砂糖壷
テーマ:雨
朝から雨が降る日、店は暇だ。雨宿りにかけこんでくる客もいない。
マスターもサイフォンも今は仕事を休み、ぼんやりと雨音を聞いている。
ウエイトレスもスツールに腰を下ろしてはいたが、手は休むことなくせっせと紙ナプキンを折っていた。
時間が止まったような空間に入口のカウベルが響き、黒い傘を傘立てに押しこんで客が入ってくる。数少ない常連の一人だった。
彼女は立ち上がり、はにかんだような笑顔でむかえながら、いらっしゃいませと言った。
応えるように彼は少し頭を下げた。いつも座る奥のテーブルにつくとお冷を運んだ彼女に、ブレンドと告げる。
彼女はカウンターにとってかえすが、狭い店だ。注文はマスターにまで聞こえているし、彼はいつもそれしか頼まない。
マスターと共に仕事を再開したサイフォンがこぽこぽと音を立てはじめると、芳しい香りが広がっていく。
出来上がった珈琲を、厚手のカップに注いだマスターは、「さとうさんあがり」と小さな声で言う。
彼女はちょっと笑って、うけとった珈琲をトレイにのせると、エプロンの裾をおどらせながら、彼に届けた。
彼を「さとうさん」と、マスターと彼女は呼ぶけれど、それがほんとうに彼の名前なのかは、ふたりとも知らない。ただ彼はいつも珈琲にスプーン三杯の砂糖をいれる。きっかり三杯の砂糖。たくさんの砂糖。だから、「さとうさん」。
そんな親しみをこめたあだ名を献上された彼は、学生だろうか。週に三、四回、昼過ぎにおとずれる。そして今日もまた、銀色のスプーンに白い砂糖をのせて、黒い珈琲にゆっくりとかしていく。
そして彼女は手を休め、しばし彼をみつめた。
雨音だけが聞こえている。
珈琲を飲みほし、生真面目な横顔で少しの間、外をながめてから彼はいつものように帰って行く。
カウベルの余韻を彼女は寂しげに見送った。
その後は訪れる客もなく、彼女は一日の仕事を終える。
マスターは彼女を見送り、休憩の札をドアの表にかけると奥で早い夕食をとる。
静けさと珈琲の香りが染みた店内。
誰もいないはずなのに、ふと気がつくと客がいた。カウベルも鳴っていないというのに。
それはひどく濡れた客だった。
歩くたび、全身から滴る雨水が木目の床に跡をつけていく。
ゆるゆるともたげる顔は、つい今しがた帰ったはずの彼女だった。
彼女はゆっくりと奥へ、さとうさんの指定席へと歩いていく。しばらく砂糖壷を見つめていた彼女は、濡れた手でそれを持ち上げた。
そっと抱きしめ、頬を寄せた。
髪から伝う雫なのか、その頬はひどく濡れていた。
そして今度はカウベルを鳴らし、近所の中華飯店のおかみさんが飛び込んでくる。忙しく甲高い声を上げ、おっとりと出てきたマスターにまくし立てた。
――ウエイトレスのあの子そこの交差点で車に
あごを落としたマスターが、おかみさんにひっぱられて店をとびだしていく。
店にはもう、誰もいない。
濡れた床にぽつんと、砂糖壷だけが残されていた。