ターニングポイント
3rdに繋がるエピソードです。
オーダーしたノンシュガーのラテを片手に、店を急いで後にする。ビジネスバッグを脇に抱え、エレフォンの時計表示を確認する。
――ああ、大丈夫だ。このまま速足で行けば間に合う。
スチュワートは安堵のため息をついた。午後の休憩を長く取りすぎてしまった。次の取引先との約束は三時からだ。
今は二時四十分過ぎ。本当なら二時半前には店を出なければならなかったのだが、一度休ませてしまった腰を再び持ち上げるのは、なかなか至難の業だった。
疲れがたまっている。このところ睡眠時間も短い。毎日せわしなく働くスチュワートに、妻は「休暇をとったらどうか」と勧めてくる。そのたびに、「大丈夫だよ」と答えている。長年練りに練ってきたプロジェクトが、ようやく実現するかもしれない、という大事な時期だ。こんな時に休んではいられない。
だが、と、空になったラテのカップを公衆ダストボックスに放り込み、スチュワートは思う。
ある程度プロジェクトを進め、一段落したら、その時はまとまった休暇をとろう。旅行にでも行こうか。妻が行きたがっていた西エリアのどこかへ。たしか人気の遊園地があったはずだ。そこなら子どもたちも喜ぶだろう。
スチュワートは一時、仕事のことを忘れ、家族との旅行計画に思いを馳せた。歩き慣れた道だから、何も考えなくても目的地にはちゃんとたどり着ける。
その時スチュワートは、旅行のことで頭がいっぱいで、どこの角をどう曲がるか、などということに注意を向けていなかった。
気がつけば、大通りから一本外れた、一斜線道路の道を歩いていた。
――この通りは。
自分がどこを歩いているのかに気づいたスチュワートは、思わず足を止めた。
車道を挟んだ反対側に顔を向ける。
――また、来てしまった。
嫌な記憶が蘇り、スチュワートは表情を歪めた。
視線の先には、歩道から更に奥へ行ける路地があった。大通りがすぐそこにあるというのに、路地からは寂れた雰囲気が漂ってくる。
十年前のある夜、スチュワートは今日と同じように、この通りを一人で歩いていた。そして、あの事件現場に出くわしてしまったのだ。
通りかかったのは、たまたまのことである。今日のように急いでいたわけではない。約束事もなかったので、のんびりと帰路についていた。歩いていたのは、あちら側の歩道だった。
路地への入り口の前を通りかかった時、スチュワートは何気なく路地の方に顔を向けた。
建物の壁に、誰かがもたれかかって座り込んでいるのを発見した。
見た瞬間、スチュワートの心臓が跳ね上がった。遠目から見ても、その人物が赤い色に染まって――血まみれになっているのが分かったからだ。
――死んでいるのか? まさか、殺されて……?
鼓動が早くなった。あんな所で血まみれになっているなど、何者かに殺害されたとしか考えられない。
いや待て。襲われたのだとしても、まだ息があるかもしれないじゃないか。もしまだ生きていて、ここで俺が何もしなかったら、あの人は死んでしまう。もうすでに息絶えていたとしても、通報もせずに立ち去ったら、それもやはり問題だ。
スチュワートは腹をくくった。意を決し、血まみれの人物のそばに歩み寄る。
痩せた初老の男だった。紅に染まった衣服同様、本人の首筋や手にも、血が付着している。
「大丈夫、ですか?」
恐る恐る声をかける。反応がない。もう一度声をかけた。やはり返事はない。
勇気を絞って片膝をつき、そうっと顔を覗き込んだ。
血走った両目を、かっと見開き、ぽっかりと口を開けた壮年の男の顔が、そこにあった。顔も血を浴びている。どうやら返り血のようだ。
一体何を目の当たりにしたのだろう。男の表情はあまりにも壮絶だった。見開かれた瞳が、小刻みに震えている。
――生きている。
男の様子に肝を冷やしたが、死んではいないと分かり、スチュワートは安堵した。
「怪我をしたんですか? 何があったんですか? いや、まず警察と救急車を呼びましょう」
携帯端末を手に取り、緊急番号をタップしようとしたその時。
それまでピクリとも動かなかった男が、突然身を乗り出し、エレフォンを持つスチュワートの手首を掴んだ。
「な、何を……!」
スチュワートは腕を引き、逃れようとした。が、男の握力は思いの外強く、振りほどけなかった。
「離してください! 今、緊急車両を呼びますから! は、離せ!」
抵抗するスチュワート。しかし男は、ぎらついた目でスチュワートを見つめ、手首を掴んだまま、じわじわと寄ってくる。
男の口が開いた。
「バートルミーが、私の息子が……」
乾いた抑揚のない声。
「え、む、息子?」
「妻が、殺されて……」
「何を言ってるんです?」
「強盗どもが、我々を襲って、つ、妻が真っ先に狙われた……。奴らは銃を妻に突きつけた。バートルミーは妻をかばって前に出た。……そして、共に撃たれた」
「息子さんも殺されたのですか? とにかく離してください!」
スチュワートは、男の拘束を振りほどこうと、何度も試みた。だが、男はスチュワートを離さなかった。
「息子は、息子は」
男の呼吸が荒くなる。両目は充血し、血管が今にも切れそうなほど膨張している。
「バートルミーは、怪物になった」
「え……?」
「私の目の前で、怪物になったんだよ。分かるかね? 青く光る銀色の甲冑、兜は手に持ち、首そのものがない。胴体は戦馬。あれは、あれはまるで伝説上の……!」
男はスチュワートの両肩を掴み、自分の方に引き寄せた。
「怪物になった息子は、強盗の一人を、紙屑のように引き裂いた。そして残りの奴らと、妻を抱えて、どこかへ行ってしまったんだ……」
男の形相はどんどん凄みを増していき、スチュワートは恐怖を抱かずにはいられなかった。
「なあ君、こんなことが、この世にこんなことがあるのか? 私はこの目で見たんだ。バートルミーが化け物になってしまうところを。人間をいとも簡単にちぎってしまうのを。夢だ。これは夢だろう? そうなんだろう? なあ君、言ってくれ、これは夢だと。私の息子は怪物になどならず、妻も生きていると。言ってくれ、頼む、そう言ってくれ!」
その後、やっとの思いで拘束から逃れ、スチュワートは緊急番号に電話をすることができた。
男は駆けつけた救急車に乗せられ、総合病院に搬送された。残されたスチュワートは、警察からの事情聴取を受けた。
たまたま通りかかった無関係者ということが認められ、すぐに自由の身になったものの、頭の中では、あの男のことがぐるぐると渦を巻いていた。
事件は強盗殺人として捜査が始まった。男の妻と、彼ら一家を襲ったという強盗らは、その“残骸”と思しきものが、現場から遠く離れた雑木林で発見された。
息子バートルミーの行方は分からなかった。
事件後、スチュワートは一度だけ、男の見舞いに行った。しかしその時、彼は精神科病棟に移されていて、病院側から見舞いは控えてほしいと言われてしまった。
結局会うことはできず、次の機会も得られなかった。
精神病棟に入れられたのは仕方ないだろう。目の前で家族が暴漢に殺され、そのショックで、息子が怪物になってしまったと訴えだしたのだから。精神的ショックが大きすぎたゆえに、錯乱状態に陥るのは無理からぬことだ。
男とはあれ以来会うことはなかった。十年。時は過ぎ、いつしか忘れ去ってしまった出来事だったのだが。
事件現場を前にした途端、まるで昨日のことのように、鮮明に思い出された。
男の、地獄を見てきたかのような鬼気迫った表情。手首を掴む凄まじい力。彼が全身に浴びた血の赤。
事件はあれからどうなったのだろう。スチュワートの記憶に間違いがなければ、解決した、という報道はされなかったはずだが。
男はどうなっただろう。無事に回復し、退院出来ただろうか。
事情聴取を受けた時に担当の刑事から聞いたのだが、彼はどこかの大学の教授だったそうだ。専門はなんだと言っていただろう。どこの大学だったか。
思いを巡らせていた最中、はっと我に帰った。
「しまった、急がないと」
大事な用を思い出し、慌てて駆け出す。事件や男のことは、すぐに頭の中から消えた。
これから行うプレゼンを、必ず成功させてみせる。
さて、旅行先はどこにしようか。
スチュワートと入れ替わりに、大型犬を連れた小柄な老人が、その通りを訪れた。
長い白髪を一つに束ねたその老人は、忌まわしい事件の起きた路地の入り口に立った。
無言のまま、路地を見つめる。その間、犬はおとなしく主人を待った。
しばらくして老人は、無言のままそっとその場を離れた。
枯れた後ろ姿は、誰に見られることもなく、やがて大通りの雑踏の中に消えた。