さよならゲーム
高く上がった白球は、八月の陽射しを受けて、きらっと光った。
大きく放物線を描き、懸命に追いかける外野の頭上を、悠々と飛び越える。
あれは入るな。ジャスティンはスタンド最後部席で、フライドポテトを口に放りながら、球の行方を目で追った。
白球は後部フェンスを越えて、人もまばらな観客席の間に落ちた。
視線を落とすと、二塁にいた選手がホームインしたところだった。続いて本な塁打を決めた打者も帰ってきた。
攻撃チームの歓声とともに、電子スコアボードが点滅する。ホワイトリーブズに二点が追加された。
ここで八回裏が終了。攻守が交替し、九回表、先攻オーシャンズの打者がバッターボックスに入った。
現在の得点は、一対三。ついさっき二点を追加したホワイトリーブズがリードしている。オーシャンズが、この回を頑張って同点にでも持ち込めれば、まだ希望は残される。が、ジャスティンは、このままホワイトリーブズが逃げ切ると見ていた。
両チームは、地域の趣味人が寄り集まって結成されたアマチュアチームだ。同じ区域の野球チームは少ないので、毎週の対戦カードのパターンは決まりきっている。
オーシャンズとホワイトリーブズは、言ってみれば宿命のライバル同士だ。どちらも同じくらいの強さで、試合はいつも拮抗している。それでいて、互いの仲は良い。
フライドポテトのパックが空になったので、くしゃっと丸めて脇のベンチに置く。
塩にまみれた指をジーンズで拭いている時、ふと人の気配を感じて、ぐるりと周囲を見回した。
観客はスタンドの中央から前方席に、ぱらぱらといるだけだ。ジャスティンの周りには誰もいない。
気のせいかと思って体勢を戻そうとしたが、視界の端で妙なものを捉えたので、そちらに顔を向けた。
ジャスティンの背後、つまり球場外周フェンスに、パーカーを着た若い男が張りついている。
男は壁に足をかけ、フェンスに指を絡ませて、器用にバランスを保って立っていた。
彼はジャスティンの視線に気づくと、「よー」と馴れ馴れしく手を振った。
「今これ、どっちが勝ってんだ?」
若者はグラウンドを指差した。ジャスティンは肩をすくめ、投げやりに答えた。
「スコアボード見れば分かるだろう。ホワイトリーブズが勝ってる」
「打ってる方?」
「違う、守備やってる方だ。ユニフォームに青いラインが入ってるのが、先攻のオーシャンズ。ヘルメットが真っ白いのがホワイトリーブズ」
「へー」
若者は感心したように頷く。まるでジャスティンから、何にも変えがたい貴重な情報を仕入れたかのようなリアクションだ。
(なんだコイツ)
やけに馴れ馴れしい態度はいいとして、ジャスティンが気になるのは、彼が立っている場所である。フェンスに張りついているのも、別に構わない。問題なのは、フェンスの位置が地上から四メートルの高さにある、というところにある。
足がかりになるようなものなどないはずだ。どうやってここまで登ったのだろう。
そんなことを思っているうちに、パーカーの若者はフェンスに足をかけ、するすると登り始めた。あっという間にてっぺんに到達し、ひらりと跨いでこちら側に身を乗り出す。そしてその高さから飛び降りた。
とんでもない身体能力に、ジャスティンはぽかんと口を開けた。あれだけ動けるのなら、四メートルの壁も難なく登れそうである。
「試合、あとどのくらい続くんだ?」
人懐っこそうな笑みを浮かべて、彼は訊ねた。
歳はあまり違わなそうだ。どこかやんちゃな雰囲気を醸し出している。
「これで最終回だ。たぶん白が逃げ切って勝ち」
答えたちょうどその時。先攻の攻撃が終わった。オーシャンズは追加点を取ることが出来なかった。ジャスティンの読みは当たった。
選手たちが一斉にベンチに戻っていく。その途中で、両チームは互いの健闘を称え、朗らかに肩を叩き合ったり、握手を交わしている。
「あれ、もう終わりかよ」
パーカーの男は、ジャスティンの側でグラウンドを見下ろしている。
「後攻のリーブズが、八回裏で勝ち越したからな。オーシャンズが点取れなきゃ、そこで試合終了だ」
嫌な幕切れだ。胸の中に潜んでいるしこりが、うずいたような気がした。
ジャスティンは彼を見上げた。
「野球知らないのか?」
「やったことねえ」
ジャスティンには、にわかに信じがたい返答だった。
「マジかよ? やったことなくたって、野球のルールくらい男なら誰だって知ってるもんだろうに」
「そうなのか?」
「運動出来そうじゃないか。学校で友達と何やってたんだ」
「俺、ガッコウ行ったことねえもん」
パーカー男は肩をすくめた。それから視線をジャスティンに移す。
「あんたさ、いつもここで試合見てね?」
「何で知ってるんだ、そんなこと」
「俺が覗いた時、いつもここにいるから」
ということはこの男、いつもあんな風にフェンスにしがみついて観戦していたのだろうか。
「普通に入り口から入ってくればいいだろう」
「大丈夫大丈夫、俺、疲れてないから」
フェンスに張りつくのは疲れるだろう、と気を遣って「入り口から入れ」とアドバイスしたわけでは決してない。
パーカーの男と不毛な会話を続けている間に、選手も観客も球場から姿を消していた。
ジャスティンはフライドポテトのパックをポケットに突っ込み、ベンチの間をすり抜けてスタンド席をあとにした。
後ろからパーカー男がついてくるのは、さっきのアドバイスを採用して、ちゃんとした出入り口から出ようと思ったからだろう。ジャスティンは彼を気にしないようにした。
球場の外に停めていたバイクに跨り、ヘルメットをかぶる。エンジンをかけたところで、パーカー男が声をかけてきた。
「なあ。今度さ、野球教えてくれよ。ちょっと興味あんだよな」
「なんで俺が?」
「詳しいみたいだから。好きなんだろ? 野球」
パーカー男は子どものように、緋色の瞳をきらきらさせている。よく見ると彼の両耳には、目の色と同じような紅いリングピアスが、合計八個ぶら下がっていた。
「好きじゃないさ」
それだけ言い、ジャスティンはバイクを発車させた。
あの市民球場には、毎週のように通っている。利用するのはアマチュアだけで、プロの野球団とはまるで縁遠い、古くてみすぼらしい球場だ。
区の持ち物であるはずだが、区は早々に球場を見捨てた。今では地域住民――主に野球チーム――が、協力し合って管理している状況だ。だから入場料など払わず、自由に出入り出来る。
いつからそういう管理方法になったのか、はっきりした時期は分からないが、少なくともジャスティンが小学生だった頃には、まだ区の手入れがあったと記憶している。
毎週日曜日には、どこかしらのチームが試合を行っていて、選手の家族や友人、観戦が趣味の近所の人々が、ぽつりぽつりと応援しに来ている。
ジャスティンは、どこのチームも贔屓にしていない。どのチームにも知り合いはいないので、応援する義理がないからだ。
では、試合観戦が趣味なのかと問われれば、素直に頷くことも出来なかった。
ジャスティンは観戦しているのではない。
ただ、見ているだけだ。
次の週。午後二時のプレイボールより少し遅れて、球場に足を運んだ。
今日の対戦はパンサーズとディアーズだ。これは荒れるだろうな、とジャスティンは思った。この二チームは相性が悪いのだ。
いつもの席へ行くと、その前の席に、あのパーカー男が座っていた。何かをもぐもぐと食べている。
彼はジャスティンに気づくと、「よー」とまた馴れ馴れしく手をあげた。
違う席に行こうか、と一瞬考えた。だが、パーカー男のせいで習慣を変えるのは何だか癪なので、平常どおりに定位置に座った。
しばらく観戦していると、前方のパーカー男が振り返って、
「はい、おすそわけ」
と、スコーンを差し出した。まるで近所のおばさんのように、やや強引に押し付けてくるので、仕方なく受け取った。
「手作りなんだよ。彼女の」
パーカー男は「彼女の」の部分をやたらと強調して言った。うすらにやけ笑いが若干気持ち悪い。黙っていればそれなりの顔立ちだと思うのだが、軽い喋り方で損をしている気がする。
パーカー男は試合中、あれはなんだ、これはどういう判定だ、今のはなんで駄目だったんだ、と、何度も質問してきた。ジャスティンはそのたびに説明してやらなければならず、落ち着いて試合観戦することが出来なかった。
最初の予想通り、試合は荒れに荒れて、延長十二回の末、ディアーズが勝利を収めた。
「いろいろ教えてくれてありがとな。面白いもんだな、野球って」
試合が終わり、選手らが後片付けを始めると、パーカー男はジャスティンを見上げて、そう言った。
「あんた、ひょっとして選手だったとか? すげえ詳しいからさ」
度重なる質問のおかげで、パーカー男の性質を多少理解したジャスティンは、ここで何も答えなければしつこく何度でも訊いてくるだろう、と判断した。
「選手とか、そんな大げさなものじゃない。ただ……そうだな、まあ……一応やってた」
「おお、すげえな。ああいうチームに入ってたのか?」
「あ? ああ」
「プロにはならなかったのか?」
パーカー男の言い方が、「そうなるのが当然なのに、なぜそうじゃないんだ」というようなニュアンスだったので、ジャスティンとしては苦笑するしかなかった。
「あのな、プロになれる奴なんて、ほんの一握りだぞ。プロになれたとしても、誰からも名前が知られるスター選手になれる奴は、もっと少ない」
ジャスティンは、その“ほんの一握り”になることも出来なかった。
だが。
“ほんの一握り”の中に食い込み、ひょっとしたら更に上の段階に進めたかもしれない男なら、知っている。
パーカー男は席を立つと、一段登ってジャスティンの隣に座りなおした。
「なんか訳ありっぽいな。何だよ。何があった? いつもここに来るのと、なんか関係あんの」
妙なところで勘のいい男だ。話すのは面倒だが、はぐらかせばもっとしつこくしてくるかもしれない。
どうせすぐに忘れるだろうし、この先も付き合いが続くわけではない。そう思ったジャスティンは、今まで誰にも打ち明けたことのない話を、会ったばかりの青年に語り始めたのだった。
*
ジャスティンが野球を始めたのは、七歳の時だった。父親に連れられて、メジャー球団のホームスタジアムで観戦したのがきっかけだ。ナイターゲームだった。
たくさんのスポットライトに照らされて、天まで届かんばかりの歓声を浴びて、プロ選手たちが白熱の試合を繰り広げる。
スタジアムを飲み込む熱狂に浮かされて、ジャスティン少年はすっかり野球の虜になった。
その年の星誕祭に、父親からバットとグローブをプレゼントされたことで、ジャスティンの野球人生は始まった。
放課後は、日が暮れるまで白球を追いかけた。休日は父がコーチになって、練習をつけてくれた。地元のリトルリーグに入って、キャプテンを務めたこともある。その当時の試合で、いつも利用していたのが、この市民球場なのだ。
中学校に上がっても、ジャスティンの夢は変わらなかった。
プロのリーガーになる。
父親と同じように。
父はメジャー球団に籍を置く、プロの野球選手だったのだ。
父は心根のまっすぐな、剛直な人だった。常に己を律し、野球選手としての誇りを持ち、惜しまず努力を重ねた。
ジャスティンがプロを目指すと宣言してからは、息子の教育にも熱心に取り組んだ。父は息子に期待を寄せ、息子もまたそれに応えようと努力した。
父子の努力の甲斐あって、ジャスティンは地域でも抜きん出た実力を持つジュニア選手へと成長した。
将来はプロになれるだろう。父子も、周囲の人々も、そう考えていた。
だが、ジャスティンはプロリーガーになれなかった。
いくら血の滲むような努力を積み、実直に夢を追いかけても、それらがもっとも望む形で報われるとは限らない。
高校に上がった途端、彼以上に才能に恵まれた選手らが何人も頭角を現していき、ジャスティンの影は薄れていった。負けじと更に練習を重ね、這い上がろうとしたが、立ち塞がる「才能の差」という、見果てぬ高さの壁を越えることは出来なかった。
ジャスティンは、「人より野球の出来る凡人」に過ぎなかったのだ。
恵まれた才能を持つ選手たちに、プロスカウトが群がる中、ジャスティンには誰も注目しなかった。彼の父親がプロリーガーであっても、それは彼にスポットライトを当てる助けにはならなかった。
父もまた、凡才の一人でしかなかったのだ。
父は“ほんの一握り”の中に食い込めたにも関わらず、二軍止まりで、それ以上は芽が育たなかった。
それでも父は腐らず、毎日努力し続けた。父はもっと評価されてよかったはずだと、ジャスティンは思っている。だが結局父は、最後までヒーローインタビューを受けることはなかった。
*
「最後の試合はナイターだった」
もらったスコーンを食べきったジャスティンは、包み紙をくしゃりと丸めた。パーカー男の彼女は料理上手らしい。
「その頃、親父はやっと一軍に昇格したばかりで、その試合は昇格後から四回目のゲームだった」
市民球場には、もはや人の姿はなく、ジャスティンとパーカー男だけが取り残されていた。
「親父のところのソルジャーズ対マウンテンズ。シーズンの順位が決まる大事な一戦だった。これで勝ったら、決勝リーグに上がれる。そういう試合だ」
その試合を、ジャスティンは母と二人、スタジアムで観戦したのだ。
観客席は満員。熱気と絶叫がスタジアムに渦巻く中、ジャスティンと母親は、祈るような思いで、試合を見守っていた。
「九回表まで零対零。どっちのチームも殺気立ってた。先攻はソルジャーズで、親父は三人目のバッターだった。ここで点を取れなければ、そのシーズンのソルジャーズは終わりだ。だけど結局、親父は打てなかったんだ」
あの時、周囲から聴こえてきた、父への失望と怒りの声は、長い間ジャスティンの耳に焼きついて、多くの悪夢を見せた。
「九回裏、マウンテンズの一番打者がホームランを放って一点を奪い、試合は終了。サヨナラゲームってやつだ。親父は散々叩かれて二軍落ち。それでも歯を食いしばってやってたけど、長く続かなかった」
運命の試合の翌年、春も間近な三月。
父は轢き逃げに逢い、そのまま回復することなく旅立った。
父を弔ったその日に、ジャスティンは野球を棄てた。
「ここに毎週来てるのは」
ぐるりと球場を見渡す。くたびれた古い施設である。だが、長年地元の人々に大切にされ、愛され続けている場所だ。
この場所には、たくさんの市民の思い出が詰まっている。
ジャスティンの思い出も、また。
「きっと昔が忘れられないからだ。俺が一番幸せだった頃の象徴が、この場所なんだ」
何のしがらみにも囚われず、ただ純粋に、ひたむきに、夢を追いかけていられた時代。むごい現実を知らずにいられた、宝のような時間だった。
なにより、ここにいると、父が側にいるような気がするのだ。同じ夢を抱きながら、同じようにその夢に敗れた父を。
最後の試合で打てなかった父を、ジャスティンは無言のまま責めた。声に出して文句を言いはしなかったが、心の底では父のふがいなさを恥じ、大役を果たせなかったことを批判していた。
だが、それはすぐに取り消した。スター選手でなくとも、一度もヒーローインタビューを受けなくとも、凡庸でもよかった。父はいつだって、ジャスティンにとってのヒーローだったのだから。
どんなに父を敬愛していたか、その大きな背中に力強さを感じていたか。父がどれだけ野球を愛し、努力を惜しまなかったか。
父を一番理解していたのは自分だと、ジャスティンは胸を張って言える。
けれどその想いを、ちゃんと伝えられていたのかどうかは分からない。
父は多くを語る人間ではなく、ジャスティンもまたそういう性質だから、互いに本心をどのくらい打ち明けられていたのか、今となっては知る由もない。
ただ、あの時。運命の試合のあと。
一言。
「お疲れさま」
「頑張ったね」
何でもいい。どうして言葉をかけてあげられなかったのだろう。
どうして、慰めを求めて差し出された父の手を、握り返すことが出来なかったのだろう。
父を失ってずいぶん経つが、後悔が拭われることはなかった。
(俺は、いつもここに、何をしに来ているんだろう)
球場を訪れては、亡き父を身近に感じているような気になり、贖いきれない悔いの埋め合わせをしているだけなのかもしれない。
何もかも、過ぎ去った遠い日の記憶なのに。
パーカー男は口を挟むことなく、黙ってジャスティンの話を聞いていた。少し喋りすぎたかもしれないなと、ジャスティンはそれ以上語るのをやめた。
パーカー男がいきなり立ち上がり、ジャスティンの腕を引く。
「行こう。下に降りようぜ」
「え?」
「いいから来いよ、ほら」
パーカー男の力は思いのほか強く、体力には少々自信のあるジャスティンでも、振りほどくことは出来なかった。
結局ジャスティンは、パーカー男にグラウンドまで引っ張り降ろされてしまった。
彼はジャスティンをバッターボックスに立たせ、用具室からボール三つとバットを一本持ち出してきた。そのバットをジャスティンに押しつけるように持たせて、自分はボールを持ってマウンドに立った。
「おい、何をしようってんだ?」
パーカー男の真意が分からない。この状況でやることと言えば一つしかないが、彼が何のためにそんなことをさせようとしているのか、その目的が図れなかった。
パーカー男はボールをマウンドに置き、そのうちの一つを手にとって、高らかに掲げた。
「しまっていこー!」
「だから、何だって言うんだよ?」
「俺が投げる。あんたが打つ。チャンスは三回だけ。OK?」
「人の話聞いてるか? こんなことして何になる。俺に何をさせたいんだ?」
「打つんだよ。あんたが。打つの。いいか? 投げるぞ」
パーカー男がボールを構える様は、笑えるくらい素人丸出しだった。見よう見真似でピッチャーごっこをする子どもそのものだ。
ジャスティンはため息をついた。仕方がないので少し付き合ってやろう。
バットを握ったのは何年ぶりだろう。不思議なもので、もうずっと触れていなかったのに、グリップを握り締めると、野球に明け暮れていた当時の感覚が徐々に蘇ってきた。
バッターボックスでバットを一振り、マウンドにいるピッチャー――パーカー男を見据える。
男は、ぎこちない動きで左足を振り上げ、大きく仰け反って投げた。
ジャスティンの側で、ひゅん、と風が切れたかと思うと、背後で何かが割れるような音がした。振り返ると、後ろの壁にボールがめり込んでいるのが見えた。
ジャスティンは頬を痙攣させながら、ゆっくりとマウンドに向き直る。
パーカー男は、なぜか照れくさそうに、頭を掻いていた。
「やー、悪ィ。ちょっと力加減間違っちまった」
「お前ふざけんな! あんなのデッドボールで喰らったら死んじまうだろうが!」
「だーかーら、悪かったって。次はちゃんとやるから。な?」
反省している様子のまったく見られないピッチャーは、平然と二つ目のボールを拾って、また下手な構えをとった。
忘れていた感情が、ジャスティンの中に湧き上がる。
(絶対に打ってやる)
思い返せば、父とこんな風にノック練習をしていたものだ。ジャスティンの納得がいくまで、父は何球でも投げてくれた。
ジャスティンは、野球の練習そのものよりも、むしろ父とそうやって、野球を通してのコミュニケーションをとれていることの方が嬉しかった。
パーカー男の二球目は、一球目と比べてずいぶんまともな速度に落ち着いたが、凄まじい暴投で、ぜんぜん見当違いの方向へ飛んでいった。
少しもめげていないパーカー男は、最後のボールを手に取り、再び天に掲げた。
「これが最後な。打てよー」
「打ってほしけりゃちゃんと投げろよ」
「投げてんじゃんか、ちゃんと」
「どこがだ」
文句を一切受け入れず、パーカー男は投げる体勢を整える。ジャスティンは深呼吸し、ゆっくりとバットを構えた。
三球目。これで終わりだ。もう後がないと思うと、たとえ遊びとはいえ、少し緊張するものだ。
それなら、遊びではなかった父は、あの日いったいどんな気持ちでバッターボックスに立っただろう。
重くのしかかるプレッシャーに、本当は逃げ出したかったのかもしれない。
だが、父は逃げなかった。逃げずに正々堂々と立ち向かった。
あの日、バッターボックスに立った父は、他のどんなスター選手よりも輝いて見えた。あの時、生涯で一番、父が誇らしく思えたのだ。
(親父……)
マウンド上のパーカー男が、左足を振り上げた。バットを握る手に力を込める。
(俺は、あんたの代わりにはなれなかった。あんたが果たせなかった夢を、追い続けることが出来なかった)
パーカー男が背中を反らす。ジャスティンは腰を落とした。
(俺は夢をあきらめた。だけど)
(あんたと過ごせたあの日々は、俺にとっての人生で一番の宝なんだよ)
マウンドから白球が放たれる。
(親父。あんたはいつだって、俺のヒーローだった)
ど真ん中直球。
金属がぶつかるような甲高い音が、市民球場に響き渡った。
パーカー男が顔を上げ、後方のスタンド席を振り返った。
ジャスティンが打ったボールは、大きく大きく放物線を描き、フェンスを越え、スタンド席を越え、外周フェンスをも越えて。
澄んだ青い空の中に消えた。
パーカー男は、ボールが消えた空をしばし見つめたあと。
「すげえなあ。かなり飛んだぞ、あれ」
バッターボックスに向き直り、溌剌とした笑顔を見せた。
「届いたんじゃねえかな」
ジャスティンは、彼につられて頬を緩めた。目尻から一筋伝い落ちたのは、汗ではないかもしれない。
真夏の球場には、グラウンドにたった二人と、歓声代わりの蝉しぐれ。