まれたにも拘わらず美形である自分を棚上げにして、壮年の男に訊いた。勿論壮年の男の腕に驚いていたのだが、露となった顔の方に彼は違和感を覚えたのだ。
コートの者の顔はすらっとしているものの、面長というわけでもなく、さわやかという言葉がしっくりくるようなものだった。
それに加えて、自分の頭部が射抜かれると思ってしまうような軌道を矢がなぞったというにも拘わらず、その顔にはまるで驚きの色を窺えず、口元には無機質な笑みが浮かべられていただけだった。予めフードを狙っていたと知っていたかのようだった。
「いるかもしれないが、俺が知るかぎりでは、いなかった。もっと芋のような顔をしている」
壮年の男は何時ともなく番えた矢をコートの者に向けながら、言った。
「だそうだ、小綺麗な盗賊の長代理」
コートの者は、そう言われても我関せずとばかりに、さわやかな笑みを口元に貼付けていた。
「御褒めの言葉として受け取っておきましょう。それよりも、取引をしませんか?」
「取引?」
壮年の男は、自分の聞き間違いではないことを確認するように訊いた。
「はい。あなたがたには自分の命と私たちが預かっているあなたがたのお仲間の命を取引材料にしてもらいます。抵抗した者には、不本意でしたが、少し手荒な手段を取らせていただきましたが、喜ばしいことに死者は双方出ていません」
コートの者の言葉に泣き崩れていた数人の村人が、無意識のうちに喜びの声を上げていた。捕われて殺されたと思っていた大切な人が、まだ生きていると知ったのだから、危機的状況を脱していないにも拘わらず、喜びに浸ることを責める者はいないだろう。
「それは取引とは言わねえんだよ!」
しかし、それに対して、ノランの反応は攻撃的なものだった。勿論エドルドが無事である可能性は、コートの者も言葉を信ずれば、多いにあるし、それに喜びを感じないわけではなかったが、それをコートの者の前で表に出すことは、彼の自尊心が許さなかった。家族を脅かす者の前で喜びを見せることは言語道断だった。
「どう認識してもらっても構いませんが、取引というのは概して、立場が平等のときに行うことではありません。取引がなされるとき、そこには見える形で、ないし見えない形で、どちらかが不利な立場なのです。後学のために覚えていた方がいいでしょう」
喰って掛かるノランに対し、あくまでコートの者は説明口調で淡々と述べて、対応している。
それが気に食わず、ノランは顔を怒りで歪める。
それを見て満足したように頷くと、コートの者は言葉を続けた。
「私の取引材料をお伝えしたい気持ちでいっぱいなのですが、私どもが預かっているあなたがたの仲間にもまだお伝えしていないので、ここでお伝えすると、二度手間になるのです。ですから、それを避けさせていただくために、こちらに来てくれますか?」
コートの者が村人の全ての生殺与奪の権を持っているのだから、彼の提案は提案ではなく、有無を言わせない命令であるのは言わずもなのことである。
だが、コートの者は敢えて言葉を続けた。
「勿論、これはあくまで提案で、断ることはできまが、一足先にご退席することになりますので、あまりお勧めはしません。だからと言って、黙って隠れても、既に人数は記憶しましたから、一人でも欠けていれば、わかります。そのときは、連帯責任で、私どもが預かっている者達も含めた全員を処分することになるので、ご注意ください」
そう言うと、コートの者は釘を刺すようにゆっくりと見回してから満足したように頷いて、踵を返して歩き出した。
「待て!いや、待ってくれ!」
その背中をノランが呼び止めた。そのノランの背中を村人全員の視線が集まった。
ほとんどの村人は、ノランが何を言い出すのかと漠とした疑念と不安の念を抱いたが、彼をよく知るリアンゼやリシア、キリエは明確な不安に胸騒ぎを覚えていた。
そして、その不安は的中する。
「何です?」
コートの者は少し煩わしそうに言って、首だけを少し捻って彼の方を見た。
それを確認すると、ノランは覚悟をするように眼をつむり、一拍してからその眼をおもむろに開いた。
それだけで、直立不動の彼の身体からただならぬ気配が漏れだした。それは、眼に見えぬ波動となり、壮年の男を除いた彼の周りにいた人々を退けた。
「俺を殺すなり焼くなりしてもいい。その代わりに俺の家族を、いや村の全員を見逃してくれ」
と言うが早いか、リアンゼとリシアとキリエの三人が斉唱するようにノランの名を叫んで、波動などものともせず、彼のそばに駆け寄った。
しかし、ノランの耳に彼女等の声は届いていない。
「好きなようにしていいということですか?」
「ああ」
ノランは鋭い眼光を眼に宿しているものの、口調や声音に反抗の色はなく、ただ覚悟の色だけが含まれていた。
「ならば、生きたまま腹を裂かれて、臓腑を抜き取られてもですか」
「ああ」
コートの者の言葉を耳にして、その場面を思い浮かべてしまったキリエとリアンゼが上擦った声を漏らしたのに対してノランは、やはり落ち着き払っていた。リシアは、単語の知識量の問題で、コートの者の言葉を理解できなかったが、コートの者が兄の名を口にしたことや母の反応に、不安に駆られて、彼女の何事かと問う視線がリアンゼとキリエの間をせわしなく行き来していた。
コートの者は、一瞬の躊躇いもなく答えたノランに眼を見開くも、すぐに元通りの顔になった。
「その男気溢れる覚悟に賛辞の言葉を贈りたいところですが、元々あなたがたを殺すつもりは毛頭ありません。脅してはいますが、殺すつもりなら脅したりはしないでしょう?」
「…………なら、証拠としてお前が預かっていると言っている他の人々を見せてくれ」
「いいでしょう」
そう言ってコートの者は一度手を叩いた。すると、部下であろう芋のような顔をした盗賊らしい盗賊が一人待ち構えていたように現れてコートの者の後ろで片膝を立て、俯いてひざまずいた。
その動作ひとつひとつがぎこちなく、拙いことから、普段から慇懃な振る舞いなどしていないことが明白だった。
そんな部下の耳にコートの者が顔を近づけて耳打ちをすると、部下は訝しげな顔になったが、すぐに顔付きを引き締めると、慌てて駆け出した。
「これだから盗賊は粗野でいけません」
その部下の後ろ姿にコートの者は、独り言を零した。
「……盗賊の長代理というのはあながち嘘じゃねえみたいだな」
それにノランが感情を出さず返す。
「うん?ああ、そんな設定でしたね」
更にそれにコートの者がさわやかさが一層増した笑顔で答えた。ノランは更に言葉を返すことはなく、真意を探るように黙って彼を睨みつけていた。
そうしている間に先程の部下が村人を引き連れているのが大通りの向こうから来るのが見えた――と同時に、駆け出す者がいた。
すると、綱で結ばれていたように他の人も歓喜の声を上げながら駆け出した。そうではない者は、抱き合って歓喜を体言していたり、喜びに泣いて安堵に腰が抜け動けなくなっていた。
リアンゼとリシアは、駆け出さなかったが、ゆっくりとした確かな足取りで人混みの中で彼女等の方を見るエドルドに歩み寄っていた。そのエドルドは抵抗したのか頬が赤く、痛々しく腫れ上がっていた。
「これで、全員ですね」
それを遠くもなく、近くもないところから眺めていたノランにコートの者が自然な振る舞いで後ろから近づいてにこやかに訊いた。いや、隣にいる壮年の男やキリエにも投げ掛けた問いかもしれない。
「ああ」
答えたのはノランだった。
ノランはこれはただの確認、自身の言っていた全員が揃っているのかに対する確認だと思い、三度見回して答えたが――違った。
それは、ただのコートの者の最終確認だった。
「では、汚らわしい異教徒の処分を開始しましょう。まず死に急ぐ君からにしましょう」
そう言って、彼はコートを脱ぐと、自然な手つきで懐からダガーを取り出し、そのまま三メートル先のノランに向かって投擲した。
呆気に取られていたノランはとっさに動くことができなかった。そんなノランを、横にいた壮年の男がとっさに引き倒そうとしたが、視界の端で、ダガーの軌道上にノランだけではなく、ノランの家族、リアンゼがいるのを捉えて、動きを止めた。
動きを止めたのは、ノランを引き倒して助けたとしてもリアンゼが死ぬかもしれないからであり、ノランなら母を犠牲にしてまで生きながらえたくないと、一瞬で、考えたためだった。
が、ノランに刃は届くことはなかった。
ノランが引き倒されて、リアンゼが凶刃に掛けられたわけでもない。
ただノランの前に庇うようにして彼の方を向いて立ちはだかるキリエの姿があったのだ。
キリエは、コートの者がコートを脱いだときには、言うに言われぬ不吉な予感に衝き動かされるようにして無意識のうちに飛び出していたのだ。それを当然視界に収めていたコートの者だが、彼は別に構わないとばかりにそのまま刃を投擲したのだ。
「キリエっ!」
刃を背中に受けたキリエは力無くノランに向かって倒れ込んだ。それを引き金に喜びに沸いていた周りの村人が再び死の恐怖に染められて狂乱に支配される。それをいつの間にか取り囲んでいた盗賊が蛮声を上げて大人しくさせようとしているが、完全に逆効果を招いていた。
ノランとキリエは、そんな混沌とした周囲とは断絶された世界にいた。
「どうして、俺なんかを庇った!」
「す…きだから、好きだからだよ。…………やっと……言えた……あんなに一緒にいたの…に……一度も言ったこと…ないなんてね」
すでにキリエは虫の息で、咳込むと同時に唇の端から一筋の鮮血が垂れた。
そして、痛みからか、死に対する恐怖からか、好意を抱いていた者を助けられたことからか、もしくは自分に嘘をついてごまかしていた素直な気持ちをやっと伝えられたからか、両の眼からの涙が頬に筋を二つつけていた。
「っ!……そ、そんなことで庇ったのか!」
「そう…だよ。……だって…好きなんだよ?す…きな人を……庇うことなんて……当たり前…じゃない。………だったら…ノランは………ミリアをか……ばったり…………しないの?」
「………………」
「庇…うんでしょ………それと…………同じだよ」
「…………ごめん」
「……なん………で…………謝る…のよ」
「今まで俺はお前に辛いことを言っていた。お前をただの幼馴染みだと思っていた。いまさら何を言ったって無駄だとわかってる。だが、言わせてくれ」
「………そう……おも………うんだったら………い……まから……いう……ことを………きいて………くれ……たら………ゆる……してあげる」
「なんだ?」
「……好き………って…い…って」
「………………………好きだ、キリエ………………………」
「………う…そ……つき。………ふふっ……だ…け……ど………あ……り………が………………」
言い切る前にキリエは瞼を下ろし、満足したような満面の笑みを浮かべながら永遠の眠りに落ちた。
「すぐに皆行くからな。それまで待っていてくれ」
そう言うと、ノランはダガーを抜き、傷口が見えないようにキリエをそっと寝かせて、俯くようにして、脱力したように彼女を静かに眺めた。
「私が庇えばよかった、すまない」
壮年の男が苦しげに呟いた。
「てめえなんかに庇われたって嬉しくねえよ」
それに対してノランは強がりを見せた。
「だが、後悔してんだったら俺の家族をあの糞野郎からだけは守ってくれ」
「……ああ、達者でな」
そう言うと、壮年の男は音を立てずに断絶された世界から去り、ノランを見詰めるリアンゼやエドルドとノランの方に駆け出そうとしてエドルドに押さえられているリシアのいるもう一つの断絶された世界の方に歩き出した。
「話が違うじゃねえか」
その気配を背中に感じながらノランは、振り向くこともなく、黙って立ち上がり、殺気のこもった声を、殺気を帯びた双眸をコートの者に向けた。
そして、怒りを自分に向けていた。
キリエが自分に対し、彼の容姿しか見ていない女性陣が抱いていた薄っぺらな好意とは別の特別な好意を抱いていたことに気付いた途端に胸が張り裂けそうな程に痛惜する自分の身勝手さにノランは怒りを覚えていたのだ。
好意を抱いていた幼馴染みが他の女性と同じ行動に出たことに、結局キリエは、他の女のように自分の内面ではなく、外面しか見ていなかったのかと絶望して彼女を突き放した自分が、今更怒りを抱く資格のない自分が、キリエを殺されて、初めて誰かを殺したくなっている程に怒りに衝き動かされいてることに気付いて嗔意の炎を燃え上がらせていた。
そんなノランとは対極的に冷ややかな眼で、つまらないものを見るような眼で、コートの者はノランを見ていた。
「元々私の話しを信じたあなたが悪い、と言いたいところですが、何を信ずればいいのかわからない状況でしたので責めるのも酷というものでしょう」
「てっ、てめえ」
「それにあなたたちが信ずる悪法のカノンには死した者の魂は瞑界に召され、善人だろうと悪人だろうと浄化されて転生されるのですよね?ならば、死んだとしても何等の問題もないじゃないですか?」
「俺は宗教というものにほとんど興味がなくてよ、他に宗教があることすら知らなかったぜ!なんだ、異教徒ってよ!」
「はぁ?そんなことも知らなかったのですか?ならば、この襲撃は災難でした。まあ、運の尽きということですかね」
「てめえ!それは、どういう意味だ!」
「教える義理はありませんよ。それよりもあなたにもその女の後を追ってもらいましょうか」
今にも襲い掛かってきそうな剣幕のノランなど興味が無いようにコートの者は言葉を続けた。
「くそがっ!!勝手にしろ!だがな、お前も一緒に来てもらう!お前には俺の家族に指一本触れさせねえ!!」
ノランは怒りに眼光を刃以上に鋭くし、八重歯を剥き出しにして咆哮のように言葉を打ち放ったが、
「ごめんな父さん、母さん、リシア、助けられなくてよ。…………先に行ってくる」
それとは打って変わって、彼が振り返って放った言葉は、拍子抜けするほどに優しく穏やかなもので、相好も崩れていた。
「お兄ちゃん!」
エドルドに押さえられているリシアが短い腕を伸ばす。
「ごめん。じゃあな」
そう言って、彼は前に向き直り、笑顔を消し、キリエの命を奪ったダガーを構えた。
そして次の瞬間に、身を低くして地面を有らん限りの力で蹴った。
えぐれた土がノランの背丈まで舞い上がり、地面に落ちるときには、ノランは五メートルあったコートの者との距離を一気に詰めていた。怒りや殺意をそのまま原動力にしたような疾風怒涛の勢いだったが、コートの者は依然として冷静だった。
ノランが突き出したダガーを何時となく右手に握っていたダガーで弾いた。その返す刀でダガーを横凪に払った。
それを、ノランは反射的に腕で防ごうとするのを抑えて、しゃがんで避け、横に転がるようにして距離をとって立ち上がった。
しかし、それを予期していたようにコートの者はノランの目の前に立っていた。既にダガーを振り上げていて、いつでも振り下ろせるのにも拘わらず、待ってあげているようにも見えた。
ノランは次の瞬間に振り下ろされたダガーをぎりぎりのところでダガーを握っている腕を掴んで攻撃を防いだ。
「さっきまでの威勢はどうしたんです?」
コートの者は、例に漏れず、腕を捕まれたことに微塵の驚きも見せず、至ってさわやかな声でノランに言った。
「だまれ」
そして、こちらもやはり例に漏れず、鬼の形相のノランが吐き捨てた。
「気付いていると思いますが、私かなり手加減しているのですよ?それでなんという様ですか。それでは私には触れられても、傷を付けることもできませんよ?」
「るっせえ!わかってねえわけねえだろ!!」
「なら、どうするつもりですか?言っておきますけど、これで私の攻撃を封じているつもりなら大間違いですよ。私には左手もあるのですよ?」
「ああ、わかっているさ。だから、こうするのさ」
と、言うが早いかノランは、掴んでいたコートの者の腕を、コートの者に唯一優っている握力と腕力にものを言わせて引っ張った。
引き寄せることは予想の範囲内にあったコートの者は、引っ張られるがままに左手に何時となく握られていたダガーをノランの腹に突き立てようとした。
しかし、そのダガーは腹に届くことはなかった。
その代わりにノランが掴んでいた方の腕に握られていたダガーがノランの左肩に突き立てられていた――と、形容するのは厳密に間違っている。なぜなら、ノランが自らしたことであるからだ。
その証に、コートの者は初めて終始さわやかな表情を貼付けていた顔を驚愕に歪ませていた。そして、ノランは対照的に一矢報いたと言わんばかりに口元をにやつかせていた。まるで痛みを感じていないようだった。
「そして、こうするのさ」
と、言うが早いか、そしてコートの者のがしまったと思うが早いか、右手に握っていたダガーで、掴んでいるコートの者の腕の手首を貫いた。
「ぎゃぁあああああ!」
コートの者は貼付けていたさわやかな笑顔からは想像できないような濁声の悲鳴を上げて、ノランが腕を離すと同時に右手首を押さえてうずくまった。その声に村人の相手をしていた下っ端の盗賊が駆け寄ろうとした。
だが、意地なのか、うずくまったままコートの者は手の平だけを突き出し、彼等を拒絶して、
「君達は包囲を解いてはいけません!異教徒共を逃がしたらどうするのです!!」
と地面に向けて叫んだ。
「……ざまあみろ」
その一部始終を、ノランは肩に刺さったままだったダガーを抜いて、上から見下すような眼で静かに見詰めていた。
「お前がどんな強いやつか知らないけどな、ざまあねえな」
「それは、あなたも同じでしょう。いや、それでも私の勝ちです」
激痛に脂汗を滴らせたコートの者は、やせ我慢で、笑顔だけは取り繕って言った。
「どういう意味だ?」
「ふふっ。ははっ、はははははははははははははあ、この探検には毒がたっぷり塗ってあるんですよ!あなたが持っている一度刺さったダガーには毒はほとんど残ってないし、どっちにしろ私はこういうことのために解毒薬を持っているんですよ!!私の勝ちです!!!」
そう言うと、腰に下げているポーチから小瓶を取り出し、蓋を乱暴に取り、吸い付くように小瓶から解毒薬を摂取した。
飲み終わると、それを見せびらかすように左右に振った。
「そろそろ、あなたの身体に毒が行き渡る頃でしょうか?」
既にノランは、四肢の末端から少しずつ感覚を失っていっているのを感じていたが、まだ意識ははっきりしていた。
「さわやかな顔はどうしたんだ?まあ、いいか。言っておくがな、俺はお前を殺せなくてもよかったんだよ。ただ、その手じゃもう使い物にならねえな。それで、あの男とやり合えるのか?」
ノランは背後、右肩を、リアンゼのさめざめとした涙に濡らされ、左肩をだっこしているリシアの目からぼろぼろと零れる大粒の涙に濡らされているエドルドの隣に立つ壮年の男、ダンガン、を振り向くことなく、親指で指した。
「だ、だまれ!私の他に三十人の盗賊がいるんですよ?」
さわやかだった男はづかづかとノランに近づくと、けり倒した。既に力が入らなくなっているノランは木の棒のように簡単に倒れた。
「知っているに決まってんだろ。俺は言ったはずだぜ?お前に俺の家族は指一本触れさせねえってよ。盗賊ごときに奪われるのも身体が真っ二つに引かされるように怒りが込み上げるがな、お前よりかはいいんだよ」
それでも口は普段通りに動いた。
「くっ…………いいでしょう。あなたは毒が身体を蝕んでいくのを感じながら死んでもらいながら、あなたの家族を含めた村人全員の断末魔を聞かせて上げましょう。おい、お前達、今すぐ全員を片付けなさい!すぐに撤収する!」
コートの者は、ことが思うように運ばないことに苛立ち、その苛立ち紛れに部下に叫んだ。
「いいのかぁ?一人ずつ殺るんじゃなかったのですかぃ?」
そんなコートの者に戦々恐々しながら部下が訊く。
「うるさい!私の傷を早急に医者に見せる必要があるでしょう!さっさと片付けるのです!それが済んだら村に火を放て!」
しばらくすると、盗賊の蛮声を背景として絶え間無い断末魔の叫びの合唱が始まった。
無駄だとわかりながら、それに家族の者がないことを願いながら、自分の身体の自由が失われるのを感じながら、胸の中心に燻る炎を感じながら、ノランはまどろむように眼をつむった。