亡者舟
テーマ:海
霧の朝は海に行くんでないぞ 亡者舟がぎっちらこ お前を連れにやってくる
私が生まれたのは、磯臭い空気と寂れた漁港があるだけの小さな村だ。もう何十年と帰っていない。親父とは義絶状態だ。
母は私が四つの歳に病死した。親父は通夜の晩から幼馴染の女を隣に座らせ、そのまま私の継母とした。半年後には弟が生まれ、以後毎年のように弟妹が増えていった家に、私の居場所はどこにもなかった。
あれは中学入学を目前にした春の夜だった。便所に起きた帰りに、親父の寝室から聞こえてきた男女の声があまりにも生々しくて、私は独り夜の浜へと逃げ出した。
岩場で膝を抱え、ただぼんやりと夜を明かした。
だんだんと空が白みはじめるのにあわせ、ゆるりと海から霧が立ちあがる。それは見る間に濃くなり、指の先も見えなくなる。まるで闇のようだった。
白く、仄明るい、闇。
霧の朝は海に行くんでないぞ 亡者舟がぎっちらこ お前を連れにやってくる
空も海も自分の足元さえも一緒くたになり、何も見えない中、私は呟いた。幼い頃に祖母から聞かされた昔語りの一説。
それを信じて震えるほど幼くなかったが、ここではない所へ行けるなら、あの世でもよかった。
ここにはもう私の居場所はどこにもないのだ。
ふと白い闇の中にぽつりと黒い点が浮んだ。目を凝らすと、それは小さな手漕ぎ舟らしいとわかった。
艪を操る力強い船頭の動きが頼もしい。舳先に座る人影も見えた。とても遠い距離なのに、それが誰なのか私にはすぐにわかった。母さんだ。
私は夢中で岩場から海へ飛び込んだ。庭のように慣れた海を、船めがけて私は懸命に泳いだ。
船頭は艪を漕ぐのをやめ、膝を着いている。
母さんは船縁から身を乗り出し、手をさし伸ばしている。
母さん母さん母さん母さん母さん母さん。
腕も足も疲れて沈みそうになりながら、私は遮二無二泳いだ。
船の黒ずんだ板目。母さんの細い腕。病院の点滴で青く腫れていた肘の内側が、すっかり白く綺麗になっているのが無性に嬉しい。
もう少しで手が届く。私はさらに足に力を込めた。懸命に手を伸ばした。微かに爪が触れ、刹那母は迷うようにこぶしを握った。そして手を引いた。
驚く私の目の前で、立ち上がった船頭が再び艪を握り漕ぎ始めた。
ゆっくりと舟は遠ざかっていく。
私は母を呼んだ。船を止めろと叫んだ。
だが舟は戻らず、白い闇の向こうへと飲まれていった。霧は徐々に晴れ、見慣れた浜の光景と、波間に漂う私だけがとり残された。
母は私を連れて行かなかった。それも愛情だろう。しかし私は――。
白い闇の彼方の砂浜を並んで歩く大小の人影が、不思議なほどくっきりと見える。
別れを告げる暇もなく、輪禍に引き離された妻と幼い娘。離したくない。別れたくない。
私は船端をぎりぎりと握る。船頭が応えるように艪に力を込めた。船の速度がいや増す。
浜は、もう目前だった。