変わらぬ朝
「もう朝だよ、お兄ちゃん!」
「ぐふっ」
ベッドの上で毛布も被らずに大の字で眠りこけていた少年の腹部に不意打ちの痛烈な一撃が加えられた。
咳込みながら目を開けると、腹部に跨がるように少女が座り込んでいた。少年の妹で年齢は十歳ぐらい。腰まである灰色がかった茶色の髪は艶やかに風に揺れている。目はくりっとしていて、色素の薄い瞳も大きく、吸い込まれるように澄んでいる。
しかし、そんな可憐と言って差し支えない少女が着ているものはお世辞にも綺麗とは言えなかった。縦に長い一枚の布を真ん中で二つ折りにして、折り目に首を通す穴を空け、両側を手を通す部分を残して縫い合わせたような粗末なワンピースは着古されているのか、薄汚れていて、至る所につぎはぎが窺えた。それは少女の服だけではなく、少年の服はそれ以上に汚れ、つぎはぎもそれ以上に目立ち、少年の寝ていたベッドのシーツや毛布に至っては石畳ように布切れを縫い合わせたいびつな出来である。
が、しかし、それは二人にとっての当然の風景であり、気にするようなことではない。それにはベッドの足の長さがそれぞれ微妙に違ってがたつくことや床が異常に軋んで今にも抜けるのではないかと思えることも含まれるのだ。
「何してんだよ」
少年は睨めつけながら言った。
「だって耳の横で叫んでも起きなんだよ!」
「…………わかったから、下りてくれよ」
かなり熟睡していたらしい。それで最終手段に打って出た妹を責めるのはあまりにも自分勝手だ。
「ふん」
少女は鼻息を荒くし、飛び降りた。そしてずいっと背伸びするようにして頭を突き出した。
「はいはい。起こしてありがと」
ため息混じりにその頭を撫でると、不機嫌だった少女は一転して年齢相応の曇り一つない満面の笑みを湛えた。
「リシア~。ノラン~」
気まぐれな妹を苦笑いを浮かべながら撫でていると、階下から女性の呼び声が聞こえた。
「はーい!」
と元気よく答えたのは少女、リシア。
「へーい」
と気怠げに答えたのは少年、ノラン。
リシアは大きな足音をたてながら、部屋を出ていって階段を下りていった。階下で「うるさい」と先程の呼び声の主、母のリアンゼに叱られているのが聞こえる。
――いや、床が抜けることを心配しろよ。
と、この場にいない母に心の中でツッコミを入れたノランはよっと立ち上がって部屋を出て、階段を下りていった。
下りた先は一階の八割を占める居間で(ちなみに二割は台所である)、真ん中に四人家族相応の食卓が鎮座している。四つの席のうち、一つがリシアで埋まっていた。
「お兄ちゃん、ここーっ!ここーっ!」
「はいはい」
叱られたことなんて忘れたように無邪気に隣の椅子をバンバンと叩く妹にせかされるように席に付いた。
とほぼ同時に目の前に朝食のライ麦パンが皿に載せられて出された。
「またこれ~」
リシアが不満を垂れる横で、それをだまだまと口に運ぶ。
「いらないんだったら、あたしが食べてあげるよ」
勝ち気なリアンゼの怒声を浴びせられることが明白だからだ。リシアは「む~~」と頬を膨らませて不満を控えめに表明しながら食べはじめた。しかし、不満が出るのも仕方がないと言えば仕方ない。というのも、今日で一週間連続で食卓にライ麦パンが登場しているのだ。朝食はライ麦パン一個、夕食を兼ねている遅めの昼食はライ麦パンと申し訳程度のバターと薄味のスープである。このメニューは農作物が取れない冬の農家の一般的なものである。
「父さんは?」
悪戦苦闘しながら、乾いて硬質化したライ麦パンを一口大の大きさに割いて口に運ぶ。そうしないと咀嚼しているうちに口の水分を全て吸い尽くされ兼ねないのだ。そのことをリシアにも教えてやるのだが、学習能力が低いのか大口を開けてライ麦パンにしゃぶりついて食いちぎろうとしている。しばらくの苦戦の末に成功するも、既にその時点で口の水分が枯渇して思うように噛み切れないようで、長い間口を動かしている。
「牛舎にいるよ。食い終わったらさっさと手伝いに行きな」
リアンゼは台所から水を入れた木のコップをそんなリシアの前に置いて言った。リシアがそれを早飲み競争のように口内のパンとともに飲み干した。アルコールでも入っているかのようにふぅい~と満足そうに甲の裏で口元を拭ったが、四分の三ほど残っているライ麦パンを見るやいなや己の失態に気付いてリアンゼの方に振り返った。
リアンゼは居間の隅にある今にも足の部分が折れそうな腰掛けに座って編み物している。荒っぽい口調からは想像できないような綺麗な手つきで編んでいる。そうして編み上げたセーターやマフラーを売ってお金にするのだ。編んでいるセーターは完成間近でセーターの胸部にあたるところにデフォルメされた大きなウサギの顔が刺繍されていることを鑑みるに今回は急激に成長したリシアのために編んでいるのだろう。
「水瓶はもう空だよ。欲しいなら井戸から汲んでくるんだね」
手を止めずに言うリアンゼ。
「え~~」
「食べ終わったから俺が汲んでくるよ」
足をばたつかせながら遺憾の意を表明する妹を見兼ねてノランはちょうど最後になった一口を口に放り込んで席を立った。
「ありがとっ、お兄ちゃん!」
「あんたね」
「はいはい」
ノランは面倒事をしてくれることに対する感謝の笑顔と娘の自立を邪魔することに対する咎めの視線を向けられたが、軽々と受け流す。
「井戸はまだリシアには危ないだろ?それに父さんにも持って行きたいしさ」
そう言ってノランは水筒の革袋を肩から下げて自分の胴周りと同じぐらいの水瓶を抱えて外に出た。
外は雪は積もっていないものの肌を指すような冷たい風が本通りに面するように隙間なく軒を連ねている家々の間を流れている。それらの家々は所々に補修の後があったり傾いでいたりして間近に迫る本格的な冬を越すには頼りなさそうなたたずまいである。それでも、それぞれの家からは活気のある声が聞こえる。温もりは備えてあるようだった。
ここはコラナ村という山に囲まれている田舎の村である。立地の所為で旅人も行商人も盗賊さえも足を向けることのない貧しい村である。栽培のできる時期は春と夏に限られだけでなく、土地も痩せている。特産物も特になく、誇れるのはここ百年の間天災や戦災に見回れなかったことと徴税人が寄り付かないために税がないことぐらいである。だが、ここは国の圧政から逃れて行くあてのない者にとっては天国だった。元々ここは戦争から逃げてきた者が作った村だが、今では新たに移住してきた住民やその子孫が大半を占めている。そんな人達が作ったいくつかの井戸のうちの最寄りの井戸にノランは向かっている。山に囲まれているため水だけには困らないのだ。とは言っても、豊富な水資源を求めて移住してきた人はいまだいない。
ノランは井戸にたどり着くと、既に二人の先客がいたので、その後ろに並ぶが、汲んでいる者が近くの老夫だと知ると、水瓶を置いてそちらに駆け寄った。
「おお!ノランかね。世話になるのう」
「早く済ませたいだけだっつーの」
「ノランは優しいのう。やはり儂の孫を譲れるのはノランしかおらん」
「また、それかよ。あんたの孫はまだ六歳だろうが」
「ほっほっほっ。そうじゃったかのう」
と実のない無駄話を交わしながらノランはせっせと井戸を汲む。老夫の分が終わると、次に並んでいた近くに住む三十代女性の分も無駄話をしながら汲んだ。
以下はその一部抜粋である。
「お父さんの手伝いが終わったらうちに寄ってらっしゃい。何時でも準備はできてるから」
「もう何の準備かは訊かねえからな」
「もう、つれないわね」
「つられたら俺の人生そこで終わりだからな」
「あっ、ひっどーい」
「それにあんたには旦那がいるだろ」
「それが旦那もつれないのよ」
「それについても俺はアドバイスしただろ」
「そうだけど…………」
「そうだけどじゃねえんだよ」
そう言って水瓶を女性に押し付けて帰らせる。やっとのことで自分の水瓶に取り掛かろうと後ろを振り向いたノランの目には物欲しそう――この場合は物ではないが――な目をした同年齢の女子と初老の女性となぜか先程の老夫が自分の水瓶の後ろに並んでいるのが映った。
「…………ちょっと待ってろ。すぐに汲んでやるから」
今頃家ではリシアがノランの帰還が遅いことに対する体を最大限に使った怒りの表明をしているのだろうが、断れないのがノランの性格であった。この三人を含めた村人全員はそれをよく知っていてそれに付け込んでいたりする。
「あーっ、くそ!何であんたがまた並んでんだよ!」
「帰る途中で転んでしまってのう。瓶は割れんかったのじゃが、水がほとんど流れてしまって、のう」
「のう、じゃねえんだよ。この、馬鹿!持ってってやるから待ってろ!」
「やはりノランは優しいのう。儂の――」
「孫はまだ六歳だろうが!何度同じことを言わせんだ!」
「ほっほっほっ。そうじゃったかのう。じゃが、すごくお主に懐いておるしな」
「そういう問題じゃねえんだよ!」
付け込まれているのを薄々気付いているのか、体力の消耗を顧みずに叫ぶノランはやけくそに水を汲んでいる。
三人に更に追加で一人入った分も汲んで老夫の水瓶を家まで送り届け、やっとの思いで家にたどり着いたノランには幸か不幸か待ちくたびれたリシアの可愛い罵声が浴びせられた。
「お兄ちゃんはあたしがいるというのにまたどこの女とちちくり合っていたの!」
ノランはまさかの言葉に唖然としながらもリアンゼを睨め付ける。睨め付けられたリアンゼは何事もなかったように編物をしている。
「はぁ~~」
と盛大にため息を付いたノランはリシアに御下品な言葉を以後絶対に使わないことと家族同士では結婚できないことをよく言い聞かせたから革袋を水で満たし、リシアの追及から逃げるようにそそくさと出ていった。