枕屏風は囁く
テーマ:晴れ着
医者からの帰り、十四になる娘が綺麗と呟いた。それは俥に乗った千草色の振袖に緋縮緬の半襟をのぞかせた令嬢だった。
うっとりと見送り、娘は父と二人、またゆっくり歩き出す。
傾いだ長屋に戻ると、娘は疲れきった様子で薄い布団に横になる。その寝息が穏やかなのを確かめてから、父は仕事に取り掛かる。
娘は面差しも気性も亡き母に瓜二つ、おまけに弱い身体まで瓜二つだった。かさむ薬代は貧しい暮らしを更に押し潰し、父は髪置きも帯解きの祝いもしてやれなかった。
御一新から十年余り、平等の世だ文明開化だと浮かれ立っているが、何が変わったのか、無学な父にはわからない。お大尽は金持ちのまま、自分達は貧しいまま。表具師とは名ばかりの、古道具屋が持ち込む壊れかけた屏風を直すだけの手間仕事が、たずきだった。
梅が咲こうかという頃に名残の雪が降り、深深とした寒さは弱い娘を、更に弱らせた。薬を買う金もなく、父は神仏にすがるしかなかった。
その日も神社に向かえば、朝まだき拝殿で供もつけず緋褪の振袖の令嬢が一人、何の祈願か長々と手を合わせている。
父はその横顔をじっと眺めた。病み衰えた娘の頬と厚く白粉を塗った令嬢の頬。継ぎをあて伸ばした着物と正絹の大振袖。彼我の差に惨めさが怒りに変じ、その後をつけると玉垣の外れでその背を突き倒した。令嬢は声もなく前のめり、ぱくりと割れた額から血が流れ出る。暫し立ち尽くした父は、動かぬ体から両袖を奪って逃げた。
手に入れたそれは、娘には古着屋が傷物の裂をわけてくれたと嘘と吐き、長屋にあった古い枕屏風に上張りして美しく仕立て直した。喜ぶ娘の笑顔に、父の呵責は消える。
蒼い頬にほんのりと朱がさして娘は幾分元気を取り戻したように思えたのも数日。
娘は悄悄と枕屏風を片付けてくれと、父に懇願する。せっかく作ってやったものを何故かと問えば、始めは閉ざしていた口を重く開いた。
あの枕屏風が囁くの。眠ろうとすると囁くの。
枕屏風が話すわけがない。あれが気に入らないなら、そう言えばいい。
沸然となる父に、娘は細い首を横に振り懸命に訴えた。
枕屏風はこう囁くの。
お前の親父が 女を殺めて 奪ったこの衣 何にしようか 誰にしようか
歌うような娘のか細い声に、父は真冬の井戸水を浴びたように震えた。娘があのことを知っているわけがない。ならば、本当にこの枕屏風が囁くのか。
すすり泣く娘の脇から、父は枕屏風を取り上げた。土間に打ち捨て、火鉢から付木に移した火を投げつける。
容易く燃えついた枕屏風から、裂は剥がれて空を飛び、あろうことか娘の布団に落ちた。父の目前で、娘が火に包まれていく。
枕屏風が囁いた。
何にしようか 命にしよか 誰の命にしよか 娘の命にしよか
微かな囁きは、父の喚きにかき消される。娘は真朱の柱となり、明々と長屋を照らして焦がしていった。