匂いたちて
テーマ:実話系
家は貧しかった。産まれた時より父親は影すらなく、母と二人、狭いアパートで暮らしていた。
母はそれがたつきだったのだろう、いつもミシンをかけていて、私はその足元で絵本を読んだり、手遊びをしたりしていた。
五歳の夏、いよいよ生活が立ち行かなくなって私は施設に預けられた。寂しかったが、三ヶ月に一度、母は会いに来てくれた。
アパートでの暮らしではいつも、あっぱっぱや毛玉に覆われたセーターにパンタロンだった母も、どこから引っ張り出してくるのか、その時ばかりはスーツだった。
袖は短く、スカートのファスナーはあがりきらない、あきらかにサイズの合っていない濃紺のよそゆきを着た母は、いつも樟脳の匂いがしていた。
つんとくるあの匂いさえも母の一部で、私には懐かしく愛おしかった。
八歳の春、母は再婚する。私は施設に残されたままだった。彼女は身体に合った赤や黄のスーツで会いに来るようになった。樟脳の匂いはもうしなかった。ただ、濃い香水の匂いだけがするようになっていた。
その後、母とは疎遠になり、高校を卒業した日からあってはいない。だから二十年ぶりに見る遺影の顔は知らない老女のそれだ。
再婚相手とは結局別れたらしく、身寄りもないまま病院で亡くなり、伝を辿って私のところへ連絡が来たらしい。
二人で暮らしていた頃よりは広いアパートの一室で、私はその遺品を片付ける。欲しいものなどない。捨てるための準備だ。
スナックを経営していたとかで、派手な衣装も何もかもに濃密な香水の匂いが染みついていて、吐き気がする。
ドレッサーに林立する中身の残るビンもそのまま黒いゴミ袋に投げ込む。浅い抽斗を抜き、この中身もクローゼットやタンスの中身と一緒くたに段ボールにまけていく。
と、なにかがほとりと零れた。
扇子だった。なんとなしに広げてみると、繊細な花模様の透かし彫りがあでやかな品だった。
作業であつくなっていたこともあり、私はほてった顔を扇いだ。
するとふわりと鼻先をかすめた匂い。香水ではない。
夢中で手を動かし、私は鼻をうごめかした。
鼻の奥がつんとなる、この独特な匂い。
私は憑かれたように扇子を扇ぎ続けた。
くどい香水の匂いは駆逐され、樟脳の匂いが部屋を満たしていく。
耳の奥から、たかたかたかかたか、とミシンの音がよみがえってくる。
細い背中、ひっつめた髪、えくぼのあった右の頬。
私は泣いた。はじめて母の死を悼んだ。