終わりの始まり
遅れを取り戻そうとするかのようにノランは牛舎への道を走った。
この村では助け合うために住宅を密集させ、畑や家畜小屋は離れたところに造るのだ。この地は痩せているため毎年同じ畑を使わず、その年で使う畑は、持ち回りで決めている。
家畜小屋もそうで、餌となる草があまり育たないため土地を小分けにして草の成長を見計らって使う家畜小屋を決めている。そのため村の男手も二つに分けられていて、毎朝二手に別れて畑か家畜小屋に向かう。
職種は家族ごとに決められていて、ノランの家族は無論家畜小屋の方である。家畜小屋の担当は更に豚舎、牛舎、厩、鶏舎と害獣の撃退を担当する五つの班に分けられていて、ノランの家族は牛舎担当である。
走ること五分でノランは牛舎に辿り着いた。
「遅かったな~。まあ、いつものことか。で、今度はどこの女と乳繰り合ってたんだ?」
牛舎の中で、乳牛の相手をしていた、服の上からでも筋肉量がわかるほどに筋骨隆々たる男性は、入ってくるノランに気付き、振り向いて、何気なく言った。
「……父さん」
しかし、ノランは、妹の口にした下品な言葉と同じ言葉を父が吐いたことを見逃したりはしなかった。
「うっ、なんだよ。いきなり怒んなよ」
急に気配が変わったノランに気圧されて、言葉に詰まるノランの父、エドルド。
「父さんもそんな言葉をリシアの前で使ってねえだろうな」
「使って何が悪いんだ?」
「それで変な言葉ばっかり覚えて、嫁のもらい手がいなくなったらどうすんだよ」
一向に悪びれた様子を見せない父を見るノランの目に危なげな炎が燈った。
「それは万万歳じゃねえか!なんせ競争相手がいなくなるんだからな、お・に・い・ちゃん。がっははは」「も~~う」
それに気付かず、エドルドは、その炎に油を注ぐ発言をする。
「父さん」
あくまで、ふざけて通すつもりの父をノランは、逃すまいと、釘を刺す。
「うっ、冗談に決まってんだろうが。気をつけるから怒るなよ」
そんなノランに父は流石に一瞬たじろぐも、
「で、結局誰と乳繰り合ってたんだ?今日はキリエちゃんか?胸でかいしな!それともミケーネか?あいつ旦那が相手してくれねえんで、寂しがってたしな!がっはははは!」「も~~う」
「はぁ~」
今日二度目のため息を盛大に吐くノランの気苦労は絶えない。ちなみにキリエは井戸汲みの時にノランの後ろに並んでいた同年齢の女子で、言わずもなのことであるが、ミケーネはノランにしつこく絡んだ三十代女性である。こういうエドルドの勘のよさがノランの気苦労を増やしているのかもしれなかった。
「まあ、だけど、ノランには心に決めた奴がいるんだもんな?」
ノランがため息をついている横で、エドルドが笑みを見せながら言った。その笑みは面白がっていることを表していた。
「な、ななな、何のことだ!」
動揺を隠すどころか、全面に押し出すようにしてごまかす(?)ノラン。
「あん?気付いていないとでも思ったのか?」
ここぞとばかりに、憂さ晴らしをするかのように、にやけ顔でエドルドは息子を攻め立てる。
「俺は見たぜ。お前がミリアの前でカッチンコッチンになってるのをよ。傑作だったぜ!寄ってくるどんな女にも素っ気ないお前がな、ミリアの手に掛かればイチコロなんだもんな!がっはははは」「も~~う」
「カッチンコッチンにもイチコロにもなってねえよ!勝手なこと言ってんじゃねえぞ!それと、お前、黙れ!」
愉快愉快と、笑い転がる父にノランは噛み付かんばかりに抗議の声を上げると共に、先ほどからエドルドが笑う度に、呼応するように牟牟と鳴く牛を苛立ち紛れに一喝した。勿論、牛はどこ吹く風といった感じである。
「勝手なことだって?言っておくけどな、俺だけじゃねえぜ、気付いているのはよ」
エドルドは更に笑みを凶悪に深める。
「は?」
ノランは最悪の状況を思い浮かべ、虚勢を張ることも忘れ、硬直する。
「みんな気付いてるぜ。気付いてねえのは、あの天然にして鈍感のミリア自身だけだな」
最初の『みんな』の言葉に飛び上がるように反応したノランだったが、後半を聞いてわかりやすいほどに胸を撫で下ろした。
だが、よくよく考えれば、ミリア以外の全員にばれていることも大事で、遅ればせながら恥ずかしさに耳まで紅潮させていた。
ここまでくればわかるだろうが、ノランはモテる。目は切れ長、鼻もくっきりとしていて、田舎で生まれたとは思えない調った顔立ちなのである。短く切りそろえられた髪も毎日洗っているのではないかと思われるほどにさらさらと風になびく。体格も父ほどではないが引き締まっていて、性格も前述の通り、お人好である。
つまり、総合すると、ほぼ完璧な男なのである。
そして、そんな男をほっとく程この村の女性陣は甘くなかった。
ノランが成長して、手を出してもぎりぎり許されるほどになると、未婚の女性陣は競うようにあの手この手で落とそうとしたが、逆にその鬼気迫るような積極性にノランが恐怖を覚えて避けるようになってしまった。
更に悪いことに、ノランは何時でも自然に接してくれるミリアに好意を抱いてしまった。誰から見てもわかる程にミリアに心を奪われているノランを狙う女性の数は減ったかに思われたが、いつまでたっても進展のない二人にヤキモキしたのか、それとも割って入ろうかと思ったのか、女性陣が再び勢いづいたのがつい最近の話しである。
ちなみにそんなノランの妹であるリシアも有望株と評されていたのだが、弱冠六歳でそんな評価を遥かに越える美少女に育っている。
「まあ、気にすんな。ミリアの奴は買い出しに行って当分帰ってこねえんだ。その間に顔を合わせられぐらいにしとけ。リシアにもこんな時期が来るんだろうか」
膝をついて崩れ落ちているノランの励ましもそこそこにして、エドルドはここにはいない娘のことを思って感慨に耽っている。
「う~~む。リシアか。それにしても無事に生まれてくるとは思わなかったぜ」
言い方が生まれてきてほしくないように聞こえるのは仕方がないことで、リアンゼがリシアを身篭ったのは四十代半ばだったからである。この村には産婦人科など気の利いた施設も人もいないために出産は命に関わると近所中に反対されたが、リアンゼは周りの反対を押し切ってリシアを産んだのである。出産の時はよっぽど自分の方が苦痛を味わったとエドルドが言ったほどその場は緊迫していた。
「あんたのせいだろ。酔っただけでなく、やったんだからよ」
なんとか復活したノランが言う。
「うまいこと言うじゃねえか!がっはははは」
呵然として息子の背中を加減せずに叩くエドルド。
「今だから笑って済ませるけどな、今度やったらただでは済まねえからな」
「あったり前だろうが!!またあんな目にあったら今度こそ心臓が止まってしまうだろうが!」
笑っていたエドルドは一転して情けないような声で言った。それには同感するノランはエドルドの言葉を信じることにした。
「んで、父さん。俺は何をすればいいんだ?」
水を満たした水筒を渡し、今日の仕事内容を訊いた。
「う~む。薪を集めて割ってくれ。今年は寒くなるみてえだから、多めにな」
「おう」
と、言ってノランはエドルドに背を向けて、上げた片手をひらひらさせながら牛舎を去ろうとしたが、
「と、その前に忘れてることがあるんじゃないか?」
例の面白がっているようなエドルドの声で足を止められる。
「あん?なんだよ」
からかわれて既に虫の居所が悪いノランは、エドルドが何を指しているのかまったくわからず、更に機嫌を悪くする。声も苛立ちを隠そうとしない、荒い語気だった。
しかし、そんなノランに臆することなく、例のにやけ顔でエドルドは言った。
「べ・ん・と・うはどうした?」
「べ…ん……当…………ねえな……」
冷静に体を一通り見回して、念入りに体を叩いてからノランは一瞬で出たであろう結論を口にした。口にしてから、やってしまったと言わんばかりの顔をして、ノランは頭を乱暴に掻いた。
少しして、己の失態に対する怒りが収まったのか、ノランは一際大きい舌打ちを残して、戸口に向かった。
「弁当は、昼になったら持ってこい。薪拾いは、お前が弁当を持ってきて、二人で食べた後だ。だから、昼までリシアと一緒に居てやれ。俺の方は気にすんな、どうせ今日はすることが少ないからな」
そのノランの背中にエドルドは、命令という名の提案を投げかけた。無論、ノランに拒否権はない。息子のノランは、その真意に当然ながら気付いていて、それに返事する代わりに片手を上げて肯定の意を示した。
牛舎を後にしたノランの足取りは覚束ないものだった。
「あぁー、何でばれてんだよぉぉぉぉぉぉ!」
ノランは俯きながら歩いていて、思い出したように立ち止まっては、溜め込んでいたものを吐き出すように、言ったところで益のないことを叫んでいる。
端から見れば、完全なる酔漢状態だった。
「だったらなんであの人達は離れなかったんだ!」
ここでの『あの人達』はノランを追い回す女性陣を指すのだが、女性陣が離れなかったのは煮え切らないノランに原因があり、ノランの叫びは的外れなのである。
「これからどんな顔をしてみんなに会えってんだ!」
行き場のない怒りが収まりそうにないノランはしばらくこうして怒りを発散させた。
しかし、村に近づくにつれて、彼の意識を支配していた怒りは、自分の恋心を知られている住民に普段通りに接することができるのかという不安に取って代わっていった。
そのためか、彼の叫びは、目に見えるほどに勢いが萎えていき、村を視界に収めたときには既に声にすらなっていなかった。
その時点になると、彼はただ、普通にしていれば大丈夫と、自分に言い聞かせながら、歩を進めていた。
だが、それは村に入ってすぐに無駄となる。
彼の眼に教会が映ったからである。
というのも、その教会は、ミリアが宣教師として仕えているゲルナン教という、魂を司るミルランドルを唯一神とする宗教の教会だったからだ。
その教会を見た瞬間に彼の脳裏にはミリアの様々な喜怒哀楽に富んだ顔の絵が濁流のように過ぎった。
教会は普段から眼にしているが、今回はかなり状況が違っていたのだ。普段通りに接するために意識の片隅にミリアに関する記憶を追いやっていただけに、ミリアの関連するものを知覚した瞬間に、堰を切ったようという言葉通り、彼は、彼女の様々の顔を脳裏に浮かべてしまったのである。
その教会は、教会とは言っても、外見はただのぼろ屋である――この村ではぼろ屋が標準であるが。
しかし、それも当然で、元々空き家だったぼろ屋を内装だけ整えて、教会もどきに仕立てた教会なのだ。
そして、その全てを請け負ったのが、村の男共であった。
ミリアは前述の通り、宣教師で、この村には三年前に布教として訪れたのだが、ミリアは清貧、貞潔、可憐の三文字を絵に書いたような少女で、村の男共の人気者になるには、それほどかからなかったのだ。宗教に興味など無かったこの村がそれを受け入れたのは、言うまでも無く、宣教師がミリアだったからだ。勿論、その人気は、ミリアは意図していなかったことだが、一部の女性陣に良く思われなていない――特にノランを狙う助成陣には。
そんな事情のある教会の前で呆然と佇んでいたノランは、敢なく住民に捕まった。
「どうしたの、ノラン?ミリアの教会の前で、突っ立って」
掛けられた声にノランは、肩を震わせて驚いた。
その声の主はキリエだった。キリエはノランの反応を訝しんで、彼に近寄った。
「な、なんでもねえよ」
「ふ~~ん」
ノランのごまかしきれていない動揺に更に疑念を抱くも、キリエは、それに気付かなかったことにした。
というのも、キリエは来るもの拒まず、去るもの追わずを教訓にしているからだった。この教訓は、ノランが自分に特別な好意を抱くことはないと悟ったときに得たものである。
自分はノランと幼馴染であり、ノランと結ばれる運命にあると信じて疑わなかったものの、周りの女性が自分の意中の人に殺到していることに焦って積極的になってしまった、そして、ノランがミリアしか見ていないことに気付いて初めて、自分の失策に気付くと共に、気付くのが遅きに失したとも気付いたのだった。
それからは、たわいのない幼いときのノランとのやり取りを思い出しながら彼に接し、避けられないように心掛けた。そのおかげで、キリエは、今ではすっかり避けられるようなことはなくなった代わりに、ただの幼なじみの友達という座に甘んじている。
「で、仕事は?」
「き、今日は昼まで無しだってさ。その代わりに、昼までリシアの面倒を見てろって言われたんだよ」
「あ、そう。私はこれから婆ちゃんのところだから、じゃあね」
キリエはそう言うと、さっさとその場を離れようとした。これは、あまりしつこくしないという教訓に従ってのことであり、キリエ自身も少し話すだけで、よしとしている。
「な、なあ」
だが、そんなキリエをノランは呼び止めた。今度はキリエが驚く番だった。
声を掛けたり、掛けられたりするのはよくあることだが、呼び止められたことは、避けらるようになってから今に至るまでのキリエの記憶の中でなかったからだ。
「え?何?」
キリエは、少し驚きながらも、振り向いた――自身ですら気付いていない程の淡い期待とともに。
「お、俺が、ミリアが好きって知ってた?」
「えっ?」
キリエは自分に投げ掛けられた質問を耳にして、時が止まったように硬直していた。
「いやっ、だからさ、俺がミリアを意識してんのってバレバレだったのか?」
その硬直が、ノランは、質問の意図がわからなかったからだと思い、言い直した。
しかし、そうではなかった。
もし、キリエが情緒に欠けていて、動揺などとは無縁の人だったならば、
「知ってたよ」
と、答えられていただろう。
つまり、キリエが硬直したのは、ノランの口から予想だににしなかった言葉が出たために動揺して、動けなかったから――だけではなかった。
キリエが動揺していたのは確かであり、その動揺のために言葉が出なかったのも確かだったが、キリエが動揺したのは、ノランの口から予想だににしなかった言葉が出たからだけではなかったのだ。
キリエが動揺しているのは、呼び止められたという非日常的な出来事に、自分が思わず都合のいい期待をしていたということに気付いて、更にはいまだにノランを諦められずにいることにも気付いて、そして、その諦められない相手から、他人に対する愛の告白を聞かされたことが含まれていると、動揺しながら自覚していたからだった。
そのとき、キリエは、途端に嫌気がさした――ノランには心に決めた相手がいることを知っていて、猶期待をしてしまう浅はかな自分に。
「うん、バレバレ。ていうか、あれで隠せていたつもりなの?ばっかじゃないの?」
だが、キリエは、ノランに不審がられないように、それを噫にも出さず、無理して明るく言ってやった。
普段通りに接しようとするところは、先ほどのノランのようであるが、精神に対する負荷は比べようもないほどの差だろう。
「ほ、本当かよ」
情けなく崩れ落ちるノランは、そんなキリエの精神状態に気付いていない。というか、ノランは自分の質問自体がキリエを致命的に傷つけていることにすら気付いていなかった。
ノランは、ただ気軽――ここでは手軽と置き換えれるかもしれない――相手としてキリエを選んだだけなのだ。
勿論、キリエはそれに気付いている。気付きながらも、心を痛め付けながらも、自分はノランにとって気軽に話せる相手なんだと、それだけで十分じゃないかと言い聞かせて、周りの眼を気にせず、ノランの前であることも忘れて、泣き崩れそうになるのを水際で踏み止めていた。
「そんな、落ち込むことじゃないでしょ?ほら、立ちなさいよ」
それでも、キリエはノランに構う。
まるで、山嵐のジレンマではなく、山嵐に恋をしてしまったただのネズミのジレンマのようだった。近づけば、傷付き、傷付けたことを相手は気付かない、そんな歪なジレンマだった。
「あ、ああ。ありがと」
「しゃんとしなさい!じゃないと、逃げられちゃうからね!わかった?」
「お、おう…………。なんか、お前に話したおかげで、吹っ切れた。あんがとな……じゃあ」
キリエの言葉で立ち直ったノランは、手を振りながら、駆けていった。
そして、ノランの言葉で心に深手を負ったキリエは、その場で動けずに、ただノランの駆けていった方を無感情に眺めていた――先へ行くノランと動けずにいる自分という構図を俯瞰的に眺めながら。
「泣きたいときは、泣かんといけんよ。泣かんと、治るもんも治らんくなる」
そんなキリエの背中を押す者がいた。
キリエの祖母だった。
祖母の手は枯れた枝のようだったが、その手からキリエの背中に伝わる温もりは、キリエの体中に巡った。それを感じていたキリエは、目元がそれ以上に熱くなっていることに気付いた。そして、頬に感じる水の冷たさは、伝う雫であるとも気付いた。
「ノランの朴念仁もここまでだったとわね」
この祖母の言葉は、ノランにとってはあまりにも厳しいものである――なぜなら、ノランは女心など知る前から女性を避けていて、その原因は女性陣にあるからだ。
「いいの。ノランは悪くないの。私が勝手に好きになって、勝手に焦って、勝手に振られただけだし」
それを知ってか知らずか、キリエは、責めるような祖母を、涙を拭いながら諌めた。その顔は、暗い影いまだに残るものの、生気は窺えた。しばらくすれば、時間の経過と共に暗い影もなりを潜めるだろう。
家に戻ったノランは、取り敢えず、リアンゼに弁当箱の忘失のお叱りを受けて、その声に反応して部屋から出てきたリシアに飛び付かれた。
「お兄ちゃん!あたしのために抜け出したんだね!お父さんおこるかもだけど、あたしがまもるから!」
リシアは、的外れなことを言いながらノランの腕の中でじたばたしていた。
「抜け出してきたというのは違うが、父さんにお前の相手をしろと言われたからお前のためというのは合ってるな」
今日何度目かの苦笑を浮かべながらノランは答えた。
「やったぁ!あたし、うれしい!」
きっと都合よく前半部分は耳に入っていないだろうリシアは、都合よく後半部分を耳にして、更にそのじたばたの激しさを加えた。
「何する?あっ、リーラちゃんのとこに行こ!」
提案というよりかは命令をするように言うリシア。ノランはそんなリシアと父が一瞬重なって見えたが、その幻覚を振り払うようにノランは首を振った後、首肯した。
ちなみにリーラというのは、今朝ノランに老夫が譲ると言った孫本人である。
「じゃあ、しゅっぱぁーつ」
それを承諾したとして、リシアはノランから離れると、彼の手を取り、歩き出した。質量の比からリシアがノランを引っ張れるわけがなく、ノランが、ただリシアの命令に唯唯諾々として従っているだけである。村のどんな女性もさらりと袖にするノランも妹には尻に敷かれているようだった。
ノランを伴って歩くリシアは鼻歌混じりに必要以上に腕を振って歩を進めた。ノランは気を悪くしたような様子はまったく見せず、リシアに引っ張られていたが、村の出入口に五人の大人、それも手に弓と背に矢筒を下げた屈強な男がたむろして神妙な顔を突き合わせているのを視界に収めて、ノランは一瞬足を止めた。
「うん?どうしたの?」
「ごめん。用事を思い出した」
それを敏感に察知してリシアが不思議そうにノランの方を振り向いて、その訳を訊いたが、ノランは何事もなかったようにごまかした。
「え~~!ようじって何?もしかしてまたどこかの知らない女と――」
「リシア」
「うっ、お、お兄ちゃんが悪いんだよ!」
また父直伝の下品な言葉を使用しようとしたリシアをノランは叱るも、リシアは逆上した揚句、責任転嫁までもやってのけた。そんな身勝手なことに慣れているのか、それともただ妹に甘いのか、ノランは嘆息するだけでだった。
「リーラのとこに先に行っててくれ。すぐに行くから、な?」
再び叱る代わりにノランはリシアの説得しに掛かった。
「むぅ~~。本当にすぐだからね、本当だよ」
頬を膨らませ、不承不承の態でリシアは承諾して、リーラの家の方にとことこと駆けていった。
ノランはリシアが角を曲がって姿が見えなくなったのを確認してから、男共の集団に足を向けた。
そのノランは、先ほどまでとは打って変わって、元々切れ長だった眼を更に細めて、見る人全員を震え上がらせるような鋭い光をその細めた双眸に宿し、体には近寄りがたい雰囲気を纏っていた。男性陣はこの姿のノランを知っていて、驚きはするが、腰を抜かすことはない。だが、この姿を知らない、というかノランが見せないように意識しているためにこの姿を知らない女性陣や年配の者は、このノランの眼に睨まれれば、卒倒することは必至である。
それほどにもノランの変貌した姿は見る者を圧倒する。殺気立っていると言ってもいい。ノランがそんな変貌を遂げるのは、決まって村の住人に危険が迫っていることを鋭い勘か第六意識かで嗅ぎ取ったときである。
そして、今回はその勘が当たっていた。
「どうしたんだ?」
「「「うおっ!!」」」
「の、ノランか。びっくりさせるな」
突然現れたノランに全員が同じ反応を見せるも、
「悪い。だが、これが俺なんだから仕方ねえだろ。で、どうしたんだ?」
ノランは、慣れているのか、平然と言葉を続けた。
ノランに話し掛けられた男は、他の男共に目配せをして承諾を得ると、おもむろに口を開いた。
「見回り組が帰ってこねえんだ」
見回り組というのは家畜小屋のグループが担当する害獣の撃退の班のことである。ただ、害獣撃退だけでなく、村の周辺を見回ることもかねているのである。とは言っても、何者の襲撃も受けてこなかったので、形だけのものだったりする。
なので、交代の時間を少し過ぎるのはよくあることだ。
「どれぐらい待ってんだ?」
それを知っていたノランは、過ぎた時間が少しではないとわかった。
「一時間だ。暇な奴等をかき集めて捜索をさせているが、まだ誰一人帰ってこねえんだ」
男は足元にある日時計を指差して言った。日時計はただ地面に棒を刺しただけのものであるが、それだけで時刻がわかる知識を村の人々は有していた。
ちなみにその日時計と知識をこの村にもたらしたのはミリアである。
「…………そうすると、ただの遭難ってなわけではなさそうだな。…………なら、とう――」
男共を観察するように見回して、遭難者の捜索にしては物々しい男共の装備や雰囲気からノランがある答えを口にしようとした瞬間だった。
そのノランの回答を代弁するかのようにそれほど遠くないところから女の悲鳴が上がった。
冷静にもノランは、その悲鳴が終わりが始まることを知らせる地獄の鐘の音のようだと思った。